アメトリンの理想郷(7)
地上の空であれば、視界を阻むように星を隠す雲さえも……その上に鎮座する天空の地からの眺めを損なうこと、敵わず。まるで叩き割られて飛び散ったガラス片のように、見上げた漆黒には大きさも輝きも歪な煌めきが敷き詰められていた。しかし、そんなあまりに透徹な天上の瞬きにさえもを、見つめ返す余裕もないまま。ラウールは瞳を紫色に翳らせては、ひっそりとため息をつく。
しばらく1人にしてください……そんな事を言いながら、傷ついた存在意義を自分で抱きしめてみても。傷は癒されるどころか、塩を塗り込むようにますます疼くばかりだ。
(……そう、本当はどこかで分かっていたのです。所詮、俺は人間になれる原理さえ持ち合わせていない事くらい……)
同じ過程で生まれたはずのモーリスは血も涙も流せれば、向けられた愛情をしっかりと受け止めることもできていた。だから、完全な人間にはなれないにしても……兄と同じように、自分もいつかそうなれると信じていた。生身のきちんとした体を得るには、心臓でもある核石を諫める術と、咎を全て流し切る分量の“彗星のカケラ”を集める必要があると教えられたし、表向きは理解してもいる。だけど、それが本当は苦しい理屈だったことも、なんとなく気づいてもいたのだ。
兵器としての幼い身に刷り込まれた、性能と失望とを塗りつぶすため。彼の保護者達は代替案の嘘をつくことでしか、彼に感情と希望を与える事ができなかった。その嘘は偏に、彼に新しい生きる意味を教えるのに、人間になるという目標を与えるのが有効だったからに過ぎない。
騙されたと言ってしまえば、それまで。体よく利用されていた……というのも、本質的には間違ってもいないだろう。しかし、そんな詐欺紛いで与えられた理由だったとしても、使命感でなんとか自分を支えられてきたのも事実。そして、使命に付随する倦怠感を理由に、いつしか誰かにも甘えられるようになって。そんな情けなさを、それらしい進歩だと割り切れる自分も、決して嫌いではなかった。それなのに……。
(生きていく覚悟が足りませんでしたかね。どこかで分かっていた事を、突きつけられただけで……こんなにも辛いのですから)
それは何気ない、些細な指摘だったに違いない。まるで針の先で突かれたような、本当に小さな穴。だけど、針が刺さった先が……不安を一杯に溜め込んだ心だったなら、どうだろう。折角、皮1枚でようやく持ち堪えていたというのに。不意に開けられた小さな穴は膨張した緊張を吐き出すように、勢いよくラウールの心を水浸しにしては……穴埋めと言わんばかりに、意地悪く核石を勢いづかせた。
(こんな所で……今更、俺は何をしているのでしょう……?)
刹那の悩みを目敏く拾い上げては、痛み出す胸を抑えるようにして……仕方なしに常備薬を口にする。1粒……更に、もう1粒。まるで八つ当たりをするかのように、ガリリと丸薬を噛み砕けば。舌の上には吐き気さえをも催す、後ろめたい悪臭が忽ち転がり始めた。本当は穏やかに水で飲み下すのが正しい服用方法のはずだが、それさえも煩わしいと自暴自棄になってみても……何1つ救われないし、痛みも休まりそうにない。
「ラウールさん、大丈夫ですか? ……そろそろ、コーヒーはいかがです?」
「キャロル、ですか。……そうですね。大丈夫、と言いたいところですけど……すみません、あまり大丈夫じゃないです」
「そう……なのですね」
1人にしてくださいと、強制的に彼女達から離脱して……かなりの時間が経ってしまったのだろう。自分を探しにきてくれたらしいキャロルの手には、ラウール愛用の黒いマグカップに、バスケットと水筒が下げられている。そうしてキャロルの方は、どこか強引にマグカップを差し出しつつも……きちんと彼がカップを受け取れる事にやや安心しながら、まだ熱さを保っているコーヒーをなみなみと注ぎ始めた。
「……もうそろそろ、何かを口にしないと持ちませんよ? だってここは雲の上だけあって、とても寒いんですもの。飲まず食わずでは、体が冷えてしまいます。それでなくても……全く。こんな時まで、少食っぷりを見せつけなくてもいいでしょう?」
「別に、そんなつもりはありませんよ。……って、キャロル。そっちは何ですか?」
「もしかしたら長旅になるかもと言われましたので、お弁当も準備してきました。……と、いう事で。1日目はあまり日持ちしないサンドウィッチから、食べちゃってください。明日からは缶詰になりますので、生のお野菜は今夜限りですよ?」
「……」
本当にキャロルは細かいところまで気が利くのだから。あれ程までに口の中に充満していた雑味さえも、コーヒーの苦味で覆しながら……少しばかりくたびれたレタスとトマトを挟んだサンドウィッチを頬張る。簡素で新鮮とは程遠い食事。それでも、何か大切な物もしっかりと含んでいるらしい味わいに……涙を流せるのなら、きっと自分は泣いているのだろうなと想像してしまう。
自分自身が思い描くその様子は、あまりに情けないし、不甲斐ない。だけれども。そんな弱さにほんの少しだけ、自分の存在意義を肯定できそうな気がして。……ようやく胸の痛みが引き始めているのを、ラウールは確かに感じ取っていたのだった。




