スフェーン・シークハウンド(30)
店の出入り口……ではなく、いつもの2階の窓から身を滑らせ、暑苦しいシルクハットと上着を脱ぎ捨てる。そうして無事に帰っているだろうかと、同居人の姿を探し始めるラウール。ジェームズが付いていた以上、安全な経路でしっかりと逃げているとは思うものの……実際に彼女の姿を確認するまでは、安心もできない。その上……。
(今日はお願い事と、言い訳をしっかりと申し上げなければなりません……。キャロルのご機嫌はいかがでしょうか……)
【ラウール、オソいゾ】
「あぁ、ジェームズ。無事でしたか。ところで……キャロルは?」
【……ナいている】
「泣いている……? また、どうして?」
彼女の部屋の前で、番犬の役目をきっちりこなしているジェームズによると……どうやら、ここから程近い路上で紫の瞳を持つ怪人に遭遇したのだと言う。そして怪人にあまりに心ない事を言われて、傷付いたらしいキャロルは帰ってからというもの、ずっとベッドに伏しているのだそうだ。そのどこまでも心当たりのある怪人のやり口に、腹が立つものの……一方で、彼女の傷心を慰めれば自分の株は上がるかもしれない。懲りもせずに自分中心の思考回路で、そんな事を考えているのにも嫌気が差してしまうが。それでも……彼女を繫ぎとめたいラウールにしてみれば、多少の悪巧みは許容範囲内である。
「……そうでしたか。それはそれは……ジェームズもお疲れ様でしたね。俺もキャロルに話を聞いてみますから、今日も大活躍のあなたには、ご褒美をあげましょう」
【ごホウビ?】
さも不思議と首を傾げるジェームズを他所に、確かこの辺りにあったはず……と戸棚を探れば。ソーニャが何気なく用意していた、ビーフジャーキーの缶が奥から出てくる。そんな突然現れたご馳走に、理性よりも先に食欲が先行するらしい。常々理知的なジェームズも、いかにも犬らしくクンクンと鼻を鳴らしては、早く頂戴と待ちきれない様子だ。
「はい、お座り!」
【ワン!】
「いい子ですね。では……お手と、お代わり!」
【ハウン!】
最後に「待て」と「よし」をしっかり実施して、ジェームズにやや大きめの肉片を与え、撫でてやれば。満足そうに短い尻尾を振って、全身で喜びをアピールしてくる。そんな彼の様子に……やっぱり犬は素直で可愛いと、ラウールも気分がいい。
***
「キャロル? 大丈夫かい。……入ってもいいかな?」
「……はい……。お帰り、なさい……」
ジェームズの心証をビーフジャーキーの賄賂で買い上げた後。いよいよ、本命の彼女にご対面いただこうと、薄暗い部屋に踏み込む。ようやく帰ってきた店主に対して、泣き腫らした目を擦りながら、身を起こして見せるキャロルだったが……健気な様子に自分の株を上げようなどと、浅はかな事を考えていた事に少しばかり、反省してしまう。
「ジェームズに聞きました。俺がいない間に、随分と辛い思いをさせてしまったみたいですね」
「……大丈夫です。ただ、少しだけ……色んなことがありすぎて……混乱してしまって」
「そう。ですが、彼の言ったことはあまり気にしなくて、構いませんよ。何せ……彼はこの世界の全てを実験対象としている、危険な思想の持ち主ですから」
「そうなのですか……?」
「えぇ。君が出会った不届き者は、おそらくアダムズ・ワーズ……ある意味で俺達の生みの親であり、アレキサンドライトの原石から生み出された原初のカケラのうちの1人です。……カケラという存在がこの世に産み落とされた当初から、自身の探究心を満たすために暗躍してきた怪人ですよ」
原初のカケラの年齢が如何程なのかは、流石に分からない。しかし……発端は大昔の貴族の余興とは言え、研究の初期段階から既に存在していたというアダムズは、双璧を成すダイヤモンドのカケラと同様に、舞台裏で並々ならぬ存在感を示していた。しかし、あまりに強すぎる選民思想故に、自分達を生み出した人間達を忌避し、逆に研究のために彼らの社会を利用し始めたのは記憶に新しい。その上、同類であるはずのカケラ達さえにも一方的な基準を設けては……見下すように常々、毛嫌いしている。
「ご存知の通り、宝石には硬度という強度の基準がありまして。君の核石になりつつあるルビーも相当の硬度を持ちますが、アレキサンドライトもかなり硬い方でしてね。そして、硬度が7.5以上のものを貴石と、ヴランヴェルトでは定義していますが……アダムズは自身がアレキサンドライトの宝石の完成品であるのをいいことに、貴石の完成品以外を徹底的に見下す傾向があります」
「そう、だったのですね……。でもあの人、ラウールさんの事を正式名称はナンバー3だなんて、言っていました。私、それがとても……悔しくて」
そして、アダムズはモーリスの事を捨て石などと、吐き捨てたらしい。そんな事を吐露して、いよいよ悲しそうに咽び泣くキャロル。ラウールとしては、彼女の涙は自分が侮辱されたためのものだとばかり思っていたが……話を聞く限り、甚だ見当違いの誤解だった事を思い知る。その涙は彼女自身のためではなく、自分達のため。そんなことに思い至ると、1粒、また1粒と……こぼれ落ちる優しい雫が流れる頬に唇を寄せ、打算だらけだった悪巧みもかなぐり捨てて。今、1番伝えたい事を囁く。
「……ありがとう、キャロル。でも、君がそんな風に泣く必要はないのです。例え、蔑まれて、疎まれても。俺達は確かに生きているのです。そう……誰かと一緒に生きていく事は、十分に可能なのですよ。君がどんな風に思ってくれているかは、分かりませんが……満月であろうと、なかろうと。少なくとも俺の方は、君と一緒であれば……大抵は幸せです」
結局、肝心のお願い事と言い訳はできなかったけれども。ようやく1つ、伝えたい事を見つけられて約束通りに彼女を抱きしめれば、生まれて初めての充足感が身体中を満たしていく。その余韻を包み込んで照らすように……柔らかな月光は2人の影さえも、ゆっくりと溶かしていった。
【おまけ・スフェーンについて】
鉱石としての名称はチタナイト、宝石扱いの場合はスフェーン。
モース硬度は約5.5。和名は「楔石」。
幅広い多色性を持つ宝石でもあり、クロム含有による鮮やかなグリーン系が人気ではありますが、ゴールデン系のルースも非常に迫力があるため、甲乙付け難いとされています。
また、ダイヤモンドよりも光の分散率が高いことが最大の特徴で、その輝きは研磨次第ではダイヤモンドを凌駕します。
しかし……硬度が硬度なので、研磨が非常に難しいみたいですね。
また、透明度が高いルース自体も非常に希少なため、宝石質スフェーンはかなりの貴重品。
……やっぱり作者には一瞬たりとも拝む機会のない、超希少品であることだけは間違いなさそうです。
【参考作品】
『ジキル博士とハイド氏』
2人で1人。
いくら精神を分割しようとも、彼らはどんなに頑張っても1人の人間でしかなかったのです。
尚、「エドゥアール・スカーシェ」は単純に原作の「エドワード・ハイド」をフランス語に置き換えただけだったりします。




