紅蓮舞姫とマラカイト(7)
「お帰りなさい、兄さん。……その顔ですと、例の事件に巻き込まれたみたいですね?」
「あ、あぁ……ただいま、ラウール。うん……お察しの通り、オペラ劇場の“舞姫事件”にしっかり巻き込まれてきたのだけど……」
「そう。それはそれは……お疲れ様でした」
既に掛かっているプレートが「CLOSE」になっている扉を開けば、開口一番にラウールが出迎えの挨拶と一緒に、モーリスのお仕事を労ってくる。普段から例の怪盗が出没しなければ、大抵は平穏なロンバルディアにとって……舞姫事件は色々な意味で、センセーショナルな出来事だった。各紙新聞でも一面に取り上げられているのは無論のこと、中には既にマリオンを犯人だと決めつけて、ご立派な社説を展開しているものさえある。事件が起こってから、たった半日だというのに……その狂騒はマリオンは犯人ではないだろうと踏んでいるラウールにとって、滑稽以外の何物でもなかった。
「ところで……ソーニャとキャロルは?」
「……ショックのあまり、床に伏してますよ。新聞社の大多数が、マリオンさんを犯人扱いしていますからね。……すっかりマリオンさんの大ファンだった彼女達にしてみれば、その悲嘆は当然なんじゃないですか?」
さも呆れた、とでも言うように肩を竦めて見せると、いつになく甲斐甲斐しくモーリスの夕食を運んでくるラウール。そうしてテーブルに並ぶ久々の質素すぎる食事に……今晩のソーニャは完全休業日なのだという事を思い知る。
「なんだろう……こうして味気ないマッシュポテトを口にするのが、今はとても嬉しいよ」
「味気ない、は余計ですよ、兄さん。それでなくても、最近は連日散財続きなのですから。……こういう時こそ、切り詰めなければなりません」
「ハハ……それもそうか」
険しい顔をしつつ、コーヒーを啜りながら……今度は捜査のあらましについて質問し始めるラウール。そして……かれの質問に、素直に応じるモーリスだったが。これはは間違いなく、弟が首を突っ込むつもりなのだろうと勘繰っては、警戒してみる。
ラウールの勘の鋭さが圧倒的な精度を誇るのは、モーリスとてよく分かっている。そして、彼の勘を頼るのは非科学的だと言われようとも、何よりも理に適ってもいる事も知っている。無論、ホルムズ警部も件のキレート剤の出所が出所だったりしたので、弟が少し顔を見せるくらいは許容もしてくれるだろう。ただし……今回は余計な登場人物がいるせいで、ややこしくなりそうなのがとにかく気がかりなのだ。
「ふ〜ん……警察はマリオンさんを犯人にするための証拠集めに精を出しているのですね。ただ、俺は……ソーニャ達の話から、マリオンさんが犯人ではないと思いましたけど」
「ソーニャ達の……話? えっと……まさか、もしかして?」
「その、まさか……です。彼女達、今日も飽きずに“紅蓮舞姫”を見に行ってましてね。スーザンさんの衣装が燃え上がる瞬間も、間近で見てしまったようです」
ラウールの告白に、手を額にやって嘆くモーリス。きっと荒事にも慣れているらしいソーニャはともかく……キャロルが目にするには、熱々の光景はあまりに残酷なものだったろう。
「そうか……キャロルちゃん、大丈夫かな……」
「心配するのは、キャロルの方だけなんですね。……ククク、流石は兄さん。よく分かっていらっしゃる」
「こんな所で茶化すなよ。……それで? 宝石鑑定士様の見解では、マリオンさんは犯人じゃないということだけど。その根拠は?」
「その根拠は……マラカイトです」
「マラカイト?」
「そう、マラカイト」
「……悪いんだけど、僕にも分かるように説明してくれないかな。生憎とそれだけで閃ける程、聡くないんでね」
「そう、いじけなさんなって。……まぁ、それはさておき。俺も実物を見ていないから、なんとも言えませんが……新聞広告に載っていたスーザンさんの衣装は存じてましてね。おそらく赤い孔雀模様の織物生地を利用しているものと思われましたが、そこに縫い付けられていたマラカイトが全て本物だったかというと、少々怪しいものがあります。と言うのも、マラカイトは非常に脆い宝石なんですよ。そんな宝石を宝飾品ならいざ知らず、舞台衣装なんかに使ったら……あっという間に数個は欠けたり、割れたりするでしょうね」
「う、うん……衣装の概要については僕も何となく、聞いていたけど……。それがどうして、マリオンさんの無罪の証明に化けるんだ?」
「兄さんはマラカイトグリーンしゅう塩酸をご存知で?」
「マラカイトグリーン……しゅう塩酸? ……それも宝石なのか?」
「いいえ? マラカイト、はあくまで色が似ていたからついている名前ですよ。マラカイトグリーン自体は染料として使われる薬品ですが……あの宝石の中に、それが利用されていたものが混ざっていた場合は、舞台で利用するには甚だ危険だと言わざるを得ません」
「どうして?」
「マラカイトグリーンしゅう塩酸は発火性のある薬物なんですよ。そんなものを毛織物みたいな静電気を帯びやすい素材とセットで、煌々としたスポットライトの下で使ってみなさい。まぁ……この場合は、もしかしたらスポットライトにも細工がしてあった可能性もあるでしょうが、運が悪ければ舞台は文字通りに大炎上でしょう。その上、マラカイトグリーンしゅう塩酸は発火した場合は棒状放水では、暴発する危険性がありまして。……ソーニャ達の話では勢いよく水を掛けたのに、鎮火できなかったということでした。ですので、消化に使われたのは棒状放水の消火機器だと考えていいと思います。電気器具が多い舞台では、消火器具は感電の恐れが少ない棒状放水が選択されるものですし、それは自然なことでもあるのですけど……何れにしても、犯人は舞台設備の詳細を知っていてかつ、あの衣装をマラカイト込みでセッティングした人物だと考えるべきでしょう。端役しか与えられていないマリオンさんに、あれ程までに豪華な衣装を用意できるとは、到底思えませんね」
そこまで朗々と少し得意げな顔をしながら、各紙社説顔負けの持論を展開してみせるラウール。彼のどこまでも自信満々の面持ちに……明日の朝は弟同伴の出勤になるかもしれないと、モーリスは早々に覚悟をし始める。彼の持論を証明するのは、大いに結構だろうが。それに付随するであろう署内の熱視線を想像しただけで、兄としては既に頭が痛い。




