スフェーン・シークハウンド(25)
「お前は完全に包囲されているー! 無駄な抵抗は諦めて、出てこーい! グリードッ‼︎」
「おや、この声は兄さんですか? ……全く。相変わらず、こちらの空気も都合もお構いなしなのですから……」
ジェームズの案内に従って、彼の居場所を探り当ててみれば……独特な臭いを撒き散らす、小さな研究室に辿り着く。既に震えも治ったキャロルによると、目の前で眠りこけているエドゥアールこそが、ブロディ博士が変身した存在なのだという。そんな彼を見つめては、この緊急事態によくもまぁ、こんなにも熟睡できるものだと思いつつも。彼の肩に僅かな銃傷があるのにも目敏く気づき、彼は囮として残されたのだと理解する。だとすれば……。
「キャロル。そろそろ、自力で歩けそうかい?」
「はい、大丈夫です」
「そう。でしたら……すみません、ジェームズ。キャロルを連れて、先に帰っていてください」
【ウム、ドウシテだ?】
「さっきの声は兄さんのものです。きっと、しっかりとお仕事に駆り出されているのでしょう。そんな兄さんもいる所で……俺とあなた達が一緒にいるのを見られるのは、非常によろしくありません。彼らの目は逸らせるようにしておきますから、あなた達は裏口から先に逃げてください」
グリードの提案にキャロルが少しばかり、不安そうな顔をしたが……彼女の不安を押し切るように、ジェームズがポシェットをグイグイと引っ張りながら、移動を促す。そんな彼の様子に相変わらずお利口な番犬だと、満足げに手を振って彼らを見送ると。いよいよ、置き去りの共犯者を起こしにかかる。……文字通り、冷や水でも浴びせれば、目も醒めるだろうか。
「はい、起きてください! エドゥアールさん!」
「ゴフッ……⁉︎」
突然の水責めに、何をするのかね……と意外と冷静に応じながらも、自分を見つめる紫の視線に途端に怯え始めるエドゥアール。その様子に彼が例の探求者を知っている事を感じ取ると、無駄に怯えさせないように、自己紹介をし始めるグリード。この場合の目標はあくまで、懐柔。決して、強引に引き渡してはいけない。
「……俺はグリードと申しまして。あぁ、怯えなくても大丈夫ですよ。人の命は取らない主義ですから。先程、依頼主ご所望の人質の保護をさせていただきまして。ご了承をいただきたく、こうしてご挨拶に寄らせていただいた次第です」
「……な、なんだって⁉︎ まさか、あの子を私から奪うつもりなのか⁉︎」
「おや、間違えてはいけません。あの子はあなたが奪ったのでしょう? 相手の感情を無視して、縛り付けても意味がないことくらい……精神科のお医者様でしたら、お分かりでしょうに」
グリードの指摘に、自分の正体が既に割れている事にも気づいたのだろう。やや興奮して頭はカッカしているようだが……飲み込みの早さを見ていても、話は意外と通じそうだ。
「あなたのした事は、とても許される事ではないでしょう。既にスカーシェ氏の方は警察で指名手配もされています。殺人に、非人道的な実験。俺としても……非常に許しがたい光景でした」
「お前なんぞに、許されなくとも……私の人生は終わったのだ。このまま逃げる事もできんだろうな。何せ……既に私はこちら側に取り込まれてしまっている。もう、自分でも今はどっち側の自分なのかさえ、分からん。戻ろうにも……薬の再現もできなかった」
薬の再現……? 言葉の真意を確かめようと辺りを見渡せば、作業台の上に殊の外自己主張も甚だしい真っ赤な液体が鎮座しているのが、目に入る。その薬品を手に取り、蓋を開けてみると……独特な刺激臭が途端に鼻を突く。
「これは……燐とエトキシエタンの香りですか? それに……こっちの破片はもしかして……」
「それは私が善意と悪意を分けるために作り出した、薬の材料だ。塩類とチタナイトをベースに調合していたのだが……最初と同成分の材料が手に入らなくなってしまってね。最近注文した塩類はどうも、精製度が上がってしまったのか、不純物の含有量が変わってしまったようなのだ。その上……チタナイトもかなりの曲者でな」
「……鉱物名・チタナイト、宝石扱いの場合はスフェーン。多色性をハッキリと示す宝石ですが、その変色性は不純物の含有量に大きく左右されます。……それでなくても宝石は元々、全てが唯一無二の天然素材です。そこに安定性を求めるのは、最初から無理があったのでしょう」
「フン。随分と詳しいじゃないか。……その通りだよ。私は自分の論と構成は完璧だと思っていた。だが、変身効果が偶然の産物だったことを今になって、思い知る事になったのだよ。どうして……自我を分けられるなんて、思ったのだろうな。善意のブロディと悪意のスカーシェ。見た目は違えど、どちらも結局のところ……1人の人間でしかない。2人合わせても、どこまでも1人にしかならない事に……気付くのが、遅すぎたんだ。こうなってはもう、逃げる事もできないだろう。きっと、私はこのまま……愚かなブロディを飲み込んだスカーシェの姿のまま、捕まるしかない」
だったら、いっそ自害してしまおうか。悲しそうに笑いながら、大粒の涙を流し始めるエドゥアールに……最後の夢を見せてやろうと、誰かさん譲りの親切心を出してみる。確かに、色々ともう手遅れだろう。だけど、こうして彼が後悔の念と罪悪感に苛まれているのを見る限り、まだ間に合う部分もある。
「警察から逃げる事はできなくても、悪意から逃げ出す方法はまだありますよ?」
「悪意から……逃げ出す方法?」
外で未だにモーリスが声を上げているのを半ば無視しながら、粛々と夢の提案を語り出すグリード。この辺りは本人の返事次第だが……きっと、彼女なら喜んで協力してくれるだろう。
「泥棒の俺が言うのも、おかしな話ですけれど……罪悪感を感じているのなら、自首をして罪を償う事を考えましょう。確かに、あなたのした事は許されることではありません。それでも……あなたの中にはまだきちんと、後悔をする善意が残っているではありませんか。でしたらば、残った善意でしっかりと悪意に打ち勝つのです。もし、あなたがその選択をするのであれば……俺もささやかながら、お手伝いしましょう」
「お手伝い……?」
「えぇ。あなたの拠り所でもある彼女に面会に来てもらえるよう、依頼主に頼んでおきますよ。まぁ、あの依頼主はかなりの曲者ですけれど。それでも、そこまで根性は曲がっていないと思いますけどね」
白々しくそんな事を言いながら、最後にそれではご機嫌ようと……言い残して闇に掻き消える怪盗。その闇に溶けるシルエットを見つめながら、彼の夢語りについてようよう、理解したのだろう。濁っていても、少しだけ輝きを取り戻した瞳を涙で濡らしながら……エドゥアールは決心したように、研究室を飛び出した。




