アレンとロッテとロイ
春にフローリアンの元に生まれた子どもは、彼に似て目元のぱっちりとした可愛らしいメスだった。
同じ年の夏の始め、アレンとロッテは結婚式を挙げた。
彼の故郷の村で行われたそれは決して大袈裟なものではなかったが、しかし喜びと祝福に満ち満ちていた。
アンゲリカは、ロッテのためにドレスを縫い上げてくれた。
彼女が張り切ってこしらえたその白いドレスは、シンプルながらもロッテにとてもよく似合っていた。
ロッテはヴェールを被り、エディーとララのの子どもたちが作ってくれた花輪を頭に載せていた。
椅子に座る彼女に、アレンは手を差し出す。
その大きな手をそっと握ったのは、彼のよく知る小さなあの手だった。
ロッテは、人として生きていく道を選んだ。
夫となるオオカミの手を取り微笑んだ彼女は、アレンが今まで見た中で一番美しかった。
*****
辺りを飛ぶ虫の、微かな羽音が聞こえる。
ラズベリーの甘酸っぱい香りの中に、アレンはロイの匂いを見つけた。
「見ーつけた」
茂みの入り口にいきなり現れたアレンに、ロイはびくっと体を震わせた。
「ママが見つけられないはずだな」
「ここは、パパとロイの秘密の場所だもんな」
ロイの隠れていた茂みは、木苺の枝が覆いかぶさるように生えてドームのような空間を作っている。
小さな入り口に四苦八苦して、アレンは大きな体を中に滑り込ませた。
成獣にはかなり狭いが、何とか座ることはできる。
「ロイ」
アレンは呼びかける。
その小さなオオカミは、膝を抱えてじっとしている。
怒ったように、唇をきゅっと結んでいた。
「ママから聞いたよ」
「サムとケンカしたんだって?」
小さなオオカミは、依然として何も答えない。
そっぽを向いたその瞳は、ロッテと同じ色だった。
「何かあった?」
「パパに話してみたら?」
アレンはロイにそれとなく促す。
ロイは、もうじき5歳になる。
早いもんだなと、アレンはしみじみと思う。
ロッテの他に、大切にしたいものができた。
アレンがそのことを知ったのは、結婚してまもなく1年が経とうとしていたときだった。
しかし、日が悪かった。
その日は4月1日、すなわちエイプリルフールだったのだ。
何が面白いのか会社でも下らない嘘が飛び交い、アレンは飽き飽きしていた。
やっとアパートに帰ってきたと思ったら、ロッテから話があると呼ばれる。
おいおい、まさか……。
アレンに嫌な予感がよぎる。
アレンは、ソファのロッテの向かいに座った。
ロッテは妙にかしこまっている。
「あの、実はね……」
それは、アレンがこの日散々聞いた決まり文句だった。
ロッテ。
きみもやっぱりそうか。
「実はわたし、お腹に赤ちゃんができたみたいなの」
「あー、うん」
「分かった分かった」
「うん……」
「……」
「うん!?」
アレンは、今しがた聞いたばかりのロッテの言葉を思い返した。
心臓が高鳴る。
「え? 今何て」
「赤ちゃんができたって……」
ロッテは難しい顔をして、何も言わずにアレンを見ている。
う、嘘なのか?
アレンは判断しかねた。
今日も、こういう顔をして嘘でしたー!と言う同僚(チャド含む)が何人かいた。
嘘か、本当なのか!?
どっちなんだ!?
