フェアリーベン1/彼女に恋をしている…
verlieben1
恋をする1
アレンは、ぼんやりとした意識の中で何かの音を聞いていた。
その音は次第にはっきりと、彼の耳に届くようになってきた。
ベッドのスプリングが、規則正しくきしむ音。
誰かが吐き出す、息の音。
そこに時おり混じる、押し殺したように上がる声。
そういえば、前にもこんなことがあった。
かつてのルームメイト、メス遊びの激しいホワイトタイガーだ。
またか、もういい加減にしてくれよ。
アレンは思わず耳を覆いたくなる。
しかし、それは隣の部屋から聞こえてくる音ではない。
それは彼のすぐ傍で、いや、彼自身の発している音であった。
最後に大きく息をついて、アレンはベッドから体を起こした。
まだ少し呼吸が乱れていて、肩で息をしている。
そのたびに、肩甲骨がぐっと盛り上がる。
彼は呼吸を整えながら、自分が体を起こしたばかりのベッドを見下ろす。
くしゃくしゃに皺の寄ったシーツの上に、彼女はいた。
彼女もまた、喘ぐように息をしている。
汗で髪の毛が額に張りつき、結った長い三つ編みもほどけかけて乱れている。
手は何も着ていない体の上に無造作に置かれており、その隙間からは胸のふくよかな丸みが見て取れる。
「アレン……」
そこに横たわるロッテに名前を呼ばれ、アレンははっとした。
*****
誰かに頭突きでもするのかというくらいの勢いで、アレンはベッドから跳ね起きた。
全身に、じっとりとした寝汗をかいているのが分かる。
夢の中と同じように、はあはあと肩で息をしている。
こんなことは、もう何度目だろうか。
「勘弁してくれ……」
自分にそう言うと、片手で顔を覆った。
『おまえは、ロッテに恋をしているのさ』
いつぞやのことだったか、彼女の下着をくすねてしまうよう助言をした本能が再び現れる。
そいつは鏡の中から、歯を磨いているアレンに話しかける。
『あいつをモノにしたいと思う心が、おまえにそんな夢ばかり見せるんだよ』
鏡の中の自分は、憎たらしくケケケッと笑っている。
彼はそんな自分の相手はせず、ただ無表情で黙々と歯を磨き続けた。
ロッテに恋をしているか。
その点については、否定する気はない。
俺は彼女の雰囲気を好ましく思っていたし、彼女もまた俺のことを嫌っているわけではないらしい。
自分の中にあるものを恋と呼ぶのかもしれないと気付いたのは、やはり、あの風邪で寝込んだ日だったと思う。
朦朧としていたくせに、自分に触れたロッテの手を今も覚えている。
献身的な看病は、彼女の親切心によるものかもしれない。
しかしそうであったにしても、俺は今では、彼女にすっかり恋をしてしまっているらしい。
オスって、本当に単純だと思う。
同時に、誰かを恋焦がれる気持ちは、そういう単純なところから生まれるのだろうとも思う。
そう、俺は彼女のことが好きだ。
何か文句があるか?と自分に言ってやりたいが、実際、問題はゆるやかに起こりつつある。
冬が迫るこの時季は、オオカミという獣の発情期でもあるからだ。
自分でも、厄介な時季に恋をしたと思っている。
発情期は、むろん毎年訪れる。
今までは特定の誰かに好意を持っていたわけではなかったので、何となく道行くメスが気になったり、何となくムラムラする程度で済んでいた。
しかし、今年は違う。
恋の相手がはっきりしていて、幸か不幸か、おまけに同じ部屋に住んでいる。
そのため、その矛先が一点に集中する結果となり、怪しい夢まで見始める羽目になっている。
本当に、どうしたものだろうか……。
手早く身支度を終えると、アレンはバスルームから出た。
そこで、ちょうど起きてきたロッテと鉢合わせしてしまった。
「あ、おはよう」
ロッテはまだ眠そうに、目をしょぼしょぼとさせている。
「今日も早いの?」
「あー、うん」
「行ってきます」
アレンはそれだけ言うと、そそくさと部屋を出た。
そういうわけなので、今は彼女のことを直視することができないでいた。
そのうちに、爪をむき出し舌なめずりをして襲いかかってしまいそうだからだった。
恋と発情の板挟みとなっているアレンは、仕事が忙しいと理由を付けて、なるべくロッテと顔を合わせないようにしていた。
*****
職場にほど近いコーヒースタンドで朝食を食べていると、急に後ろから声をかけられた。
「おはよう、アル」
「早いね」
振り返った先には、フローリアンがいた。
渡りに船とは、まさにこのことだった。
イケパカでメスとうまく遊ぶことを心得ているフローリアンなら、今の状況に何かアドバイスをくれるかもしれない。
そう思ったアレンは、恋と発情に悩む心境を彼に打ち明けた。
もちろん、相手がロッテだということは伏せておいた。
「ふーん、アルも大変だね」
「ぼくなら、そういうタイミングならむしろ行動を起こしちゃうけど」
