フューナーズッペ/アレン、風邪を引く
Hühnersuppe
チキンスープ
その前日の晩、夜間勤務だったアレンは屋外での警備にあたっていた。
既に12月も間近となり、最近は本当に寒い。
今さらながらに、警備会社で働いていることを呪いたくなるくらいだった。
勤務中に幾度となく体に違和感を覚えはしたが、あえてそれには気付かないふりをしていた。
そうやって逃げ切る方法も、彼は経験上知っていたからであった。
しかし、今回はそうもいかなかった。
ぼんやりとした体の不調は、うちに帰るころにはすっかり顕著なものになってしまっていた。
信じられないくらい体がだるい。
顔も全体的に熱くて、おそらく熱があるのは間違いない。
今さら自分の体に気のせいだと諭してみても、もうどうにもダメなようであった。
最寄りの駅までは、地下鉄でたった数駅。
そのほんのわずかな距離でさえ、立っているのが辛くて座ってしまう。
駅に着いて地上に顔を出したとき、果たして無事に帰宅できるか不安になった。
どうやって帰ったのかほとんど記憶はないが、日々の慣れという賜物か、彼は何とかアパートにたどり着いていた。
今度は階段を上がって、2階の一番奥の部屋に行かなくてはならない…。
どうにかして何とか階段を登り切り、もはや気持ちの上では這うような感じで部屋の前までやってくる。
最後の力を振り絞ってポケットから鍵を出し、ドアを開ける。
そこで、体力はゼロになってしまった。
*****
「何? アレンなの?」
バタンという何かが倒れる音を聞いて、仕事に行く支度をしていたロッテは部屋から顔を出した。
見れば、玄関のドアのところでルームメイトのオオカミが力尽きている。
「ちょっと、どうしたの!?」
ロッテは驚いて、急いでその傍に駆け寄る。
「だ、大丈夫……」
「帰ってきていきなり倒れるなんて、どう見ても大丈夫じゃないわよ」
ロッテは至極まともなことを言い、アレンを起こそうとする。
ロッテに支えてもらって、彼は何とか玄関に座り込むことができた。
「どうしたの? 具合が悪いの?」
ロッテは彼の顔を覗きこみ、額に手を触れている。
彼女の手の冷たさが嬉しい。
「風邪、引いただけ」
「大丈夫だから……」
自分では脚に力を入れて立とうとするのだが、どうにもうまくいかない。
下半身に、まるで重りでも付いているような気がする。
「とりあえず、部屋に行こうよ」
「つかまって……」
ロッテは、意外に力持ちだった。
彼女に脇を支えられ、アレンは何とか自室のベッドに倒れ込む。
とりあえずベッドに行くことができた安堵感が、節々の痛む体中に広がった。
「服も着替えなきゃね」
「適当に探すからね」
アレンは、ベッドに突っ伏すのが精一杯というところ。
それを察したロッテは答えを待たず、勝手にクローゼットを開けている。
「ロッテ……仕事……」
アレンの着替えを探す彼女の背中を見ながら、弱々しく声をかける。
「いいわよ、ちょっとくらい遅れても」
ロッテはようやく引き出しから着替えを見つけ出し、それを急いで引っ張り出した。
ベッドに何とか上半身を起こし、着ていた服を脱がせてもらう。
すぐにでもそのまま伏してしまいたかったが、その前に部屋着が頭から被せられる。
子どもが母親にやってもらうように、腕を出してもらい、裾を引っ張ってもらう。
ルームメイトにこんなことを手伝ってもらうのはどうかと思っていたが、それを口に出すことすら容易ではなかった。
「よし! 着替えは完了!」
ロッテは心持ち汗をかいて、アレンをベッドに寝かせた。
「ほしいものはある? 何か飲む?」
「いや……とりあえず……寝る」
やっとそれだけ言うと、彼は体が沈み込むような感覚を覚えて眠りに落ちた。
*****
どれくらい眠っただろうか。
アレンは、寝苦しさを感じて目を覚ました。
さっき帰ってきたときより少しましになったが、依然として倦怠感と悪寒、体の痛みは続いている。
熱も高くなったような気がする。
ふとベッドの脇に目をやると、たまにキッチンで使う折り畳みの小さなテーブルが出ていた。
そこには氷の入ったボウルやスマホ、タンブラーが置いてある。
ボウルを見たアレンは、自分の額に濡らしたタオルが置いてあるのにも気付く。
「どう? 具合は」
ロッテが現れた。
テーブルは、彼女が用意したのだろう。
「ロッテ、仕事は?」
「今は休憩時間なの」
どうやら、彼女はランチの時間を利用して帰ってきてくれたらしい。
もうぬるくなってしまった額のタオルを外すと、それを再びボウルの水で冷やす。
ギュッと絞って、またアレンの額に乗せてくれる。
「何か食べたい?」
ロッテが聞く。
「いや……いらない」
「そう」
「でも、飲めるならお茶は飲んでみて」
そう言って、ロッテはテーブルのタンブラーを取り上げてみせた。
「うん……」
再びうとうととしながら、彼は答えた。
「何かあったら、連絡してね」
そんな声が聞こえたような気がして、アレンは夢うつつの中で頷いた。
*****
次に目を覚ましたとき、部屋はもう真っ暗だった。
体を横にして、スマホを手に取る。
真夜中だった。
喉の渇きを覚えて、用意されたタンブラーに口を付ける。
風邪のときによく飲む、ハーブたっぷりの薬用茶が入っていた。
それを半分くらい飲み干して、ベッドに横になったときだった。
