ウレキサイトに浮かぶ赤鷺(20)
彼女がいるのは本来は煌びやかで、美しい場所でなければならない。彼女が吸うのは本当は清らかで、濁りなき空気でなければならない。彼女が根付くべき苗床は、豊かで穢れなき場所でなければならない……はずなのに。だけど、落ちぶれた彼女にはその何もかもを与えられる価値はない。今の彼女がいるのは、理想とは真逆の絶望の淵。絶望の薄皮一枚で繋ぎ止められて、泣く泣く苦し紛れの息をする。
「ゔ、るざない……! あひゃしは……」
「それ以上は結構ですわ、ジャンネ。あなたに聞きたいことは、もう何もなくてよ」
「わたひは、まだ……」
「諦めていないと? 本当に、愚かですわね。まぁ、私も高い所が大好きな馬鹿の一種ではありましたけれども。でも、物の道理を弁えない大馬鹿者ではありませんわ。……そんなんだから、あなたは選ばれなかったのでしょうに」
未だにヴィクトワールへのライバル心を燃え上がらせ、麻痺して呂律も回らない舌で騎士団長を罵るパドゥール夫人。「夫人」と呼ばれるからには、彼女が既婚者だと考えるのが自然な思考回路だろうが。しかして、ジャンネ=アントワネット・パドゥールはいわゆる内縁の妻……法律上は未婚のままである。
「ちがふ……! わひゃひは、えらばればかったのじゃない! あたひは……」
なんだというのだろう? 本当は彼に愛されていた? 彼に選ばれなかっただけ? それは果たして、本当だろうか。
火傷だらけの顔に残された表情を歪めては、ボロボロと涙を流すジャンネの姿に……これだから気位だけは高い貴族はよろしくないと、ヴィクトワールは誰かさんと同じ趣で嘆息しては、残念そうに首を振る。彼女は「貴族であること」、「赤薔薇の一員であること」に固執する以上に、ある相手の情愛を手に入れようと死に物狂いだったのだ。
「あんだなんかより、わたひのほうがうるくしいはず、なのに! わたしのほうが……」
「選ばれるべきだった、と? それこそ、勘違いも甚だしい。……だって、彼の選考基準は美醜でもなければ、財力でもありませんもの。……ただ同類かどうか、それだけですわ。相手がカケラであろうと、なかろうと。彼は感性の波長が合う相手にしか、優しくできないのですよ。私があの方に選ばれたのは、互いに高い所が大好きな馬鹿だったから。それ以外の理由なんて、ありませんでしたわ」
ジャンネの資産を生み出していた金の卵達の出どころが、疑いようもない知り合いだっただけでも、気が滅入ってしまうというのに。敗者を前にして、自身の過去の古傷をほじくられて、憂鬱にならない方がおかしい。それでも、出資者の名前にも有り余る心当たりを構築しては、ヴィクトワールは前に進まねばと顔を上げる。
「……さて、と。あなたがお話ししてくれたお陰で、お仕事が沢山増えてしまいましたわ。これで、私も多忙な身の上ですの。……それこそ、ロンバルディアというパトロンに愛想を尽かされないよう、尽力しませんと」
「ま、待って……! わたひはこの後、どうなるの……?」
「ご安心を。私は罪人を一思いに殺せるほど、優しくはありません。……所定通り、そのまま生き埋めにして差し上げてよ? あなたが自分のお人形達にしてきた事を、暗い地獄の底でよくよく考える事ですわ」
「い、いやっ! ま……」
それ以上の戯言は結構と、ヴィクトワールは手元で持て余していたナイフを横に一閃薙ぐと、舌足らずの舌端ごと唇を切り落とす。そうされて、絶叫さえもあげること叶わず、血だけを吐き続けるジャンネ。涙も血も失っていない様子に、彼女が中途半端に出来上がっているのだと、理解しては。一方のヴィクトワールは尚も、馬鹿な事をしたものだと蔑まずにはいられない。
きっと、彼女が自分の身さえも実験台に使ったのは、美貌を保つためもあっただろうが……おそらく、彼の矜持に近づくためでもあったのだろう。彼……アダムズ・ワーズは人間を毛嫌いしており、彼らを実験材料に使うことも厭わない。だからこそ、せめて存在だけは同類になろうと、ジャンネは心だけではなく、身さえも捧げてしまったのだ。
「……お待たせしましたわ、アンドレイ。後処理はお任せしても?」
