空を飛ぶベニトアイト(4)
人混みに揉まれるのもそこそこに、ご自慢の夕陽を眺めてみようと部屋に戻れば。そこには確かに、オーナーが絶景と胸を張るのも頷けると言わんばかりの、美しい光景が広がっていた。昼間は青かったはずの海はほんのりと黄昏色に染まっており、地平線の向こうには仕事帰りで意気揚々と輝く太陽が沈みかけている。鮮やかなコントラストに、ラウール以上に素直に感動しているらしいキャロルが、久しぶりにはしゃいだ様子でバルコニーに躍り出た。そうして彼女が窓を開けた瞬間に入り込んでくる、心地よい潮風。その潮風に吹かれながら、夕日にシルエットを溶け込ませるキャロルの姿に……少しながら、違和感を感じるが。
そういえば、あの日から妙に……?
(もしかして……キャロルの背、少し伸びましたか? 以前はもっと……)
小さくて、幼かった気がする。それこそ、店のカウンターに座っていれば、お人形かと見間違うくらいに華奢で、子供らしい顔立ちをしていたと思っていたが。
そんな事を考えながら、マジマジと彼女の背中を見つめていると、キャロルも背後に彼の視線を感じ始めたらしい。どこか不安そうな赤い瞳で、こちらを見つめ返している。
「……どうしましたか、ラウールさん?」
「いえ……。君の背って、こんなにあったかな……と思いまして」
「……今更、気付いたのですか?」
「えっ?」
詰るようなお言葉に……彼女の背が伸びた事に気づかなかったのは、かなりの減点要素だった事を痛感し始めるラウール。あぁ、なるほど。彼女はラウールがそういう諸々の変化に気づかなかった事に、今の今まで不満だったのだろう。どこか怒った表情で頬を膨らませては、更に彼の無関心さを責め始めた。
「……今の今まで、私がちょっと大きくなったのに気づかなかったのは、ラウールさんだけです……。モーリスさんも、ソーニャさんも、すぐに気付いてくれましたよ? しかも、モーリスさんはとっても大人っぽくなったって、言ってくれて。それで、ソーニャさんと一緒に新しいお洋服を買いに行こうって……お出かけにも、ついて来てくれました。今日着ているワンピースだって、新調したものだったのに……」
「そ、そうだったのですか。えぇと……」
兄に譲ったのはどうも、毒やアルコールへの耐性だけではなかったらしい。片割れとして生まれた時から、ずっと。モーリスはラウールが逆立てたトゲをなだらかにする潤滑油よろしく、その場を丸く収める稀有な特性を備えていた。しかも、タチの悪いことに……細かい機微や変化には目敏く気付いて、誰かさんよりも的確にフォローできてしまうのだから、いけない。
(兄さんも、余計な事をしてくれますね……。これでは……)
挽回のチャンスが1つ、潰れてしまったではないですか。
あまりに自分勝手な都合を、兄の気配りへ恨めしげに転嫁してみても。……どうすればいいのかが、ちっとも分からない。何れにしても、どうにかしてそれらしい言い訳を繕わなければ。
「えぇと……この場合は、君もいけないと思いますよ?」
「どうしてですか?」
「だって……最近は並んで歩くことさえ、許してくれなかったではないですか。前は素直に手を繋いでくれたのに。ちょっと大人になって、それすらしてくれないのですから……以前の状態と比較するシチュエーションがなくて、気づけないのは当然ではないですか」
完全に詭弁である。しかも、言い訳としても非常に苦しい上に……どこか必死さが滲み出ていて、余計に格好悪い。それでも表だけは取り繕わねばと、精一杯不機嫌を取り戻して、プイとそっぽを向いてみる。しかし……我ながら、子供っぽいのはどっちだろうと思うと、いよいよ情けない。
「変な言い訳しても、許してあげないんですから。大体……ラウールさんはいつも自分は悪くないって、主張するからいけないんです。そんなんだから、人の気持ちにも気づけないのではないですか?」
「そうなのですか?」
「はい。私はそう思いますよ」
「ゔ……そうだったのですね……。でしたら……」
今まで気づかなくて、すみませんでした。今度からもっと、色んなことに気付けるように頑張ります。
少しばかり拗ねながら、そんな事を言ってみても……フテた生徒の言い訳に、ちょっとした心理学の先生が許してくれるはずもなく。
「もぅ、なんですか。その捻くれたお返事は。そういうことでしたら……しばらく、許してあげません。ちゃんと道具も持ち込んでいましたし、ここで改めてコーヒーを淹れ直してあげようと思っていたのに。やっぱり、お預けです」
「コーヒーを……淹れ直す、ですか? しかも……道具まで?」
「そうですよ? だって、コーネではあんなにコーヒー、コーヒーって煩かったじゃないですか。しかも、あのご様子ですと、さっきのコーヒーは気に入らなかったのでしょう? ですから、代わりに……シフォンケーキのお礼くらいしてもいいかなって、考えていたのに……」
例え一度であろうとも、不正解の代償はあまりに大きい。しかも、彼女の方はコーヒーの不出来までしっかりと見抜いているのだから、これはどこをどう頑張っても太刀打ちできない。そんな超えられない壁をまざまざと悟ると、誠心誠意、コーヒーを淹れてくださいと頼み込むラウール。そうして愛しいツバメ缶を拝む頃には、あれ程までにご機嫌だった夕日も呆れ顔で沈み切った後だった。




