彗星のアレキサンドライト(1)
鳴り響く警笛、獰猛な警察犬の唸り声。眠りに落ちていたはずの街が、明らかな異常事態に再び目を覚ます。しかし……迷惑な騒音にも関わらず、喧騒を何かの合図とばかりに街の人々は窓の外を見つめては、今か今かと彼らの獲物を一目見ようと、その登場を待ちわびていた。
今宵は満月……大きな月の掛かった夜空を飛び回るように屋根という屋根を疾走しながら、厳戒な包囲網さえも易々と飛び越えていく、1人の男。それは大胆不敵にも予告状通りに現れた大泥棒……「強欲」をその名に掲げる、怪盗紳士・グリード。
貴族や商人……はたまた政治家。そんな錚々たるターゲットから財宝を鮮やかに盗み出すテクニックに、「狙った獲物は逃さない」と噂される一方で、分け前を貧しい者達へ分け与える義賊の側面を持ち合わせる彼の人気は、被害者であるはずの大金持ち達のそれを遥かに上回るのは、当然というもの。故に、突如として街を包み込んだ喧騒は、叩き起こされた街の住人にとって一種のエンターテイメントでもあった。しかし……。
「ついに追い詰めたぞ、グリード! 観念して、お縄につけ!」
今回の予告状の相手が街の名士でもあり、大物政治家でもあるロヴァニア家ともあれば、警察としても取り逃すわけにはいかない。それでなくとも、幾度となく彼を取り逃し、その度に名誉も威信も強かはたき落とされてきた。そのため、今宵の大捕物に配備された人員の数と彼らの意気込みは、並々ならぬものがあり……流石の大泥棒も逃げ道を塞がれては、観念せざるを得ない。……ように見えたのだが。
「ククク……君達はそんなに俺を縛り上げたいのかい? まぁまぁ、慌てなさんな。揃いも揃ってそうも見事に間抜け面だと、流石に俺も警察の皆さんが可哀想になってしまいますよ?」
「な、なんだと⁉︎」
絶体絶命の状況にも関わらず、余裕の態度を崩さないグリード。そうしていとも簡単に屋根の上から飛び降りると、一際彼に熱視線を送っていたホルムズ警部に歩み寄る。
「おや? どうした、警部。このグリードめも今回ばかりは、大人しくお縄を頂戴いたしますから……お望み通り、俺を縛り上げたらいかがでしょう?」
「……」
寝ても醒めても思い焦がれていた、憧れの怪盗が不敵な笑みをこぼしながら、こちらを見つめている。虎を模した黒いドミノマスクの奥から覗く瞳は、深い紫色をしており……その色は見る者をどこか引き込むような、妖しい光を帯びていた。
「う、うむ……こうもしおらしいと、却って不安だが……」
「そうですか? 正直なところ、俺も逃げ回るのに少々疲れたと言いますか。今回は……皆様の熱意に根負けしたのですよ」
「おぉ! そうか、そうか! それでは、早速……!」
根負けのフレーズに確かな優越感を感じて、嬉々として差し出されたグリードの両手に手錠を嵌めるホルムズ警部。そうして大人しく彼に引き摺られて、しばらくは警部の後に続くグリードだったが……。
「ところで、警部。いつも思うのですが……どうして手錠っていうものは、無駄に大きいんでしょうね?」
「……何だと?」
「ほら……こうすると、簡単に手が抜けてしまいますよ?」
「……⁉︎」
しかし、そこはやはり大泥棒。錠前破りなど朝飯前とでも言わんばかりに、右手を手錠から抜いて見せるとそのまま「バイバ〜イ」と手を振り始めた。
「アッハハハハ! この程度で油断しおってからに! 本当に皆さんは間抜け揃いで、愉快だなぁ!」
「……! グ、グリード! 騙したな!」
「俺相手に背中を見せるのが、いけないんですよ。クッククククク……! 本当に面白すぎて、お腹が痛いや」
「お、お前達! なんでもいい! とにかく、グリードを捕まえろ!」
さも愉快と腹を大袈裟に抱えながら、蹲るグリード目掛けて今度は警察官達がめいめい取り押さえにかかる。そうして警官団子とも言わんばかりの人の山に押しつぶされては、逃げ場どころか呼吸さえも塞がれてしまうように思えるのだが……しかし、一頻りの拘束の後、そこに彼の姿はなく……石畳の上には、彼が身につけていたはずの黒いマントがひっそりと置き去りにされていた。
「……グググググ! と、とにかく探せ! まだ、そう遠くへは逃げていないはずだ! 追えッ! 追うんだ‼︎」
悔しそうな警部の野太い号令に、慌てて散り散りに走っ去っていく警官達。こうして満月の度に繰り返される、擦った揉んだの喜劇。そして今回の深夜の逃走劇もまた、怪盗紳士・グリードの勝利で終わった……はずだった。