深きシトリンの憂い(15)
(あぁ、忌々しい! 思い通りにならなくて、本当に忌々しい! とにかく、今は……)
少しでも憂さ晴らしをするに限る。
秘密の密会場所から、こっそりと中庭へ出ては……誰もいない事を、入念に確認する。そうして、誰もいないことが分かると、気分一新とばかりに獄舎へズンズンと大股歩きで進むラインハルト。しかし……攫ってきた花嫁が心を開いてくれない鬱憤を晴らそうと、生贄がいるはずの牢を覗いてみても。そこには誰1人おらず、スケープゴートに仕立てるはずだった哀れな使用人(偽物)の姿もない。
「罪人はどうした?」
「あぁ、彼ですか? ロンバルディアの王子様に引き渡しましたよ?」
「はっ? ロンバルディアの王子……だと?」
それは一体、誰のことを言っているのだろう。
そうして、グルグルと獲物を横取りした相手に思いを巡らせるが。それらしい相手も思い浮かばず、ラインハルトは焦りだけを募らせる。何れにしても……折角の贖罪のヤギを逃されては腹立たしい事、この上ない。
「お前達、何を勝手な真似をしているんだ! 奴は間違いなく牢に入れておけと、言ってあったはずだぞ⁉︎」
「ですけど、ラインハルト様。罪が確定していない相手を、牢に拘束するのは禁止されております」
「まぁ、追って禁固刑になるのは、分かり切ったことでもありましたが……最初は尋問室へ補導しようと思ったのです。しかし、丁度よくロンバルディアの王子様がお見えになりまして。それで……」
彼を補導していたはずの、衛兵2名によれば。たまたま通りかかったロンバルディアの王子様が尋問を引き受けてくれたので、引き渡したと言うではないか。罪状は確定していなくても、会食を台無しにした被疑者への制裁は早い方がいいだろうと、都合よくマルヴェリアの法律に縛られない相手がいるのだから、面倒事は押し付けてしまうに限る、という判断になったらしい。
「条約を破る訳には、参りませんから」
「捕虜や罪人への過度な追及は禁止事項なので。だけど、それじゃぁ悔しいじゃないですか」
衛兵達は互いに頷き合いながら、王子様に任せれば大丈夫と、何故か根拠のない信頼を彼に寄せている様子。しかし、ラインハルトはその「王子様」が誰なのかが、さっぱり見当もつかない。
ニュアジュが事前に寄越したリストによれば、要注意人物は3人。カケラ史上最高傑作と言われる、難敵の金緑石ナンバー3に、その相棒らしいホロウ・ベゼル。そして、纏った芳香で相手を懐柔する術を持つ、石英ナンバー21。他にも、月長石ナンバー37も手練れとの情報が追加で入っていたが。この中で「王子様」に該当しそうなのは、ブランネルの孫と紹介されていた金緑石ナンバー3こと、ラウールと名乗っている憎たらしい若造しか候補者はなさそうだ。しかし……。
(そのラウールはさっきまで、会食で一緒だったはず。いくら奴が例の怪盗だったとしても……)
分身まではできるまい。
そこまで考えて、ラインハルトは「もういい」と衛兵2人への追及もそこそこに、草臥れたように踵を返す。いずれにしても、ロンバルディアへ引き渡されたともなれば、ヤギは治外法権の範囲にまんまと高跳びした事を示している。そして、「善良なマルヴェリア国民」を表面上は気取っているラインハルトも、当面の間は約束事を遵守するつもりでもいたが……そろそろ我慢の限界だった。
相性が悪い実兄が支配し、敬愛する母親のいないロンバルディアなど住むに値しないと……腹心のニュアジュの勧めもあって、マルヴェリアへ国籍を移してみたはいいものの。そのマルヴェリアは、気性が荒いラインハルトにしてみれば、退屈極まりない国だったのだ。
もちろん世継ぎがないシュヴァル国王も、王国の存続を不安視していたマルヴェリア国民も、ラインハルトの帰化を歓迎してくれたし、彼に与えられた生活も一通りの水準は満たされている。しかし、国王自身も過度な贅沢を避けるお国柄でもある以上、王族の生活も質素そのもの。その上、シュヴァルは父・ブランネル以上に平和ボケした超穏健派の国王。彼がいる以上……大手を振って、堂々と野蛮な真似をする訳にもいかない。
(この国でも、水面下ではカケラ研究が進んでいるとは言え……国王がいる限り、好き勝手はできない、か……)
マルヴェリア条約という呪いと、怒っている姿を見たことがないとまで言われる、浮世離れした象徴の存在。条約を盾に、ロンバルディア以上に平和ボケしてしまったマルヴェリアの行く末を、ニュアジュが憂うのも無理はないと、改めて嘆息するラインハルト。
そのニュアジュは向こうの王子様の子守に行くと言ったきり、ロンバルディアへ蜻蛉返りしたまま、未だに姿を見せない。であれば、孤軍奮闘を余儀なくされたラインハルトがここで切るべき手札は……。
(……仕方ない。久しぶりに、ルサンシーを解放するか……)
ルサンシー……それは呪いのダイヤモンドの一角、“コ・イ・ヌール”を核石に持ち、別名・悪魔のダイヤモンドと呼ばれる凶暴なカケラの個体名である。そして、かの怪人・アダムズと名乗っているらしい金緑石ナンバー1と同時期に生み出された、原初のカケラの双璧を成す宝石の完成品でもあった。