ソファの上で、アレンはロッテに近付いた。
彼女の両肩を押さえ、目を見て言った。
「本当?」
こくりと、ロッテは頷いた。
アレンは、それでもどこか信じられなかった。
「ハンスにも誓える?」
あのとき、自分はきっと必死な目をしていただろう。
「誓うよ、ハンスにも」
その言葉は、彼女に嘘がないことの何よりの証拠だった。
一瞬フリーズしたのち、アレンの中で喜びが爆発した。
「やったーーーーー!!!」
そのままロッテを引き寄せて、体全体で抱き締めた。
ソファの上で大騒ぎしたので、ロッテを抱いたままアレンは床に転がり落ちた。
ドスンと大きな音がしたが、幸いにも階下はエントランスだった。
「はは、は、はははは……」
ロッテを胸の上に乗せたまま、アレンは泣きながら笑っていた。
いつの間にか、ロッテも同じ顔になっていた。
月日は流れ、ロッテは赤ん坊を産んだ。
その日はちょうど外せない仕事が入っていて、アレンは立ち会うことができなかった。
代わりに付き添ってくれていたフーから、生まれたと知らせを受ける。
仕事を終えて、タクシーを飛ばして病院へ急いだ。
それが運の悪いことに、病院の手前でタクシーが事故を起こしたのだ。
サイドからぶつかられて、アレンは窓ガラスに頭をこれでもかと打ち付けた。
額の隅が切れて血が出たが、彼はそんなことには気が付かなかった。
その場で車を降り、徒歩で病院に向かった。
頭から血を流して息も荒いオオカミを見て、産科の受付はザワついた。
あわや警備員に連絡されそうになったところを、迎えに出たフーに助けられる。
アレンは、病室のドアを静かに開けた。
個室は思ったより広く、窓からは柔らかな光が差し込んでいた。
窓際のベッドに寝ていたロッテは、まだ疲れたような顔でアレンに微笑んだ。
「ねえ、早く顔を見て」
そう言われて、アレンは部屋に置かれた小さなベビーベッドに屈み込む。
そこに寝ていた、とっても小さいもの。
アレンと同じ毛色に、少しロッテの髪の色が混ざっている。
後にロイと名付けることになるその小さなオオカミは、丸いお腹を上にしてクウクウと眠っていた。
「ねえ、あなたにそっくりでしょ?」
「大丈夫……この子はきっと幸せになれるわ」
ロッテのその言葉は、彼女が自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
*****
「サムが、わるいんだ」
ロイがようやく言葉を発する。
相変わらず、ふくれっ面をしている。
そのときのことを思い出したのか、少し顔が赤い。
「ママのこと、わるく言ったんだ」
「ママのこと?」
その内容は何となく読めたが、アレンは一応聞いてみた。
「ママが……にんげんだからヘンだって言った」
やっぱりそうだった。
泣きそうになったのか、ロイは膝に顔を押し付ける。
「そうか……」
アレンはその小さな頭を、大きな手でゴシゴシと撫でてやった。
ロイの頭を撫でながら、アレンはあることを思い出していた。
ノブ。
それは、今は離れて久しいアパートの部屋のノブだ。
あの日、アレンはそれをなかなか握ることができなかった。
ドアを開けた先には、ロッテがいる。
彼女がどのような選択をしたのか、アレンはまだ知らなかった。
ロッテは昨日、フーから薬の投与を受けたはずだ。
効果は1日もすれば現れると、あのウサギは言っていた。
アレンは、昨日は仕事が立て込んでいて帰ることができなかった。
つまり、このドアの先には彼女の選択の答えがある……。
ようやく意を決して、アレンはドアを開けた。
真っ先に、夕食のスープの匂いを感じた。
アレンは、キッチンに立つロッテを見た。
「おかえり」
振り返ってそう言ったロッテは、2日前に彼を見送ったのと同じロッテだった。
オオカミ柄のエプロンを締め、アレンに向かって微笑んでいる。
それが、彼女の答えだった。
「わたし、やっぱり人間のままでいることにしたの」
再びキッチンに向かって、ロッテは言った。
「獣になれば楽に生きられるかもって思ったけど、何だか自分じゃなくなってしまう気がして……」
「辛いことも楽しいことも、全部ひっくるめてわたしなのよね」
「それを脱ぎ捨てて、新しい自分になるのは違う気がしたの」
いつしかアレンは、ロッテを背後から抱き締めていた。
「ねえ、これでよかったよね?」
「ああ」
胸がいっぱいになって、アレンはそう答えるのがやっとだった。
人と獣のどちらになっても、自分はきっとロッテを愛することができたと思う。
それでも心のどこかで、彼女が人でなくなるのを恐れていた。
はっきりとした理由は、自分でも分からなかった。
アレンにとってのロッテは、人間のロッテだったのかもしれない。
人間の彼女と出会い、恋をし、愛を育んだ。
人であるがゆえに苦しい過去を抱えることになったロッテだが、それも含めて彼にとってのロッテだった。
一生かけて、甘やかして守り抜きたい大切な人。
顔を上げると泣き出してしまいそうで、アレンはいつまでもロッテの肩に頭を乗せていた。
*****
ロイは続ける。
「サムがあんなこと言うから、ぼく、おこってサムの手をかんじゃった」
「血は出なかったけど、サム、泣いちゃったんだ」
