スフェーン・シークハウンド(8)
まだ朝の早い時間だというのに……そこかしこで薄汚れた壁に背を預けて崩れている、飲んだくれの姿が目に入る。それと同時に、辺りに充満し始めた饐えた悪臭。ここは栄華を極めるロンバルディアにあって尚、細道の先々に縦横無尽に広がる、下級労働者街。昨今の経済発展によって、中流階級の層が厚くなってきたとは言え、底辺の暮らしぶりは今も昔もさして変化はない。故に……このエリアは非常に危険だと、腹を括るべきだろう。
自分の努力では決して覆せない、理不尽な掃き溜めの境遇。そこに生まれ落ちたというだけで、否応なしに押し付けられる貧困。そんな不条理を埋める方策に恐喝を選ぶのものまた、ある意味で止むを得ない事情だというのも、紛れもない1つの原理ではある。とは言え……。
(俺はそんなセンチメントでお情けを差し上げるほど、甘くはないのですけど)
きちんとした身なりをして、立派な犬を連れているあっては、吹き溜まりの貧民街ではイヤでも目立つ。そんなラウールを久しぶりの獲物とばかりに……気付けば、鼻を色々な意味で赤くさせているならず者達が、彼を包囲していた。
「兄ちゃん、こんな場所で何をしてるんだ? この辺りは、通行料が必要なんだが?」
「おや、そうだったのですか? それはそれは、失礼致しました。俺はこの辺りで、人探しをしておりまして。あなた達は、えっと……顔面蒼白のやや小柄で、不気味な男を見ませんでしたか? なんでも、口が少しばかり大きくて耳まで裂けそうなほどに歪んでいるのだとか。そんな感じの方、ご存知ありませんかね?」
「……さぁ、知っているような……知らないような。おい、お前は知ってるか?」
「あぁ、なんとなく知ってるかも。確か……ここを抜けた大通りのホージェニーで騒ぎを起こした奴じゃないかな」
ホージェニー……? あまり、聴き慣れない店の名前だが。しかし、ここを抜けた先は確か、属国のメーニックの所轄だったかと思う。ロンバルディアとの行き来は自由とは言え、あまりいい噂を聞くエリアではないはずだ。
「そうでしたか。貴重な証言をありがとうございます。では早速、そちらに足を伸ばしましょうか……って、ジェームズ大丈夫ですか? そろそろ、暑くなってきましたし……今日はこの辺で、帰ります?」
【クゥン……】
犬らしく、弱々しい鼻声で帰ろうの意思表示をするジェームズ。彼の健気な演技によしよしと頭を撫でてやっては、1つの作戦を互いに確かめると……咄嗟の勢いで背後のゴロツキを跳ね飛ばし、逃げ道へ一目散とばかりに駆け出す。
「って、おい! ここは通行料が……」
「あぁ、すみません。生憎と持ち合わせがないのです。ですから……俺達は逃げる事にしました!」
「ちょ、ちょっと待て!」
「待てと言われて、待つバカはいませんよ!」
相手をしてやっても良かったのだが、不法侵入の乱入者が無駄に縄張りの持ち主達を怪我させる必要もない。そうして、1人と1匹で示し合わせたように全力疾走してみれば。ほろ酔いもいいところの酔っ払いの足には到底、追いつけないだろう。それでなくても……。
(流石にドーベルマンは足も速い。これは……キャロルでも追いつけませんかね?)
自分も逃げ足の速さには、そこそこ自信があったのだが。「人は傷つけない」がモットーでもある至上平和主義者の俊足さえもを遥かに凌駕する、黒い瞬足。その姿はまるで、空間を易々と切り裂く漆黒の矢のようだ。
【ラウール、オソい。このまま、ホージェニー……イク】
「……これでも、足は速い方なんですよ? いくらなんでも……サラブレッドの足に追いつけと言う方が、無茶です。それに、今朝はキャロルには何も説明せずに出てきてしまいました。そろそろ帰らないと、ソーニャも怒らせかねませんし……捜査は夕方に改めましょう」
【ソウカ、キャロル……オきているか。なら……シカタない。カエル】
そうそう。聞き分けが良くて、いい子ですね。
やや不服そうなジェームズを慰めながら、ようやく開店準備に入った店が並ぶ中央通りの帰り道を行く。しかし……夕方の散歩に関しては、何と言い訳しようかな。殊の外、ジェームズとの散歩を楽しみにしているらしいキャロルからそのお役目を取り上げるのは、一筋縄では行かないだろう。だったら、この場合は隠し事をするよりも、正直に理由を説明した方が……何かと穏便に済むだろうか。




