深きモーリオンの患え(1)
特注のマスクを充てがわれ、憧れのあの子の執事……ではなく、天敵の雑用係として、慣れない仕事に奮闘するタイエン。しかも、何かを見せつけるように2人で頬を寄せ合っては、事あるごとにコソコソと内緒話をするのだから、タイエンとしては非常に面白くない。
それでも、少しの辛抱だと自分に言い聞かせ。一発逆転を夢見ては、たどたどしい手つきでコーヒーをご主人様に献上するものの。当然ながら、ご主人様は素人の淹れたコーヒーに合格点を出すような、甘ちゃんではなかった。
「……なんですか、このあり得ない不味さは。雑味も非常識ですが、香り高いクロツバメの風味も酸味も台無しじゃありませんか。高級豆を使っても、この程度とは……あなた、本当に使えない人ですね」
「す、すみません……」
だって、仕方ないじゃないか。今まで、コーヒーを淹れるだなんて雑用をしたことがないんだもの。
あからさまな嫌味と罵倒に打ちのめされ、マスク越しでも薄らと涙目になるタイエン。そうして、悲しさを演出しつつ、チラリとキャロルに慰めてくれと視線を送ってみるものの。……その彼女も、ガッカリした様子でタイエンのコーヒーを見つめている。
「……ダイアンさん、お教えした通りに淹れてくれましたか?」
「もちろんです! 豆を挽いて、お湯を注いで……」
召使いとして与えられた名前を呼びつつ言い淀むキャロルに、ここぞとばかりに仕事はしましたとアピールするタイエン……ではなく、ダイアン。しかし、自信満々の手抜き加減を見透かしたキャロルもまた、彼を甘やかすつもりはないらしい。どこか困ったように眉を顰めては、ダイアンを詰ってみせる。
「どんな風に、お湯を注ぎましたか?」
「えっ?」
「……私、きちんと申し上げましたよね? コーヒーにお湯を注ぐ時は一気にではなく、ゆっくり円を描くようにしてくださいね……って。そして、外側の土手を崩さないように、少しずつお湯を足してくださいと……お願いしたと思うのですけど……」
「あっ、えっと……」
「……なるほど。この酷い雑味は乱暴にドリップした結果ですか? はぁぁ……仕方ありません。今度は特別に、俺が淹れ方を教えてあげますよ。次は言われた通りにして下さい。……焦っても、何もいい事はありません」
「はい……」
結局、受け取ったコーヒーを飲み干す事もせずに、やれやれと立ち上がるラウール。そうして、ダイアンをコンドミニアムのキッチンに連行するが。渋々と言った様子を隠さないのを見ても、まだまだ教育が必要そうだと、ラウールは既に頭が痛い。
「……随分と不満そうですね?」
「いや、だって……」
「小間使いがそんなに気に食わないのですか? それとも、他に何か言いたい事でも?」
キャロルの視線がなければ、まだまだ世間知らずの青年は殊の外、大胆にもなれるものらしい。しおらしさを装うのも早々に止めたかと思うと、殊勝にもラウールの弱みを握っていると胸を張るのだから、ますます滑稽だ。
「僕はあなたの秘密を、知っているのですよ? それなのに、そんな態度を取ってもいいのですか?」
「おや……どんな秘密だというのですか?」
「あなたが、例の怪盗・グリードだって事実ですよ! ふふふ、僕がそれを世間にバラしたら……」
「あぁ、そんな事ですか。……別に、大して困りませんよ」
「えっ? ま、またまた、そんな強がりを……って、本当に? ラウールさんはそれ……困らないんですか?」
これだから、浮世離れした世間知らずはよろしくない。彼は自分の発言に、どれだけの信憑性があると思っているのだろう。
「いいですか、ダイアン。今のあなたがどんな立場に置かれているのか、よく考えてみてください」
「べ、別に助けられたとは思っていませんよ。大体、泥棒は犯罪じゃないですか! そんな薄汚いことに、キャロルさんを巻き込まないでください!」
「……全く、どの口が言うのやら。まぁ、いいでしょう。俺が聞いているのは、あなたの公的な立場について、です。助けた、助けられたの問題以前に、あなたを信じる一般市民がどのくらいいるのか、考えたことはないのですか?」
「そりゃ、もちろん、みんな信じてくれますよ。だって、僕は……」
そこまで言いかけて、ようやく彼も気づいたのだろう。自分が既に貴族ではないばかりか、逃亡中のコソ泥であるという事に。そして、目の前で呆れた顔をしている恋敵が、表向きはロンバルディアの王族で通っていることに。一般市民の皆さんが、この両者のどちらを信じるかと言われれば……損得勘定も含めれば、王子様の方が支持される可能性は圧倒的に高い。
「そもそも、あなたの言っている事実とやらを、立証する手立てはあるのですか?」
「だ、だって! 僕がグリードから受け取ったカバンには、ラウールさんの名前が書かれた鑑別書が入ってて……それでなくても、言ってたじゃないですか。ラウールさんの宝飾店は、泥棒の界隈では厄介な店で有名だって!」
「……俺はそんな事を言った記憶はありませんが……。そんなことでウチの店が有名だなんて噂、聞いたことはありませんよ? それに、俺が書いた鑑別書が入っていたからと言って、怪盗紳士だという決め手にはならないでしょうに。俺が発行した鑑別書の枚数は300通は降りませんし、鑑別書は普遍的な書類でしかありません。他の持ち主から鑑別書ごと盗まれたとする方が、遥かに自然でしょうね」
「そ、そんな……」
夢見た一発逆転の望みも、早々に撃ち落とされて。ようやく立場の違いを渋々と受け入れ始めたらしいダイアンに、コーヒーのレクチャーを続けるラウール。彼に「タダ働きのご用命」を与えた以上、それなりにこき使ってやろうと企んでいたものの。万事が全てこの調子では……安全に逃すまでにどれだけの躾が必要になるのだろうかと、ラウールは憂慮せずにはいられない。




