表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/46

フェアガンゲンハイト/過去のひとかけら

Vergangenheit


過去

12月も半ば、来週にはクリスマスがくるという週末。

アレンとロッテは、街の広場で行われているクリスマス市に足を運んでいた。


ロッテに誘われて飲みに行って以来、プライベートで出かける機会はなかった。

年の瀬も間近に迫って、仕事が忙しかったのもある。

他愛のない会話から、週末はお互いに予定のないことが分かった。

それならばと、連れ立って出かけることにしたのだった。


ロッテは茶色のコートを着て、長い緑色のマフラーを巻いていた。

足元は、内側にもこもことした素材の付いた、暖かそうなブーツを履いている。


アレンもいつもより厚手の上着を着て、黒いマフラーを巻いた。

11月の終わりからクリスマスにかけて開かれるこの市は、長く寒い冬の楽しみのひとつである。

成獣も幼獣もこぞってマーケットの開かれる広場を訪れ、クリスマスまでの期間を楽しむのだった。


12月の始めのころ、ロッテは職場でもらったという小さなモミの木の鉢植えを持って帰ってきた。

彼女は、それに飾るオーナメントがほしいらしい。

小さなツリーに何を飾ろうか、前日からあれこれと考えを巡らせていた。


街の中でも比較的大きなマーケットに顔を出すと、寒い中にも多くの獣たちが訪れていた。

広場には、オーナメントを売る店、クリスマスの置物を置く店、軽食を売る店などが軒を連ねている。

市場にあふれるクリスマスの匂いは、楽し気にアレンの鼻腔をくすぐる。

他に漏れず、彼もクリスマスが好きだった。


オーナメントを売る店はたくさんあり、ロッテは何を買うか決めかねているようだった。

あちこち見て歩くうちに、体も冷えてくる。

ちょうどホットワインを売る屋台に出くわし、少し休憩することにした。


ホットワインは、クリスマス市の代表的な飲み物のひとつだ。

赤ワインをベースに数種類のスパイス、果物などが入っている。

屋台ではそれを大鍋で温めていて、注文すると陶器のカップに入れてくれるのである。

カップは年や場所によってデザインが異なり、毎年それを集める熱心なコレクターもいるくらいだった。


「ありがとう」

アレンの手渡したカップを、ロッテは両手で受け取った。

ロッテが頼んだのは、アルコール抜きのホットジュースであった。

前回の飲み会で記憶をなくしたのを気にして、近頃はアルコールを控えているらしかった。


ロッテは、アレンの少し先を歩いている。

いつものように長く編んだ三つ編みが、楽し気に左右に揺れている。

それを見ているだけでも、今日は一緒に来られてよかったと思えた。

心が温かい気持ちになるのは、ホットワインを飲んだためだけではなさそうだった。


ガシャンと音がして、カップが弾ける。

それに気付かないのか、ロッテは獣たちの行き交う先を見ている。


「ロッテ」

追いついて声をかけると、ロッテははっとしたように振り返る。

やっと足元の割れたカップに気が付き、屈んで破片を拾おうとした。

そのひとつが、彼女の指に刺さる。

ロッテは声も上げずに、反射的に指を引っ込めた。

そしてまた立ち上がると、同じ方向を見ている。

切れた指を包むようにつかむ手が、小刻みに震えている。

何かが、おかしかった。


「ロッテ、どうかした?」

その声も聞こえていないのか、彼女は依然として獣の群れを見ている。

目を逸らせずにいる、そんな印象だった。

一体、その先に何があるというのか。

ロッテが見据える雑踏の中に、アレンは目を凝らした。


クリスマス市を楽しむ獣の中で、その異質さはすぐに目に留まった。

その種類にしては体の大きな、1匹のオスのハイエナ。

毛並みはぐしゃぐしゃで、体もたるんでいる。

薄汚れたコートを羽織って、手には紙袋に入った酒瓶を持っている。

その頬に大きな古傷があるのが、ここからでもよく分かった。

ロッテが気にしているのは、おそらくはこの獣であった。


ハイエナは酒瓶に口を付けては、ぶらぶらと歩いている。

その周りには、そこだけ少し空間がある。

関わり合いになりたくないという、周囲の意思の表れであった。

酒臭い汚れた獣が傍を通ったとき、近くにいた小さな羊の子は母親の脚にしっかりとしがみついた。


時おり周りに悪態を吐きながら、ハイエナはだんだんこちらに近付いてくる。

今やロッテは顔を上げることもできず、ずっと下を向いて震えている。


「ロッテ」

アレンがもう一度呼びかけると、ロッテは彼の上着の裾をギュッと握った。

「アレン、お願い」

「お願いだから、わたしを隠して」

「あいつに見つからないようにして」

「お願い」

「お願い」

下を向いたまま、ロッテは懇願した。

彼女は、相当追い詰められている。


彼は巻いていたマフラーを外すと、それを広げてロッテに頭から被せた。

そして彼女を包むように抱き締める。

腕の中でも、彼女の震えは止まらない。


「ちっ!イチャつくならよそでやれ!」

ロッテを抱くアレンの背中を肘で突いて、ハイエナは通り過ぎて行った。

それが再び雑踏の中に消えていくのを確認して、彼はようやく腕をほどいた。

マフラーを取ると、ロッテは硬く目をつぶっていた。

両手を、色が変わるほどに握りしめていた。