「承知しました、騎士団長。しかし……本当に、因果な事ですね……」
「えぇ、そうね。……本当に何もかもが不運過ぎて、流石の鋼鉄も嫌になってしまいそうよ」
ジャンネの自白から、彼女は彼の気を引くために向こう側の研究資金をも工面していたらしい。そうして、その対価として改良版のコントローラーを与えられた時の彼女の喜びは、それこそ天にも昇る心地だったのだろうと、ヴィクトワールは想像する。そのご褒美が例え、利用されているだけの立場を隠蔽する物だったとしても。そこに、愛がなかったとしても。自分も彼から腕を与えられた時には確かに、愛されていると錯覚したのだから……心中を察するにも有り余る程に、ヴィクトワールも彼の意地悪さ加減は知っているつもりだ。
(そんな事を考えている場合ではありませんわね。……今は、向こう側の手中を探るのが先決です)
ジャンネの証言にあったコントローラーは、獰猛な虎猫ちゃんが猫じゃらしよろしく、激しく戯れた結果に壊してしまったが。彼女のコントローラーは特定範囲内のカケラを遠隔で抑圧できるだけではなく、複数核へ指令を出すことも可能にした画期的な道具だったようだ。しかし、カケラを支配下に置くにはどうしても、拘束具を埋め込む必要がある。だがそれさえ済んでしまえば、安全な場所からの遠隔操作も可能になるので……これ以上に厄介な小道具もそうそう、ないだろう。
(……カケラの首元に埋め込むアディショナルも小型化、かつ高性能になりつつありますし……。本当に、厄介なことになっていますわね……)
騎士団長室に戻る廊下の道すがら。ヴィクトワールは中庭の新緑を見つめては、かの人の昼間の美しさも思い出す。そうして、ジャンネの瞳が中途半端な緑色だったことも認識し、尚も深々とため息をつく。
彼女は間違いなく、赤……しかも、真紅が大好きに違いない。だけど、彼が彼女に与えたのは赤を齎す来訪者ではなく、緑を齎す来訪者だった。
緑柱石の宝石には緑以外のものも、確かにあるが。宝石史上最も有名な新緑・エメラルドを擁する鉱物である以上、その核石を頂けば瞳が緑になる可能性が高いことは明白である。だからこそ……ヴィクトワールは、ジャンネに逆に嫉妬していた。
アダムズが敢えてベリルを彼女に与えたのなら。瞳の色くらいは「お揃いになりましょう」という邪推することもできる。きっと、彼女に適性があることを伝えたのも、カケラになることを唆したのも彼だったに違いない。なにせ……。
(あなたはお気に入りを増やすことだけには、手間は惜しまなかったですものね。何れにしても……浮気の原因は直接お会いして、問い詰めるべきかしら?)
彼の意図の深層は、ヴィクトワールにも分からない。それどころかその深淵は覗き込めば、逆に見つめられる以上に、魅入られそうになるのだから危険だと言わざるを得ない。特に紫色の煌めきはあまりに妖艶過ぎると、彼の色彩も鮮やかに思い出しながら。縁者の失態と、かつての悲恋の残火とに苛まれて……騎士団長は本当に無茶をすると、嘆息せずにはいられないのだった。
【おまけ・ウレキサイトについて】
独特な結晶構造を持つ鉱石で、下に置いた文字や絵柄が浮き出て見えることから、「テレビ石」という通称名で流通していることがあります。
モース硬度は約2.5。真珠に並ぶレベルで脆い宝石でして、扱いには異常なまでの注意を要すると言えそうです。
また、温水に溶けるという軟弱な性質もあるため、アクセサリー用途で利用されることはまずありません。
そのためか宝石というよりは、面白グッズ扱いされることも多く、並んでいるお店も宝飾店ではなくお土産屋さんの方が多いみたい……。
この心許ない立ち位置に、誠に勝手ながら妙な卑屈さを作者は感じてしまったりするのです。
【参考作品】
『クヒオ大佐』
彼自身は詐欺師というよりも、本当に「大佐だった」と飛躍した妄想で自分自身にも嘘をついていたのではないかと作者は思ったりもしますが。
いや、だって……詐欺師としては微妙だもん、彼。
しかして、彼の嘘を信じる方がいるのもビックリですが、クヒオ大佐が実在の人物であることには驚嘆せざるを得ません。
……いつの世も、愛は盲目なのかも知れませんねぇ。




