スフェーン・シークハウンド(9)
「まぁ……その人、ジェームズの知り合いでしたの?」
【タブン。ただ……まだ、ワカラない】
「それで、それを確かめに夕方もお出かけするのですね……。でしたら、どうしよう? 私はお留守番した方がいいでしょうか?」
「その判断はお任せします。キャロルが来たいと言うのなら、無理に止めるつもりもないよ」
これが酷暑というヤツなのだろう。まだ7月の上旬だというのに、閑散とした通りに惜しげもなく降り注ぐ眩しい程の太陽。そんな見つめただけで暑さが増しそうな地獄に出るのは諦め、薄暗い店の中でたっぷりの氷で冷やされたコーヒーを頂ければ。……大抵の状況は天国だとつい、ラウールは思ってしまう。
「ところで、ソーニャ。ブロディ、という名前に聞き覚えはありませんか?」
「ブロディ様……あぁ、存じていますわ。ジョン・ブロディ博士。確か……ロンバルディアでも屈指の医学博士で、中央街に立派な精神病院をお持ちのお医者様だったかと。でも……それが、昨日のあの方とどういう関係が?」
「ジェームズの記憶に残っていた、薬品の臭いの持ち主だそうです。それで……昨日、ソーニャ達が遭遇した青白い紳士からも、同じ臭いがしたという事でしたが。しかし、ジェームズがブロディ博士に会っていたタイミングはカケラ側の事情に巻き込まれた時でもあるので、その臭いをさせている方がいるとなると……」
ジェームズの記憶にもしっかりと刻まれる程に、独特な臭いを持つ薬品。しかし、生前のジェームズがブロディ博士に会っていた場所は表舞台ではなく、裏舞台のみである。となると……その薬品は、宝石人形達の臨床実験に使われていた薬品である可能性が高い。そして、生前のジェームズが人としての別れを告げても尚、その臭いを身に纏った人物がいるとなると、答えは1つ。未だに、ブロディ博士は何かしらの研究に手を染めている……という事だろう。
「なるほど。でしたら、私はヴィクトワール様の所に行ってまいりますわ。騎士団長様であれば、ブロディ博士の事を何か存じているかも。それに、結婚式の事も相談しなければなりませんし。それでなくても色々と物入りですから、お仕事も斡旋していただかないといけませんわね。とてもではありませんが……モーリス様のお給金だけでは、この先も不安ですし」
「……そ、そうですか……」
その不安なお給金から銀貨3枚を毟り取ろうとした事に、少しばかりバツが悪い気分にさせられるが。しかし、兄弟とは言え、商売は商売だ。それに、婚約指輪に鎮座するのが値切られた金額で用意されたダイヤモンドだと知れたら、目の前の花嫁のご機嫌も谷底に真っ逆さま……地の底まで急降下もいいところだろう。
【……モーリス、オカネない。ラウールも、オカネない。ジェームズがゲイでもスレバ、カセげるか?】
「いいえ、大丈夫ですよ、ジェームズ。……あなたにまでそんな心配をさせて、すみませんね」
【ウム……】
逃亡劇の去り際に吐いた「持ち合わせがない」というのは建前でも言い訳でもなく、本当の事だった。散歩帰りにスタンドでコーヒーを買う持ち合わせさえもない、甥っ子の様子に心を痛めたのだろう。ジェームズがさも悲しそうに、スンスンと鼻を鳴らし始める。もちろん、用意しようと思えば多少の金は用意できるのだが。キャロルはともかく、飼い犬にまで心配されるとなると……余った報酬は気前よく撒いてしまう散財癖も、そろそろ見直した方がいいのかも知れない。




