クリスマスキャロルはエグマリヌの船上にて(31)
「チックショウ……! あのクソアマ……!」
片割れの咄嗟の判断に助けられ。なんとか外壁に爪を食い込ませて、嵐の中へ放り出される事は避けられたが。その姿はずぶ濡れで、どこまでも惨めな有様。こんな暴風雨の中、デッキ掃除となればご苦労様です……と、労いの言葉1つくらいはあっても良さそうなものの。当然ながら、彼……ジャックが勤しんでいたのは、愉快なデッキ掃除ではない。
「クソッ! 舐め腐りやがって……! こうなったら、ユアン! 徹底的に暴れるぞ⁉︎」
(ちょ、ちょっと待ってよ、ジャック! ここは機会を窺って……)
「うるせぇッ! 俺は今、猛烈にムシャクシャしてんだよ! あの女を徹底的に甚振って……核石を抉り出してやる!」
ジャックの咆哮も激しい風の音に掻き消されては、誰の耳にも届かないはず……だったが。なぜか、ようやく辿り着いた船内の廊下にはポツンと置き去りにされたかのように、1匹の犬がお座りしている。スマートで真っ黒な体に、蝶ネクタイでおめかしして。賢そうな顔立ちで首を傾げられれば……気が立っている犬好きのジャックとしては、ちょっとちょっかいを出したくなる。
「……よしよし、ワンちゃん。こんな所でどうした? もしかして、飼い主と逸れちまったか? だったら……俺の憂さ晴らしに付き合ってくれよ」
【……コトワる】
「連れないこと、言うなよ〜……って、えっ? お前、今……何て?」
【だから、コトワるとイった。オマエをこのサキにはイかせない。ジェームズ、さっきのヨウスちゃんとミてた。オマエ、キケン。だから、ここでしっかりアシドめする】
何だ、この訳の分からない状況は。大体、喋る犬なんて前代未聞にも程がある。
ユアンは目の前のドーベルマンはてっきり、ソーニャ達の飼い犬だとばかり思っていたが。つくづく、向こう側の手の内は予想外な事が多すぎると、肉切り包丁に戻った姿で息を吐く。それでなくても、先ほどの擦ったもんだで、ユアンのダメージはかなり残っていた。ここで実力も未知数の同類と思しき相手との連戦は、不利どころか……最悪の場合、致命傷にもなりかねない。
ダイヤモンドは他の宝石とは一線を画する、至高の宝石であることは間違いない。しかし、ダイヤモンドが優れているのは硬度であって、靭性ではなく……先ほどぶつかり合った相手は、ユアンにとっては非常に相性が悪かった。何せ、例のクリムゾンはルビーというコランダムの仲間である。コランダムは硬度こそダイヤモンドには劣るが、靭性はダイヤモンドをも遥かに凌駕する。そのため、激しいぶつかり合いになった場合は……劈開もない上に、裂開する事も少ないコランダムに軍配が上がるのは当然と言えば、当然でもある。
そうして、しばらく睨み合った後……きっとジャックが戸惑いを隠し切れないのと同時に、ユアンがどこか弱気になっているのさえも見透かしたのだろう。目の前の賢そうなワンちゃんがスクッと立ち上がると、いよいよ獰猛な唸り声を上げる猛犬へと変貌する。そうして足元に抜かりなく準備していたらしい、大振りのサバイバルナイフを構えられれば。その威容はただただ、恐ろしい地獄の番犬にしか見えない。
「な、何なんだよ、こいつは! ユアン、まだイケるか⁉︎」
(もう、無理だよ……! 実は……さっきのお嬢さん達とのアンサンブルで、既に僕は限界なんだ……!)
「チィッ! 天下のダイヤモンドが犬っころ相手に、情けねぇ!」
犬相手に敵前逃亡を余儀なくされるなんて。これだから、2人で1人は肩身が狭いとジャックは舌打ちせずにはいられない。
性質量はきっちり半分でも、ジャック自身も自分が表に出ていれば、核石の侵食が進むことはよく知っている。本来はジャックの方が取り込まれた側の飾り石であったはずなのに、性質量をしっかりと折半しているため、精神的には安定している傾向がある飾り石でも、気性は暴れ馬そのもの。実際のところ、飾り石は核石の性質量が少ないからこそ侵食に抗える部分があるだけで、侵食への抵抗力がある訳では決してない。そのため、普段は仕方なしに割合落ち着いている武器役のユアンを表に立たせているのだが、今のユアンを補填なしで走らせるのは無謀だ。しかし、今の有り余る焦燥感はジャックの侵食を早め……延いては1つの体を共有している彼ら2人分のカウントダウンをまとめて進めかねない。
彼らは2人で1人の宝石の完成品。このままユアンを振るえば、核石を補填できない限り、ダメージを嵩増しする結果になるだろう。いくら豪胆で乱暴なジャックとて、自身の仕組みは熟知しているからこそ、ここは逃げの一手を選ぶしかないと諦めてはいるのだが……悪い事に、漆黒の追跡者の俊足は逃げ馬のギャロップなど遅すぎて話にならぬとばかりに、容易く追いつく。
「ちょ、ちょっと待って! 俺は別に何も、悪いことをしようとした訳じゃ……!」
【グルルルルッ! (ウソつけ! さっき、カクイシエグるってイってたろ!)】
任務にも忠実な地獄の番犬は得てして、聞く耳を持ってはくれない。愉快なデッキ掃除の後は、楽しい追いかけっこというエンターテインメントであれば、文句もないのだろうが。勝ち馬であり、逃げ馬でもあったはずの駿馬にしてみれば、番狂わせにも程がある。