「そしたら、ママがこわい顔しておこったの」
「だからぼく、にげちゃったの」
アレンには、ロイの気持ちがよく分かった。
自分がもしまだ子どもで同じようなことを言われてしまったら、きっと相手をこてんぱんにしてやりたいと思っただろう。
「ロイは、ママが人間なのをどう思う?」
「……わかんない」
少し考えて、彼は答えた。
外は、だんだんと陽が傾きかけている。
「じゃあ……ママが人間なのはいや?」
今度は、首をぶんぶんと振った。
「ロイはママのこと好き?」
「……うん、好き」
小さなオオカミは、幾分か表情を明るくして父親のほうを見た。
「ねえパパ」
「ぼく、ママのいいところたくさん言えるよ」
「じゃあパパと競争しようか」
「どちらが多く、ママのいいところを言えるのか」
「うん!」
最後にはにっこりと笑って、ロイは元気に答えた。
「ママはかわいい!」
「あー、いきなり言われたな……じゃあ……ママは美人!」
「ママはケーキがじょうず!」
「ママは笑顔が素敵!」
「かみの毛がきれいな色!」
「料理も上手!」
父と子は、ラズベリーの茂みの中でロッテのいいところを言い合った。
夫だからこそ知っているいいところもあったが、それは口に出さないでおいた。
「ロイは、ママのことよく知ってるな」
「うん!」
「ぼく、ママのことだいすきだもん」
ロイの言葉に、アレンは目を細めた。
「それでいいんだよ、ロイ」
「おまえやパパがママを好きでいれば、ママはそれで幸せなんだ」
「友達が何を言っても気にするな」
「おまえが誰かに怪我をさせるほうが、ママはきっと悲しむぞ」
アレンの言葉に、ロイは不安そうな顔をした。
「それは……ぼくがわるい子だから?」
「違うよ、ロイ」
アレンはロイの肩を抱いた。
小さなオオカミは、くりくりとした可愛らしい目で父親を見上げた。
「誰かを傷つけると、ロイもきっと悲しい気分になる」
「ママは、ロイが悲しい思いをするのが嫌なんだ」
そう、かつてあの男の子を傷つけた自分がそうであったように。
幼い息子には、まだ少し難しい話かもしれなかった。
しかしアレンは、今すぐに理解する必要はないと思っていた。
成長しながら、自分の中で確かめていけばいい。
自分のこと、母親のこと、人と獣という存在について。
「帰ろうか」
「ママも心配してるよ」
「……うん」
親子は、ごそごそと茂みから這い出た。
出るときも、やはりアレンは苦労した。
*****
「あっ、帰ってきた」
「ロイーー!」
家の前で、ロッテが手を振っている。
以前より伸びた髪を、今はひとつに縛って肩から垂らしている。
ロイが1歳になろうかという頃、アレンとロッテはこの田舎に引っ越してきた。
子を持つ親となった彼らは、のびのびとした環境で我が子を育てたいと思ったのであった。
通勤には時間がかかるようになってしまったが、アレンは構わなかった。
ロイは、アレンの肩車の上で母親に手を振り返した。
ロッテの他に、庭には小鹿のサムとその母親もいた。
アレンがロイを下ろすと、サムがおずおずと近くにやってきた。
「ロイ、ごめん……」
サムは、小さな声で謝った。
「あなたも何か言うことがあるんじゃないの?」
ロイの後ろで、ロッテが優しく言った。
彼は、母親がもう怒っていないのを知って安心した。
「ぼくもごめん」
「手をかんじゃって……まだ痛い?」
「ううん、全然!」
そう言うと、サムはニカッと笑ってみせた。
ロイも、同じように笑ってみせる。
「こんど、ぼくのたんじょう日パーティーするんだ」
「サムも来てくれるよね?」
「うん、行く!」
「ロイのママ、ケーキじょうずだもんなー!」
サムの言葉に、ロッテは優しく微笑んだ。
手を振り振り帰っていくサムを、ロイはいつまでも見送っていた。
「さあ、うちに入ろうか」
アレンが促す。
「パパはお腹が空いたよ」
「ぼくもー」
2匹は、ワイワイ言いながらうちの中に入っていく。
ロッテはドアのところで足を止めて、暮れゆく夏の日にしばし目を奪われた。
空はピンク色に染まり、夜のブルーの中に溶け込み始めている。
こんな夕暮れを、彼女は前にもどこかで見たことがあった。
あれは確か、わたしがまだツォーにいたころだ。
あのときのわたしは、この美しさに気付くことができなかった。
ただ、夜がくることに怯えていた。
いつかこの夕暮れを泣きたいほどに美しく感じることなど、あのときのわたしは知らなかった。
「ロッテ、何してるんだ?」
「ママー!」
部屋の中から、アレンとロイが呼んでいる。
夕食のテーブルを準備する2匹に、ロッテは目を細めた。
「今行くわ」
ロッテは笑ってそう言うと、後ろ手で扉を閉めた。
彼女がようやく手に入れたこの幸せな時間が、どこかへ逃げて行ってしまわないように。
Fin.
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今になって考えれば、タイトルからサブタイトルまで、自分よがりな小説だったと思います。
それでも最後まで書き上がったことは、素直に嬉しく思っています。
またいつか、今度はもっと自信を持てる作品でお会いできればと思っています。
作品に評価を付けていただいた方々、ありがとうございました。




