彗星のアレキサンドライト(5)
「涙が乾きそうにありませんね、お嬢様。どうしました? 折角の綺麗なお顔が台無しじゃぁ、ありませんか」
「……⁉︎」
夕食後の歓談も早々に切り上げ、まるで全てから逃げるように戻った自室のバルコニー。太陽も沈んで、辺りが薄暗くなったところで境遇が変わるでもなく……こうして、どこか寂しげな空気に身を任せていると。1人きりのはずのルヴィアに話しかけるものがある。そうして、その声の主を探し求めれば。隣の部屋のバルコニーの欄干に我が物顔で腰を下ろしている、黒衣の男がこちらを窺っていた。
「まさか、あなたは……もしかして……?」
「これは失礼。ぼ……いや。俺はグリードと申しまして。今日はちょっとした余興で、こちらにお邪魔しました。あぁ、ご心配しなくても、何も盗りやしませんよ。だって……今夜は予告状を出していませんから」
「あなたが……あの噂の怪盗紳士なのですか……?」
「……その呼び名、やめてくれませんかね。俺は紳士ではありません。予告状を出した結果なのかは知らないけど、そんなに立派なもんじゃありませんし、何より……どこまで行っても、盗みは盗みです。本当の紳士だったら、そんな事はしませんからね」
「……」
「だから、大泥棒……って言われた方が、気分もいいかな?」
それまでの自嘲気味な軽口を自分で慰めるように、口元で微笑む泥棒。ルヴィアの目の前に陣取る大泥棒は、父親の頭を悩ませているらしいはずの相手なのに。彼の微笑は、どこかルヴィアの境遇さえも些細な事と軽やかにするように、柔らかなものだった。
「でしたら、その大泥棒さんが私に何のご用でしょう? 生憎と、私は金目になりそうなものは持たされていませんわ」
「あぁ、酷いなぁ。だから、今日は何も盗らないって言っているじゃぁ、ありませんか。別に特段ご用事はありませんよ? ただ、ちょっとお喋りする相手が欲しかっただけです」
「何も、お喋りの相手に私を選ぶ必要もないのでは? 何が目的なのですか?」
「……お嬢様は随分と用心深いんですね。全く……何度も申し上げますが、今日は盗みに入っているわけじゃないんです。……折角お喋りするんだったら、相手は飛び切り美人で可愛い人がいいに決まってるでしょう?」
どこかはぐらかすように、中々本心を見せないグリード。そうして、尚もだんだんと紫色に染まり出す空を仰いでは、無邪気な子供のようにその場で足をブラブラと揺らして見せる。
「あぁ、そうそう。そう言えば、お嬢様はアレキサンドライトがどんな宝石か、知ってます?」
「え、えぇ……確か、あの宝石は昼の間は緑色で……陽が落ちると紫になるんだって、お父様……が仰っていましたけど」
「そうですね。どんな仕組みかは知りませんけど、本当に不思議な宝石ですよね。……昼と夜とで、見せる色が違うんだから。しっかし、どうしようかな……。この間はちょっとしたヘマで盗り逃しちゃったし、再チャレンジのハードルがかなり上がっているんですよねぇ。実は俺もどうやって次は盗み出そうか、流石に悩んでいるんですよ」
「でしたら、こっそり盗み出せばいいではないですか。わざわざ予告状なんか出すから、いけないのでは?」
「……いや、ここは“この泥棒”……って叫ぶところじゃないんでしょうか……。自分の屋敷に盗みに入ろうとしている泥棒にアドバイスをして、どうするんです」
「そ、それもそうですわね……」
どこか呆れ気味に当然の指摘をされて、恥ずかしそうに俯くルヴィア。しばらく、そうしてモジモジした後……自分の間抜けさが妙に可笑しくて、気がつけばクスクスと笑い出していた。
「……ようやく、笑いましたね? フフ。それじゃ、今日はこの位でお暇しようかな。長居をして捕まってもつまらないし……次にお窺いした時も、こうしてお喋りに付き合ってくれると嬉しいです」
「あっ! ちょっと、お待ちになって!」
もう少し、お喋りしたい。
そんなルヴィアの気持ちを見透かすように、少し悪戯っぽく口元を歪めると彼女を一瞥して、屋根の上に飛び上がるグリード。そんな彼がマスク越しにルヴィアに寄越した視線は……ハッキリと鮮やかな紫色をしていた。