小さな音を立ててドアが開き、そっとロッテが入ってくる。
いつものナイトウェアに上着を羽織り、もこもこしたルームシューズを履いている。
アレンの様子を見にきたらしかった。
「ごめん、起こした?」
額のタオルを換えようと屈みこんだとき、ロッテは彼が目を覚ましているのに気付いた。
「さっき、目が覚めた」
「お茶、ありがとう…」
「うん」
ロッテは静かな声で答えると、昼間のように絞ったタオルを額に乗せてくれた。
「気分はどう?」
「うん……少しはいいかも」
「そう」
ロッテは、アレンの様子を見ている。
「汗かいた? 着替えたい?」
彼の首のあたりにそっと触れて、ロッテは聞く。
「今はやめとく」
「そう」
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみ……」
ロッテは、また静かにドアを閉めて出て行った。
部屋には、再び静寂が訪れる。
アレンはベッドに横たわって目をつぶったまま、子どものころを思い出していた。
昔の彼は体もあまり強いほうではなく、冬の足音が聞こえてくるとよく風邪を引いた。
そのたびに熱を出しては、ベッドで唸るのが常だった。
そんなとき、彼の母親はいつも優しく看病してくれたものだった。
服を着替えさせて風邪のお茶を飲ませ、体を拭いてくれたり優しく撫でてくれたりした。
さっき換えてもらった額のタオルは、まだひんやりとして気持ちがいい。
具合の悪いとき、傍に誰かがいてくれるのはいいものだ。
思えば、ここ数年で風邪を引いたときは自力でどうにかするより他なかった。
おととしなどは、1時間ほど玄関から動くことさえできなかったのだ。
ロッテのおかげで、今回は迅速に休養が取れている。
ルームメイトのありがたさを改めて感じ、アレンはとろとろと眠りに落ちていった。
*****
翌日、昨日の不調が嘘のようにアレンは気分がよかった。
あれから何度か起きてお茶を飲んだが、いつもよりゆっくりと眠れたおかげだろうか。
まだふらつく脚でバスルームに向かって、顔を洗った。
シャワーを浴びたいところだがひとまずは我慢し、体を拭いて着替えをした。
それだけでも、いくらかさっぱりはした。
「もう大丈夫なの?」
起きてきたロッテがその様子を見て、安心したように言った。
「うん、すいぶんとましにはなった」
「いろいろとありがとう」
昨日は朦朧としていたので、ろくにお礼も言えていなかった。
「いいよ、そんなの」
「ルームメイトなんだから、困ったときは当然でしょ?」
ふっと笑顔になり、ロッテは言った。
「今日は休むの?」
「いや、元から休み」
「そう」
ロッテは、もう仕事に行くらしい。
お大事にとドアのところまで行って、何か思い出したようだった。
「そうそう」
「鍋に、チキンスープを作ったんだった」
「風邪のときには、これだよね」
「食べたいだけたべてくれていいから」
そう言って、出かけて行った。
チキンスープと聞いて、昨日から丸1日何も食べていなかったことを体が思い出す。
キッチンのコンロに、大きな鍋が置いたままになってある。
ふたを開けると、表面にキラキラとした油の浮かんだ澄んだチキンスープが現れる。
骨付きの鶏肉が数本に、細かく切った野菜、パスタが入っている。
早く食べろと言わんばかりに、胃袋がギュッと縮まるような感覚があった。
アレンは、皿を取りにいそいそと食器棚に向かった。
*****
その晩。
ロッテが帰宅したとき、アレンは暖かくしたリビングでTVを見ていた。
「おかえり」
「チキンスープ、旨かったよ」
「ありがとう」
ソファに座った彼は、ロッテにそう言った。
「食べられたんだ?よかった」
バスルームで手を洗ったロッテは、キッチンに顔を出した。
「あれ、お鍋は?」
「え?」
「残りはタッパーに移したの?」
そう言って、冷蔵庫を開ける。
冷蔵庫の中身は、昨日彼女が開けたときのまま何も変わってはいなかった。
「え?」
「え?」
お互いの頭上に、クエスチョンマークが並ぶ。
「まさか、全部食べちゃったの?」
「あっ……よくなかった?」
「ごめん、全然考えてなかった……」
アレンは申し訳なくなり、少し小さくなってソファに座り直した。
「ううん、残しておいてくれってわけじゃないの」
「ただ、あの量を全部食べたのに驚いちゃって」
「大丈夫? 病み上がりなのに……」
「うん……大丈夫みたい」
しばらくの沈黙の後、ロッテは弾けたように笑った。
つられて、アレンも笑ってしまう。
風邪を引くのも悪いことばかりではない。
このとき初めてそう思った。
ロッテの看病と大量のチキンスープのおかげで、明日はまた仕事に行けそうだった。
大事を取って早めにベッドに入ったアレンは、仰向けになって天井を見ている。
時おり、外から車の音や道を行く獣たちの話し声が聞こえてくる。
空腹であったのは間違いなかったが、あのチキンスープは本当に美味しかった。
最初の一口が喉を通って胃の中に入っていく温かさを、彼はまだ覚えていた。
スープは昼間で食べきってしまっていたが、なぜか、まだその辺りが温かい。
その温かな気持ちが何なのか、アレンには何となく分かっていた。
ただそれにはっきりとした名前を与えることは、今は止めておこうと思っている。
今はまだ、体を休ませておいたほうがいいと考えていた。




