エメラルドの卵(19)
確かに、「先に休んでいてください」と言いはした。だが……やはり、「お帰り」を言ってくれる相手がいないのは寂しい。
それでも家人を無理に起こすまいと、抜き足差し足で部屋に戻れば……イノセントに抱き枕にされているジェームズの姿が目に入る一方で、キャロルの姿がない。はて、どこに行ったのだろう? ……と、耳を澄ますと。浴室の方から水音が聞こえてくるので、どうやら彼女は入浴中のようだ。
(これ、は……待っていた方がいいのです……よね?)
だけど、このシチュエーションはもしかして……チャンスなのでは?
そこまで考えて、今一度、お邪魔虫達の様子を確認するラウール。愛犬と娘もどきの邪魔さえなければ、この後は2人きりの時間を確保できる。それでなくても、今日は別行動をとっていたのだ。埋め合わせて1日の終わりくらい、ベッタリさせて欲しい。
(……しめしめ。この様子だと……余程のことがない限り、起きてこなさそうですね)
ジェームズとイノセントはお利口さんにスピスピと寝息を立てて、ぐっすりと眠っている様子。イノセントに締め上げられて、ジェームズはやや苦しげに見えるものの、彼も疲れているのだろう……時折、フガガとイビキをかいては、熟睡をアピールしてくる。しかし……。
(こちらは、これでいいとして……かと言って、やっぱり突撃したら……嫌われますかね?)
理性と本能の合間でウムムと唸りながら、お利口さん達の様子を窺うのも切り上げて。今一度、キャロルの様子を思い浮かべながら……ここは紳士的に「待て」をしておくべきか、意欲的に「ワン!」と突入してしまうべきかを真剣に悩むラウールだったが。
「ラウールさん……何をしているのですか?」
「へっ?」
不意に声をかけられたので、そちらを見やれば……どうしようもなく呆れ顔のキャロルが、バスタオルで鮮やかな赤毛をパフパフと包みながらやってくる。そうして、部屋の中央で悩みながら行ったり来たりをしているうちに、チャンスを逃してしまったことを痛感するラウール。……こんな事だったら、思い切って「ハゥゥン!」と甘えてしまえばよかった。
「あっ……キャロル、ただいま……」
「はい、お帰りなさい。それで……どうしました? お話は無事、済みましたか?」
「う、うん……はい。話はちゃんと聞けましたけど……」
問題はそこではないのです。本当は一緒にお風呂に入っていいかどうか、悩んでいたのです。
……なんて、素直に言えるはずもなし。防御力もしっかりありそうな厚手のネグリジェを選んでいるのを見るに、彼女は警戒心も一緒に着込んでいる様子。ラウールがお願いできそうな隙はない。
「話を聞いて欲しくて、待っていました……。とは言え……うん。俺も寝る前にシャワーを浴びてこようかな……」
「そうだったのですね。もちろん、いいですよ? ふふ。今夜は満月ではないのですけど、お月様がとっても綺麗です。折角ですから、月を見ながらバルコニーでお話しするのも素敵ですよね」
「……そう、だね……」
ご相談会場がバルコニーの時点で、いよいよご希望とは程遠いシチュエーションになりつつあるのを、別の意味で落胆するラウール。彼女がラウールの魂胆に気づいているのか、気づいていないのかは分からないが。それでも、キャロルが本当に嬉しそうに笑って見せるので、今夜はそれでいいかと諦めては肩を落とす。
(……嫌われたら、チャンスどころではなくなってしまいます……。そう……ですよね……。我慢も必要……ですね……)
今の家族ゴッコがキャロルの温情と気まぐれで成り立っているだけの、非常に脆い日常であることはラウールとて、よく分かっている。彼女に嫌われたり、彼女に愛想を尽かされたら、忽ちこの幸せはなくなってしまうだろう。そんな事、分かっている。……よく、分かっているはずなのに。
(でも……本当はもう少し、本物っぽく家族になりたいのです……)
結局、着込んだままの言葉の防御を完全に脱ぎ去ることもできずに。あれ程までに切望した家族を手に入れたと思い込んでみても、理想にはまだまだ遠い。そうして、かつては自分こそが誰かが望んでいた家族ゴッコを拒絶していたことも思い出し、なんて皮肉だろうとため息を吐く。こんな事なら、少しは付き合ってやるのだった。
ジレのポケットからお下がりの懐中時計を取り出しては、脱衣カゴへ洋服と一緒に乱雑に放り投げるものの。未だにテオの存在に拘泥している自分が、ほとほと嫌になりそうだ。それはあまりに遅すぎる後悔。捻くれていて可愛げのない自分にさえ、きちんと「誰かと生きること」を教えてくれようとした相手は、既にこの世にいない。
それでも、キャロルはまだ生意気だった誰かさんと違って、拒絶まではしてこないと思い直しつつ。一縷の望みを見出すと同時に……かつての自分も含めて、丸ごと自己嫌悪に陥るラウールなのだった。