*****


部屋に入って、アレンはまず壁に設置してあるセントラル・ヒーティングのスイッチを入れた。

しばらくすると、リビングが柔らかな暖かさに包まれる。

ロッテは、コートも脱がずにキッチンのテーブルに着いている。


まだ乾ききっていない指の傷口からは、血が盛り上がってきている。

アレンは戸棚から救急箱を取り出して、彼女の指に絆創膏を巻いてやった。


「コーヒーでも飲もうか」

ロッテは返事をしなかったが、アレンはマグカップを2つ用意した。

湯沸かし器をセットして、スイッチを入れる。

ほどなくして、しゅんしゅんと湯気が上がる。


カップにインスタントのコーヒーを入れているときだった。

「何も聞かないの?」

「ん?」

「どうしてわたしがあんなになったか、あなたは何も聞かないの?」


アレンはすぐには答えず、沸いたお湯をカップに注ぐ。

ロッテのカップには、ミルクを少し入れた。


「聞かないよ」

彼はそう言うと、ロッテの前にコーヒーを置いた。

マグカップの中では、白いミルクがまだ渦を巻いている。

ロッテは軽く鼻をすすって、コートを脱いだ。

そのコートを椅子の背にかけて、コーヒーのカップを両手で包む。

アレンは向かいに腰かけ、自分もコーヒーを飲んだ。


「聞かないのは」

コーヒーを一口飲んで続ける。

「無理に聞き出そうとは思わないから…」

「でもそれは、不必要に干渉したくないっていう気持ちからじゃなく、きみに関心がないからってわけでもない」

「話したくないなら、無理に話すことはないと思ってるんだ」

ロッテは、黙ってコーヒーを見つめている。


「ただもし、きみが話したいならちゃんと聞く」

「きみが何か困っているなら、助けたい」

「そう、思ってる」


窓の外では、雪が降り始めている。

それをまったく感じないほどに、部屋の中は暖かだった。


「ありがとう、アレン」

「でも今は、きっと話せない…」

「うん」

それきり、会話は途切れた。

しかし、それは息の詰まるような沈黙ではなかった。


*****


雪は、深々と降り積もる。

ロッテはいつものように窓辺に腰かけ、外を見ている。

昼間のことに、考えを巡らせていた。


あれだけの獣の群れの中でも、わたしはすぐに気付いた。

あの、顔に大きな傷のあるハイエナ。

年を取って落ちぶれた感じはあったけど、間違いはない。


あいつはよく【ツォー】を訪れては、決まってわたしを指名した。

わたしを椅子に縛りつけ、乱暴に服を破く。

下着すら着けていない上半身に、舌を這わせてくる。


手には、いつもよく研いだナイフを持っていた。

それで、わたしの体を撫でる。

研ぎ澄まされたナイフの刃が、薄く肌に食い込む。

ピリピリとした痛みを感じる。


あいつはそれを、何度も何度も何度も、飽きるまで続ける。

わたしの肌はそのたびに薄く剥がれ、血が滲み、苦痛で顔が歪む。

その顔を、あいつは愛おしそうに眺めている。

本当に、狂った場所だった。


ロッテは、片足を曲げて窓辺に座っていた。

そのももの付け根に、そっと手を触れる。

そこには、【1021】という彼女に与えられた番号がある。

あの晩アレンがそれを見たことを、ロッテは知らなかった。


客はいつも、その番号でわたしを注文する。

興味本位で名前を聞く者もいたが、たいていは自らの欲望を満たすのに忙しそうだった。

切りつけ、殴られ、焼かれ、水で責められ、ただ眺められる。

それが、わたしたちの日常だった。


きっと、わたしは今でも狂っている。

こんなところで当たり前のように暮らしているけれど、きっと心は腐ってしまっている。

わたしがすべてを話したとき、彼はどんな顔をするだろう。


ハンスにどこか似た、アレンというオオカミ。

彼はわたしを助けたいと言ってくれた。

あの言葉に、嘘はないと思う。


わたしは彼にすべてを話せるだろうか。

体をさらけ出し、助けてくれと言えるだろうか。

わたしの過去を知って、彼はどんな顔をするだろうか。


見たくない。

ロッテは思った。

怪訝な顔で眉をひそめ、汚れたものを見る目つきで見てほしくはなかった。

そんな思いをするくらいなら、このまま打ち明けないままのほうがいい。

わたしという人間を完全に理解してもらうことはできないだろうけど、今までのような日々が続くならそれでいい。


なぜ、わたしは彼に理解してほしいのだろう。

わたしのことを、どうして分かってほしいと思うのだろう。

どうして、わたしに失望してほしくないのだろう。


もしかしたら、これが恋というものなのだろうか。

本でしか読んだことのない、恋というもの。

誰かを思う気持ちと、誰かに思われたいという気持ち。

わたしは、アレンに嫌われたくないと思っている。


こうも思う。

もしわたしの恋が叶ったとして、わたしはアレンに何をしてあげられるだろう。

彼が望むだろうものは、わたしはきっと与えてあげられない。


胸が詰まるような思いがして、ロッテは顔を両手で覆った。

雪の降る窓辺は、ひんやりと冷たかった。

ロッテは泣くこともできずに、ただそこに座っていた。


鉢植えの小さなツリーは、今もそのまま置いてある。

結局、オーナメントは何も買えなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