アンダルサイトのから騒ぎ(29)
悲しみの聖母の微笑み。それはとある薬物の取引における、1つの符丁。本来、7つの悲しみに打ちひしがれる彼女には、笑顔は到底似合わない。
ペトルチオがかつて出入りしていた、ジェニバー美術館を始め……微笑を見せる悲しみのマリアがある場所には、美術品だけではなく、とある薬品も一緒に出入りしていた。目印として彼らが特別仕立てで作ったのは、いかにも清らかなマリア像。しかし、彼女の微笑は胸元の痛みさえも忘れて幻惑に身を委ねる、とある状態をも示す暗喩であった。
ここまで来ると、敬虔で真面目な本物のキリスト教徒達を馬鹿にしているとしか思えないが。それでも、かの取引の歴史は非常に古いものらしい。彼らは見た目だけは清らかなキリスト教徒になり済ますことで、歴史の中でひっそりと人畜無害な羊の群れに紛れ込んでは、マリア像の清らかさだけを都合よく利用してきた。
「助けてくれるなんて、どうせ嘘なのでしょう? だって、私は知り過ぎているもの。お父様のビジネスだけじゃない。あなた達の概要に、それこそ……実験にモルヒネ代わりのある物を使っている事だって知っている。そんな私を、あなたが易々と逃す訳ないじゃない」
「おや……あなたはお父上と違って、賢いようですね。ふむ……なんと、惜しい事でしょう。適性さえあれば、資質を十二分に活用できるのに」
「あら、そう。だけど……適性があったとしても、そんなの願い下げだわ。だって女性の被験者は使い捨て、なのでしょ? そんな冷酷な扱いはするつもりも、されるつもりもないわ」
「あぁ、そうでしたね。本当に、実に惜しい。ここまで我らに理解を示す人間は……本当に貴重なのに」
いかにも残念そうに困り顔を見せてはいるが、タラントの返答からしても……自分も含めて無罪放免にはなり得ないことも、レイラはよく知っている。
ペトルチオは宝石ビジネスの元手をかき集める為に、その薬品にまつわる不正にも手を染める事になり……今や、そちら方面のマフィアのボスに担ぎ上げられるまでに、落ちぶれてしまった。そんな父親の失墜を止めなかったばかりか、かつての幸せな家族に戻る為なら何でもすると、レイラ自身も彼の手助けをしてしまっている。
見て見ぬフリも許されない惨状さえも飲み込んで、ある程度の資金を作れれば……何もかもを捨てて、どこかでやり直せると思っていた。しかし、出直すにしてももう手遅れだという事は、足掻いても足掻いても……例え、奇跡が起きようとも。絶対に覆らない現実でしかない。
「交渉決裂、ですかね。でしたら……仕方ありません。ペトルチオのことを考えれば、本当はこれだけはしたくなかったのですけど……レイラ。あなたにも、少しばかり手伝ってもらうとしましょうかね。確かに、あなたには適性はありません。ですけど……適性がない者でも、それなりに仕立ててやることは可能なのです。そこまでして、お友達を助けたいと言うのなら……いいでしょう。例のアンダルサイトは、あなたに差し上げる事にしましょうか」
柔らかい微笑から吐き出されるのは、冷たい空気を纏う非情な計画。しかして、レイラがその計略が意味することに気づく間も与えずに、タラントが素早く彼女の背後に回っては、彼女の口元にハンカチーフを充てがう。強く押し付けられた純白のシルクから漂うのは、怠惰で魅惑的な甘言の香り。しかし、その異臭が更なる悪夢の第1歩だと、賢いレイラは薄らいでいく意識の中でもしっかりと認識しては……自分にはマリアのように微笑むことはできないと、瞳に残していた涙の1粒をポロリと零した。




