彗星のアレキサンドライト(10)
屋敷の空気に何か騒つく物を感じながら、自室で綺麗にかかった満月を見上げては、ため息をつくルヴィア。その空気の原因は分かっている。あのグリードが父親宛に予告状を出した事は当然ながら、ルヴィアも知っていて……それ故に、今の彼には自分の元を訪れる余裕もない事に、彼女は落胆していた。
「大丈夫ですか、お嬢様。さ、お出かけの準備をお願いします」
「あなたは……警部補さん? 屋敷はこの状態なのに……出かけるって、どこに?」
「フフ。どこだって、いいではありませんか。お嬢様にしてみれば……この部屋以外だったら、どこでもいいでしょう?」
見慣れていたはずの気弱そうな青年の顔……だったはずのモーリスを改めて見やれば、明らかな違和感がある。そうして目を凝らせば、何故か警部補の格好のまま、虎の仮面を身につけた彼がそこに立っており……瞳の色を確かに認めると、ルヴィアは俄かに身震いが止まらない錯覚に襲われた。まさか……!
「あなた……もしかして、グリード……さん?」
「あぁ、そうか。暗い場所だと俺の目の色は変わるんだっけ。……すっかり、忘れていました」
「そう。警部補さんが、まさか大泥棒さんだったなんて、思いもしなかったけど……でも、いいの? 今日はあのアレキサンドライトを盗みに来たのではなくて?」
「いやいや、俺はあくまで泥棒ですよ? それにしても、俺……そんなこと、言いましたっけ? 再チャレンジはするって言ったけれど。同じ獲物を狙うなんて事は、一言も言っていませんよ?」
「それ……どう言う意味?」
「今回の俺の狙いは、この屋敷で最も美しい紅玉……フフ、とにかく行きましょう? 2番目が皆さんの視線を集めてくれている間に、俺はお仕事を済ませるつもりなんですから」
「……?」
彼の言葉の真意を考える間もなく、いつかに彼女を攫い出した時と同じように、ルヴィアを抱き上げるグリード。そそくさと、いつものバルコニーに出ると……まるで夜空を舞うフクロウのように、音もなく易々と街の屋根を飛び回る。そうして、彼の腕に抱えられながら見上げた夜空には……不気味だけれども、この上なく美しい黄金色をした満月が、穏やかにこちらを見下ろしていた。
「……月が綺麗。こんなに大きな満月を見たのは、初めてです……」
「そうですか? それは何よりです。……さて、今宵はあまり大騒ぎするつもりもありません。この街の風景はきっと、今夜が見納めになりますから……しっかりと思い出として、刻み込んでください」
いつかに連れ出された時と同じように、釣鐘塔の天辺に辿り着くと、目の前の光景を見つめるように促すグリード。しかし……ルヴィアはその光景以上に気になることがあって、そっと彼の仮面に手を掛ける。
「……おや。俺の仮面に手を出すのは、マナー違反です。これはとっても大切な物なんですよ。だから……さ、そのお行儀の悪いお手を引っ込めてくれませんか」
「……私は元々、お行儀が悪いのです。私が貴族になったのは……ここ数ヶ月でしかありませんから」
「貴族はお行儀がいいものと、誰が決めたのです。あいつらが綺麗なのはオモテだけ……誰かから奪い取った幸せで何不自由なく暮らしているだけの、この上なくお行儀が悪い奴らだと、俺は思いますけどね。と、それはとにかく……お願いですから、言う事を聞いてください。そんな風にされたら、あなたを落としてしまいます」
しかし、グリードの制止も懇願も虚しく……ルヴィアは彼の手が塞がっているのをいいことに、仮面に手をかけるとそのままそっと剥ぎ取る。
「……こんなに素敵なお顔なのに、仮面で隠すのは勿体ないと思いますよ?」
「全く……褒めればいいものではありません。この仮面は俺のプライド……いや、意地ってものでしょうかね。この面を着けていれば、俺はどんな時でも追い立てられ、狩られる側になるでしょう。だけど……その狩られる側が、本当は恨みも怒りも燻らせている事を奴らは忘れている。だから、俺はそんな奴らにきっちりと仕返しをしたくて、目印にこの仮面を着けているのです。貴族様の屋敷で無残に踏み荒らされている虎の敷物が、かつては獰猛で美しい生き物だった事を……忘れている奴らに、目に物を見せてやりたいのです。……それなのに、目印を奪われたら俺はタダの泥棒でしかなくなってしまいます。だから……お願いです、大人しく仮面を返してください」
「そう、でしたの。ごめんなさい……」
切々と頼み込まれ、意味をはっきりと理解すると申し訳なさそうに仮面を戻すルヴィア。そうして仮面を戻したついでに彼の首に手を回すと、そっと彼の頬に口づけをする。
「これから、泥棒さんは私をどこに連れ出してくれるのですか? きっと、この後の行き先はあのバルコニーではないのでしょう?」
「そう、ですね。実はちゃんと迎えを用意してあるのです。だから……大丈夫。今度こそ、自由になれますよ」
取り戻した仮面越しに柔らかく微笑む、大泥棒。一頻り月明かりに照らされた後、釣鐘塔から落ちるように身を滑らせると、そのまま逃避行の続きとばかりに屋根を延々と疾走する。
彼の言う行き先を、ルヴィアには予想はできないけれど……それでも。窮屈なあの部屋よりは、きっと素敵な世界に違いないと……月を見上げるのと同時に、自分の気持ちもフワフワと上向くのを確かに感じていた。