ガス燈の煌めきはブルー・ジョン次第(26)
「……意外と複雑ですね、この地下道。いや、この場合は……」
「どちらかと言えば、複雑な場所とくっついていただけな気がしますわ」
優秀な案内役の鼻に導かれ。地下道の途中で怪しげな隠し扉を潜った先に広がるは、あろうことかロンバルディアの地下水道。なるほど、怪人はここを通って街中に出ようとしていたのかと、ふむふむと唸るものの。湿った空気で澱んだ水の臭いには、少々気が滅入るものがある。
【ここか……?】
「着いたのか、ボンド! あぁ……そろそろ、外の空気が吸いたいぞ……」
「まぁ、それは俺も同感ですね。……プリンセスと同意見なのは、癪ですけど」
「そんな事を言っている場合じゃないでしょう? ボンド、ここでアンソニー様の匂いが途絶えているのですね?」
【うむ。ヤツのニオい、ここでトギれている。ここから、チジョウにアがったみたいだ】
「そうですか……おや? この住所は確か……」
プレートが示す区画名と番地には、見覚えがあるような。
そうして、さして時間をかける事なく、グリードはそれが漏洩された個人情報の番地である事にも気づく。自慢の紫の瞳がはっきりと捉えた文字列は紛れもなく、とある元・巡査が住んでいる小洒落たアパルトマンの所在地だった。
「……だとすると、アンソニーは共犯者の口封じに来たのでしょうかね?」
「でしたら……」
「えぇ、急がないといけなさそうですか? これは」
【……ニオいはまだアタラしいから、マにアうかもしれない。とにかく、ここをノボるぞ】
屋根上からではなく、下水道からこんばんは……では格好が付かないが。それでも、体裁を気にしている場合ではないと、目の前の階段を一気に駆け上るグリードご一行様。どんな相手でも、普通の人間は傷つけないが大泥棒が誇る信条というもの。確かに、お宝を狙うのが大前提だが。ついでに助けられる相手がいるのなら、それとなく救出するのも……平和至上主義の雇い主のご意向だったりする。
***
「へぇ〜……アンソニーの旦那は、意外と気前がいいんだね。そんな姿になっても、俺にご褒美をくれようとするなんて。これでこそ、俺の新しい雇い主ってところかな?」
「ふざけるなッ! お前がいたせいでどれだけ、苦労したと思っている! まぁ、いい。今の私であれば、どんな事もで思いのままだ。お前を殺しても……ふふふ……簡単に逃げ果せられるだろうよ」
そいつはどうだろうな? ……と、脅し文句を浴びて尚、太々しい態度を貫く元・巡査。
かのオペラ座の怪人の主役・ファントムに誂えたような醜い姿を前にしても、ブライアンは怯えることも、慌てることもしない。それどころか、アンソニーの短絡的な目論見を見透かしては、さも馬鹿にしたようにクツクツと肩を揺らす。ブライアンには気分的にも、金銭的にも、相当な余裕まであるらしい。グラスを2つ持ち出しては、アンソニーにまで見る者が見れば一目で最高級と分かるワインを勧め始めた。
「どうだい、旦那。とりあえず、最期の別れに1杯付き合ってくれませんかね?」
「あいにくと、私はワインは好かん。スコッチの方が断然いい」
「ふーん? 由緒正しい、ジョン・ブルームって奴ですかい? ふふっ。これだから、気位だけは高いスコルティア紳士は間抜けで、困る。見てくださいよ、このラベル。こいつは最高級品白ワインのモン・ラッシェですぜ? ……って、あぁ! そうでしたねぇ! あんた、元は浮浪児ですもんね。卑しい労働者階級には、こんな高級品にお目にかかる機会もないでしょうから。知らないのは、当たり前でしたか。ふふ……これは失礼しました」
「なっ……!」
何故か、ブライアンはアンソニーの半生をよく知っているらしい。アンソニー自身でさえも、努めて忘れかけていた封印されていたはずの過去を抉り出しては、カラカラと笑ってみせる。そうして、懲りもせずに首を傾げては「1杯、いかが?」と尚も誘いをかけてくるが……そこまでされては、意地を張るのも当然というもの。とうとう、アンソニーは受けて立つぞと言わんばかりに、ブライアンの向かいに腰を下ろした。
しかし……アンソニーはこれまた、物事の本当の理由を知ろうともしない。どうして、アリシーのファンだったはずのブライアンが、憎いはずの殺人犯に加担したのか。どうして、ブライアンがわざわざ絨毯に包んでアリシーを運ぼうと言い出したのか。どうして……ブライアンはアンソニーの変わり果てた姿に眉根1つ動かさないのか。……どれもこれも、普通ならば「おかしな事」なのに。
だけど、アンソニーは希少なフローライトの一種であるブルー・ジョン、またの名をファントムに魅せられてからというもの、正常な判断力を奪われていたのかも知れない。ガス燈に気まぐれな煌めきを与える、ファントムの仄暗い暗示に引っかかっていたのは、ポーラではなくアンソニーの方だった。
そして……ブライアンが言い放った、「最期の一杯」の真意さえも。……何かにつけ、衝動的なアンソニーには気づけるはずもなかった。




