スフェーン・シークハウンド(19)
「突然、連れてきてしまってすまなかったね。でも、私には時間もなくて……こうするしかなかったんだ」
「こうするしかなかった……? 時間がないとは、どういう意味でしょうか?」
キャロルがストックに連れられて案内されたのは、何やら研究室と思われる部屋だった。薬品の匂いなのか、目眩を起こしかけるような独特な空気が、部屋には充満していたが……部屋の主人はそんな匂いにさえ、慣れ切ってしまっているのだろう。研究室の異常な空気に神経がヒリヒリするのを感じながら、キャロルは目の前の立派な紳士……ブロディ博士の淀んだ瞳を見据えていた。輝きも弱く、まるで蝋引きにでもしたような白濁した瞳に、彼が何かの病に侵されているのだろうという事にも、すぐに気づく。
「……そう、時間がないんだ。私は実験に失敗してしまってね……」
「実験に失敗?」
「そうだ。自我の分離……とある協力者から与えられたヒントを元に、私は自分の善意と悪意とを分ける実験に取り掛かったんだよ」
独白とも取れる、綿々と続く言い訳。
彼の言い分によると、協力者から数多くの実験台を与えられた事によって、ますますそちら側の研究と実験にのめり込んでいった……という事らしい。そうして得られた実践結果の膨大な成功例に、彼はそれまでに傾倒していたとある仮説を証明する時がきたのだと、確信したのだそうだ。しかし……その前例は、どこまでも人間でしかなかったブロディ博士に対しては、成功をもたらさなかった。医者という職業に葛藤しながらも、探究心と欲望を優先した結果……悍しい悪意が彼の善意さえもを蝕み始めた事。鎖を断ち切るためには、悪意に対する安寧が必要だった事。そして、望んだ安寧を得るためには……。
「そう、それが君の存在なのだよ。あぁ、そうだ。……まだ、君の名前を伺っていなかった。あの酒場の前で悪魔でしかなかった私にさえ、手を差し伸べてくれた天使の名前を、是非……聞かせてくれないか」
「酒場の前で……? その怪我の痕はもしかして……!」
「あぁ、そうさ。あの日、君に出会った悪魔……エドゥアールは私の悪意が顕現化して変身した姿だったんだ。……スフェーンの心臓という特殊な宝石を使った実験は、確かに成功例を積み上げていった。分割と二極性による、とある存在達の自我の分割は、見事に1つの命からそれぞれに独立した存在を産み落とした。元々、彼らは双子で生み出すのが一般的であったのだけれど……っと、それは君に語る必要はないかな。きっと、君は彼女らの存在とは無縁な場所で暮らしてきたのだろうから。さ、名前を聞かせてくれないか? これから……ここで一緒に暮らしていくのだから、教えてくれないかな」
「……あなたにお名前を教えるつもりはありませんし、ここで暮らしていくつもりもありません」
「あぁ、大丈夫。別に病院で暮らせ、と言っているわけではない。私の屋敷は中央街にあってね。君はそこで何不自由なく暮らしてくれれば、それでいい。欲しいものは何でも、買ってあげよう。出かけたい場所があるのなら、どこへでも連れて行ってあげよう。それで……」
「そういう意味ではないです。……私は贅沢がしたいわけでも、欲しいものがある訳でもないんです。それに……殺人者と一緒に暮らしていける自信もありません」
名乗ることも、申し出も頑なに拒絶するキャロルの精一杯の抵抗に、意外そうな顔をした後に……さもおかしいと、壊れたように笑い始めるブロディ博士。その狂気を前にして……キャロルは彼の中身は既に、悪意そのものの方なのだと、悲しいほどに理解していた。
「君は……本当に優しいのだね。いや、仕方なかったんだ! 君の居場所を探すには、どうしても、あのキャブマンから情報を引き出す必要があった。しかし、ね……彼は本当に、馬鹿な男だったよ。きちんと君の送り先は教えてくれたのだけど、あろうことか見返りを寄越せと言ったのだよ! しかもだね! あの日の君は実は1人じゃなくて、恋人がいるらしいこともご丁寧に喋ってくれて! これ以上、不愉快なことがあるかね⁉︎ 私にこそ必要な相手を得るのに、どうしてそこまで邪魔されなければならない⁉︎ どうして、そこまで神経をかき乱されなければならない⁉︎ もう、時間がないんだ! 後戻りもできない! もう、戻れないんだ……! あの頃の私に……元の私に戻る方法を探しているだけだというのに……それすら、もう……許されない……」
一頻り、壊れたおもちゃのようにけたたましく笑っていたかと思うと……ブロディ博士が、今度はさめざめと泣き出した。そうして気がつけば……彼の姿は既に立派な紳士のそれではなく、悪意が全てを飲み込んだ事を示す、醜悪な悪魔に変化していた。
……自分が元に戻れる方策を探している。悲しいまでの渇望を、他の誰かからも聞かされた気がして。目の前で起こった怪奇に怯える神経をようやく保ちながら……その誰かさんの所に帰りたくて、キャロルは泣き出しそうになるのを堪えるのが、精一杯だった。




