ガス燈の煌めきはブルー・ジョン次第(3)
夫は今をときめく売れっ子の作曲家。今の暮らしにも何1つ不満もないはずの、満たされた境遇。
自分の両親はないけれど、叔母でもあったアリシーの元でポーラは何不自由なく育てられたし、自身も彼女と同じオペラ歌手を目指してそれなりに充実した人生を送っていたはずだった。だけど、叔母のアリシーは強盗殺人に巻き込まれて、ポーラを置いて遠くへ行ってしまった。残念なことに、ポーラには歌手の才能はなかったみたいだが……アリシーが遺してくれた遺産と屋敷とがあったお陰で、こうして暮らしていられる。しかも、アリシーの結んだ縁で、才能溢れる作曲家と結婚できたのだから、ある意味で安泰な人生でもあるだろう。だけど、そんなポーラにはアリシーが亡くなってからというもの、奇妙な病が付き纏うようになっていた。
(また、聞こえてくる……。この声……誰の歌声なのかしら……?)
屋根裏からかすかにさざめく、誰かの啜り泣き。澄んでいて、清らかで。だけど……どこまでもトロリと深く、悲しみに満ちていて。瑞々しい少年の声にも聞こえるが、耳を澄ませば女性の声にも聞こえる気がして。それを夫に告げたら「精神病」だと一蹴されて、ポーラは自分もそうだと思い込むようになっていた。
物がなくなる、聞こえないはずの音が聞こえる。その事を真剣に夫に相談しても、かぶりを振るばかりで彼は一向に受け止めようとしてくれない。そして、夫・アンソニーにも「現実の齟齬」を指摘されては嘘つき呼ばわりされるたびに、ポーラは不安で押しつぶされそうになる。本当に、自分は精神病なんだろうか? 本当に自分の身の回りで起こっている事は「気のせい」なんだろうか?
「……おや。今宵も彼は泣いているのですね。ほら……君にも、聞こえますか?」
「えぇ。もちろん、聞こえますわ。……とても、悲しい歌声ですわね」
「……⁉︎」
やっぱり、気のせい。やっぱり、自分がおかしいだけ。
そう思い込もうと、目を閉じたポーラの頭の先から、彼女の現実を肯定する内緒話が聞こえてくる。その声の主を窓際に探してみれば。そこには黒ずくめの怪しげな男と、真っ黒とまではいかないなりにも、それなりに怪しい雰囲気の女がこちらを嬉しそうに見つめている。
「あ、あなた達はもしかして……」
「Bon soir……こんばんは、ミセス・グレイソン。今宵は満月ではありませんが、ちょいと心配になって様子を見に参りました」
「心配になって……ですって? 私を、ですか?」
「えぇ、そうですわ。そのご様子ですと、深く傷ついておいでではなくて? 本当の事を言っているのに、まるで嘘つき呼ばわりだなんて、酷すぎます」
私だったら、とっくに屋敷から叩き出してますわ……なんて、女が頬を膨らませれば。男はそれは困りましたねと、肩を竦ませて見せる。ポーラを知っているらしい2人は、未だに名乗ることさえないが。これ程までの有名人であれば、名乗られなくとも正体くらいはすぐに分かるというもの。
「あなた達は、怪盗紳士・グリードとクリムゾン……で合っているかしら?」
「おや。概ね合っていますが、大正解ではありませんね。俺は怪盗紳士だなんて、むず痒い呼ばれ方は嫌いなのです。ククク。ですので、大泥棒と呼んで頂いた方が……」
「気分がいいかな? ですわね。はいはい。名乗り口上はそこまでで結構ですわ、あなた。今夜の長居は無用なのではなくて?」
「おっと、そうでした。……ふふ。これだから、クリムゾンには敵わない。と、いう事で……ミセス・グレイソン。次の満月まで、お気を確かにお持ちなさい。この声は確かに不気味に聞こえるかもしれませんが、なーに……悪いものじゃぁ、ありません。ただ、あなたを守りたくて泣いているだけなのですよ」
「私を……守る?」
C'est un secret……それ以上は秘密です。
戯けたようにグリードが人差し指を口元に寄せて、「シィーッ」と静かにとジェスチャーすれば。そんな彼に従うように、クリムゾンも愛想良くウィンクして「大丈夫ですわ」と微笑んで見せる。そんな束の間で、あっという間の邂逅にポーラは呆気に取られることしかできないが。それでも、彼らが残した余韻は確かに、彼女の胸の痞えを少しだけ軽くしたのだった。




