モン・ラパンとタイガーアイ(5)
ドミノマスクの下を窺い知る事はできないが、彼が本気で怒っているのは目にも明らか。普段の澄ました振る舞いからは、想像もできない威圧感と凶暴性とを発揮して……狂気に身震いしているクリムゾンの前だろうとお構いなしに、更に激しく哮り始めるグリード。その異常な姿に怯えつつも、クリムゾンは彼がとある段階に足を踏み入れてしまっている事をしかと悟る。
(もしかして、この状態は……!)
熱暴走の予兆。カケラは激しい怒りや悲しみに飲まれると、核石への融和が進み、放置すれば、完全に核石に取り込まれてしまう。特に男性のカケラは硬度も十分に備えているため、超新星を迎えずに、まずは来訪者のミニチュアへと退化することが多い。そして、そのステップを踏み越えてしまうと……その先は来訪者と同じ、鱗をぞろりと揃えた竜の姿へと羽化してしまう。だが、その状態になってから自我を取り戻すには、核石と素性が近しい鉱石を用意する必要がある。
どんな鉱物でも取り込めるという強みを持つグリードであれば、クリソベリル以外の鉱石でも、多少の延命は可能だろう。しかし本来であれば、超貴重な貴石を準備しておかなければならないし、生憎とこの場には、彼を諫められる宝石は転がってもいない。
(……私は彼にここまでさせるまでに、怒らせてしまったのね……)
それはどこまでも稚拙で、あまりに身勝手な嫉妬。クリムゾンもキャロルも、別に彼らを苦しめようとか、困らせようとか……わざと意地悪をした訳では、決してない。しかし常々、彼女にべったりと依存している泥棒と店主にしてみれば、例え些細な事でも……彼女がいなくなってしまうかもという不安は、握り潰すべき最重要事項である。
だからこそ、彼女が帰ってきたあの日から借金返済も頑張っていたのだし、彼女のために笑う練習もしてみては……ついでに自己嫌悪にも陥っていたのだが。しかし、ここ最近のキャロルの行動は彼にとって、目に余るものだったのだろう。そして、はっきりと好意を示してもらえない態度に……どれだけ彼が歯痒い思いをしていたのかを、彼女の方も気づくのが遅かった。
「……グリードさん。私の声……聞こえますか……?」
「グルルルルッ……! これ以上、何を言い訳するつもりですか? サファイア」
返答は野太く、唸り声混じりだが。まだクリムゾンの問いに答えられるグリードの様子に、少し安心すると……彼が最も望んでいるだろう言葉を、こっそりと耳打ちするキャロル。ラウール検定(仮称)マスター級は伊達ではないとばかりに、的確に言葉を選んでは……見事、彼の怒りを鎮めて見せた。不意に突然囁かれた、彼女の睦言が信じられない様子ではあるものの。仕返しにしては柔らかな奇襲に呆気に取られては、グリードもようやくモホークをその手から解放することにしたらしい。ややぞんざいながらも、手加減している様子で彼をドサリと床に下ろす。
「……ゲホッ……ゲホゲホッ……!」
「モホークさん! 大丈夫で……」
「サファイア。早速、今の言葉を反故にするつもりですか? ……これ以上、そいつに近づくのは許しません」
「……はい」
辛うじて呼吸を取り戻し、肩を揺らすモホークに駆け寄ろうとするクリムゾンを、グリードがピシャリと制止する。そんな彼の方は未だに鋭い紫の瞳で、一方的に食ってかかっていた恋敵を忌々しげに睨みつけているが。それでも……ようやくいつもの冷静さも纏い始めては、最初から最後まで隠し持っていたらしい左手の荷物をモホークの手元に放り投げた。
「……こ、これ……は?」
「敗者復活戦の景品ですよ。俺の方もあなたが自力で逃げ果せることができれば、最初にお約束した通り……素敵な夢を提供して差し上げるつもりだったのです。しかし、あなたは自力で逃げるどころか、悶々と悩むばかりで足を踏み出す事もしなかった。そんな惨めな偽物に、かけてやる温情はこの泥棒めも持ち合わせてはいなかったんですけどねぇ。ですが……今回ばかりは妻のお願いに免じて、大甘の判定でそいつを進呈しましょう。そいつを元手に、今度こそ自由になってみせなさい」
「あ、ありがとうございます……って、えっ? つ……妻?」
えっと、それってもしかして……クリムゾンの事を言っているのだろうか? そんな事を忙しく考えながらも、彼女を何故か名残惜しげに見やれば。クリムゾンの方も、少しばかり恥ずかしげに頷いて……それを否定する様子もない。
「それこそ、俺達の間柄はあなたには関係ありません。……俺の気が変わらないうちに、さっさとロンバルディアから出て行くのです。そして……2度と俺の前にその情けない顔を見せないと、肝に銘じなさい」
「えっと……」
「グズグズしなさんな。……汽車の時間に遅れますよ」
放り出されたのは処刑道具ではなく、くたびれた1つのダレスバッグ。中身をモホークが確認しようとするのさえも待たずに、やや強引にクリムゾンを抱き上げては……もう顔を見るのも耐えられぬとばかりに、その場をひっそりと離れていく漆黒の泥棒。
掴まれた首の痛みも現実だし、放り出されたダレスバッグも確かに現実だが。あっという間に遠のいていく足音に耳を澄ませば……幽霊以上に恐ろしい物がこの世には存在するのだと、モホークは暫く立ち上がることさえできなかった。




