悪魔に寄り添うエンジェライト(1)
どうして、自分はこんなにも空腹なのだろう。
どうして、自分がこんな惨めな格好をしなければならないのだろう。
そんな事を考えながら……トマ・ブキャナンはロンバルディア中央街の目抜き通りを、陰鬱な気分で歩いていた。折りしも、その日は6月最後の日。既に「雨の季節」を抜け出しつつあるロンバルディアでは、国内中がヴァカンスに向けてソワソワする時期でもあった。しかし……ヴァカンスを謳歌できるのは、一般階級以上の国民だけ。彼のようにギリギリの所で浮浪者に転落する、しないのボーダーを彷徨っている者には、どこまでも無縁の喧騒でしかない。
(あぁ。去年の今頃はこの城で、ブランネル公にお会いしたっけなぁ。それで、そうだ。……そう、そうだ! 私がこんな惨めな目に遭っているのはあいつらのせいだ……!)
何かの祝賀ムードに包まれているロンバルディア城の正門を眺めながら……去年の今頃に戻れればどれだけいいだろうかと、ため息をこぼすと同時に、その元凶も思い出す。
トマが恨みを募らせているあいつらとは、自分の思い通りにならなかった部下と、その弟ではあるが。しかし……本来であれば、彼らとの縁はなかったはずのもの。たまたま慰安旅行で一緒になっただけであり、強引に縁を手繰り寄せられるような相手でもない。それなのに……彼は自分が「貴族である」という驕りだけで、彼らを籠絡できると勘違いしていたのだ。そして非常に悪いことに、彼はその勘違いを何よりも正しいと……理屈さえも曖昧な自尊心のせいで、正すことさえできなかった。
(もしかして、あれは……⁉︎)
トマが恨めしげに見つめている先で、狙い澄ましたように豪奢な馬車が通過していく。しかして、非常に気分が悪いことに、馬車の窓から見えるのはヴェール姿の田舎娘の横顔。あろうことか、娘を袖にした元凶は本当に貴族でもない娘を娶ることにしたらしい。何かを見せつけるようにゆっくりと通り過ぎていく、馬車を穴が空く程に睨みつければ。田舎娘の顔を恭しく覆っているヴェールの白さが、トマには眩しすぎて。……いよいよ腹も立つ。
(私がこんなに苦労しているのに……あんなにも幸せそうで……! どうしてだ? どうして……)
どうして、自分はあの空間に招き入れられなかったのだろう。
どうして、自分はあの空間の外で見つめるだけになっているのだろう。
本当は、新婦の父親として、あの空間にいるはずだったのに。
そうして、未だに最初からありもしなかった幻想を引っ張り出しては、分け前をもらってもいいのではと、またも余計な方向に勘違いするトマ。凋落の一途を辿っていても、野心と上昇志向だけは一流のまま。そもそも、ブキャナンの名前は承認貴族の帳簿から抹消済みではあるが、あいも変わらず不都合を忘れてしまえる思考回路だけはバッチリ生きている。
(……そうだ、私は貴族だったんだ。この城に招かれる権利があるッ……!)
その歪んだ決意の割には、堂々と表から入らずに……コソコソと裏口から潜入する姿は、滑稽と言わざるを得ないのだが。それでも、ここ最近はまともな食事にありつけていないのだし、日に日に弱っていく妻の分も含めてちょっとした「ご馳走」を分けてもらうくらい、許されてもいいだろうと考える。だが、それは言われるまでもなく、歴とした窃盗という犯罪である。元は曲がりなりにも警察官だったのだから、そのくらいはすぐに判断できていいものを。彼の心の中に広がる自己中心的な世界では、それすらも正義として補正されてしまう。そうして……トマは素敵な思想で、アッサリと犯罪に手を染める決断をしてしまうのだった。