だろうな、と思った。
しかし、いろいろなメスと遊んでいる割には、彼についての嫌な噂は聞かないから不思議だ。
よほどメスを虜にするテクニックでも心得ているのか、天性のメスたらしなのか……。
「それができないから、困ってるんだけど……」
アレンがむくれてそう言うと、フローリアンは爽やかに笑った。
「アルは真面目だもんね」
「体の相性を知ることから始まる恋もあるんだけどね」
「でも、そんなに困ってるなら……」
「抑制剤でも飲めば? 効くよ?」
「あー!」
そういうものがあることを、すっかり忘れていた。
抑制剤とは、過剰な発情に困る獣用に開発された医薬品を指す。
服用すれば、その間の発情を抑えることができる優れものである。
ドラッグストアや薬局で、処方箋なしに購入することが可能。
有識者の中には獣本来の性質を損なう恐れがあるとして、使用を危ぶむ声もある。
今まで発情で困ったことなどなかったので、そんな薬があることはすっかり記憶から抜け落ちていた。
たまにCMで見かけることもあったが、自分には必要のないものだとも思っていたからだった。
さすが、持つべきものはメスたらしのイケパカだと思った。
決して、バカにしているわけではないのだが。
*****
その日の夕方。
仕事終わりのアレンは、アパートの帰り道にある薬局に寄った。
たまに利用する店だが、抑制剤なんて買ったことがないものだから棚が分からない。
何となく店員に聞くのもはばかられて、無言のまま店内をぐるぐると探し回った。
ようやく、数種類の抑制剤が陳列してあるワンコーナーを見つける。
箱を手に取って、用法を読んでみる。
ふと、すぐ隣に【発情誘発剤】が置いてあるのが目に入る。
発情を抑える薬もあれば、発情がなかなかこない獣のための誘発剤もある。
いつだったか、チャドがその誘発剤を使ってえらいことになったと騒いでいたのを思い出す。
『もう、すげーぞ! とにかく、すげー!』
よく分からなかったが、彼は興奮してそう話していた。
どうして自分の周りには、こうも盛ったやつが多いのだろう。
いっそチャドのようになれたら、自分も幸せかもしれない……。
いや、こちらも決してバカにしているわけではないのだが。
そんなことを思い出しながら箱とにらめっこをしているときだった。
「アレン?」
ロッテに背後から声をかけられて、アレンは死ぬほど驚いた。
「やっぱり!」
「アレンも買い物?」
「あ、ああああ、うん」
言わずもがな、箱は後ろに隠す。
「ねえ、このままうちに帰るなら一緒に帰らない?」
そう言われて、断るのもおかしいと思ってそうすることにした。
彼女が別の棚を見に行っている間に、抑制剤の中で一番即効性のあるタイプを選ぶ。
ミネラルウォーターのボトルも見つけ出し、それらを素早くレジに持って行く。
アレンは錠剤を飲むのが苦手だったが、今はそんなことも言っていられない。
シートから1回分の3錠を取り出し、ボトルの水で流し込む。
そこへ、買い物を終えたロッテが現れた。
セーフ!
彼は、心の中でガッツポーズを決めた。
アパートまでは、歩いて10分ほどの道のりだ。
獣通りもまばらになった道を、アレンとロッテは連れ立って歩く。
さっき飲んだ薬が効くのはまだ少し先のようだったが、服用した安心感からか変に焦ることもなかった。
「何だか、会うのがすごく久しぶりみたい」
「変よね、ルームメイトなのに」
そう言って、ロッテは笑っている。
アレンは、仕事だと嘘をついて避けていたので気が咎めた。
「そうそう、今度の土曜日って何か予定はある?」
「え? その日は何もないけど……」
「もしよかったら、一緒に飲みにいかない?」
「実は、大家さんに頼まれた仕事で臨時収入があったの!」
「何したの?」
ロッテの話はこうだった。
入居を決める面会でヤマアラシの大家に会ったとき、ロッテは彼女をかなり美化した絵を描いて気に入ってもらった経緯がある。
その腕を見込まれ、大家の友達に贈る絵を描いてほしいと頼まれたのだった。
写真を渡され、同じように描いてくれと……。
ロッテは、彼女のときと同じように描くことを忘れなかった。
出来上がった絵を見て、大家はいたく感激したらしい。
他にも贈りたいということになり、さらに3枚の絵を頼まれた。
そのお礼に、彼女からいくらか受け取ったらしい。
ここ最近ロッテとまともに顔を合わせていなかったので、そんなことになっていたのは知らなかった。
「ずっと誘おうと思ってたんだけど、なかなか機会がなくて」
「どう? わたしのおごりでってことで」
ロッテは、アレンの答えを待っている。
今は、抑制剤も持っている。
何より、彼女とプライベートな時間を共有できることは素直に嬉しかった。
アパートに着く前に、アレンは喜んでと返事をした。




