ロッテ/選択のとき
Lotte
ロッテ
獣の世界においても、アレンの目前に現れ出たそれはかなり異質のものだった。
金の尾をなびかせて、そのオオカミはすべての脚で地に立っていた。
アレンをかばうように周囲を動き回る。
その鼻面には、幾本もの深いしわが寄っている。
牙をむき出して、ロッテは怒っていた。
*****
ロッテが現場に着いたとき、辺りは騒然としていた。
警察によって規制線が引かれ、野次馬たちは遠巻きに現場を見つめていた。
ロッテはその群れをかき分け、何とか最前列に出た。
「撃たれたのって、こいつじゃね?」
現場を撮影したのだろうか。
スマホを手にした若い獣が、その画面を指さして連れの獣に話しかけていた。
「うわー、血が出てんじゃん……」
「ちょっと、見せて!」
横から割って入ってきた人間に、2匹の獣はぎょっとした様子だった。
ロッテはそんなことには構わず、彼らの持つスマホを覗きこんだ。
拡大して撮ったせいか、画像は荒い。
しかしロッテには、それがアレンであることが分かった。
やはり、彼は撃たれた。
ロッテの不安は、確信に変わった。
「下がってください! 下がって!」
ぐいぐいと前に出てくる野次馬たちを、複数の警官が抑え込む。
ロッテも弾かれて、群れの外に出る。
そこへ、追いかけてきたフーが駆け付けた。
「ロッテ!」
「フーさん、どうしよう! 撃たれたのはアレンだった!」
「どうしよう、わたし……」
ロッテは、未だかつてない不安が体中を包むのを感じる。
そして同時に、体の奥底から何かが出てこようとする気配も。
フーははっと顔を強張らせて、ロッテの腕を引いて物陰に隠れた。
がくがくがくと、ロッテが大きく震えだす。
これから何が起ころうとしているのか、フーには予測が付いた。
おそらく、止められない。
フーの目の前で、ロッテは変貌した。
アレンの腕の中で変身したときとは違い、その獣は4本の脚で地に立った。
「ロッテ……きみは……」
事態は、思っていたよりずっと深刻だ。
フーが思うのと同時に、ロッテは駆け出した。
*****
あれは、ロッテだろうか。
大昔のように四つ足でうろつき回るその獣を見て、アレンは思った。
そのオオカミが自分をちらりと見た気がしたが、そこに彼女の心があるかは分からなかった。
オオカミは不意に天を仰ぎ、長く吼えた。
そして、牙をむき出して唸る。
その足元に、銃弾が撃ち込まれた。
金色のオオカミはそれをまったく意に介さないといった様子で、再びうろうろと動き回る。
時どき短く吼えては、アレンの周りをぐるぐるとうろついている。
その様子は、まるで彼を守ろうとしているかのようだった。
アレンとオオカミの様子をうかがっていたドミニクは、今こそアレンを救うときだと直感した。
アレンを助けに飛び出せば、撃たれる可能性もある。
しかし、あの金色のオオカミが盾になってくれるような気がした。
ドミニクの考えは当たっていた。
建物の影から大きなシロクマが飛び出してきても、そのオオカミはまったく構わないようだった。
ドミニクはアレンの腕の下に手を差し入れ、急いで安全な場所に運んだ。
アレンが物陰に引き込まれたのと同時に、そのオオカミもさっと走り去った。
ドミニクには、彼が助かったのを確認して帰っていったように見えた。
現場は、相変わらず騒然としたままであった。
*****
事件から3日後、アレンはベッドの上で目を覚ました。
銃弾は腹を貫通していたが、救出が早かったおかげで彼は一命をとりとめることができたのだった。
彼が目を覚ましたとき、一番に飛び込んできたのはロッテの顔だった。
オオカミではなく人の姿をしたロッテは、目にいっぱいの涙をためて彼を見ていた。
未だぼーっとする頭でそれを見て、アレンは自分が生きていたことを知った。
口を利けないアレンが何とか微笑むと、ロッテは目に溜まっていた涙を彼の上にこぼしながらそれに応じた。
フローリアンを狙撃しようとしたのは、合併後に吸収が決まっていた相手企業が雇ったスナイパーだった。
ロッテが時間を稼いだおかげで撃ってきた方向が分かり、狙撃手は後に逮捕されたという。
警護対象のCEOに怪我はなく、形はどうあれ、会社の面子もそこそこ守られた。
そのことを、アレンは見舞に来たドミニクから聞かされた。
「別に剥かなくてもいいんだけど……」
アレンは、ベッドに体を起こして座っていた。
すぐ傍の椅子にロッテは腰掛け、リンゴを剥いている。
アレンは、いつもリンゴは丸ごと食べてしまう。
「何言ってるの」
「お医者さんも、消化にいいものを食べるようにっておっしゃられたでしょ」
「この間まで、お腹に穴が開いてたんだからね」
「はいはい」
ロッテが皮を剥いて芯を取り、リンゴはようやくアレンの口に入った。
「調子はどうだい?」
手にしたフルーツの入ったバスケットをちょっと掲げて、病室の入り口にフーが現れた。
「おかげさまで、調子はいいです」
アレンが応じる。
ロッテがその後を引き継いだ。
「幸い傷の治りもいいみたいで、経過がよければ今週中には退院できそうなんです」
そう話すロッテに、フーは目を細めて相槌を打った。
次に目を開いたときには、とても真面目な表情でアレンとロッテに向き合った。
「ロッテ」
「今日は、きみに提案したいことがあってきたんだ」
「何となく、察しは付いているかい?」
「ええ」
ロッテはしっかりとした声で答える。
「わたしの……体のことですね?」
「ああ」
あのオオカミになったときの記憶は、ロッテにはほとんどなかった。
彼女が覚えているのは、アレンが撃たれたと知ってとてもショックを受けたこと。
怒りと驚きが混じったような感情が極限にまで煮詰まり、ロッテはあのような姿になったらしかった。
走り去ったロッテを、フーが何とか捕まえた。
フーの見守る中でロッテは人間に戻ったという。
まだ混乱の中にあったロッテは、フーの力を借りて何とかアパートまで帰ってきたのだという。
「きみがあんな原始的な獣に変貌するとは、まったくの想定外だったよ」
「正直、肝を冷やした」
フーは手を組んで話している。
「アレンが撃たれたショックで、きみの理性が大きく揺らいだことが原因かもしれないね」
「無意識ながら理性で抑えていたものが、制御不能になって飛び出した感じだった」
「それで、提案というのは?」
「ああ、それなんだけど……」
フーはおもむろに、鞄から薬液の入った小瓶を2つ取り出した。
「ひとつはきみを人間にする薬、もうひとつは獣にする薬だよ」
「え?」
フーの言葉は、何だか現実味のないものに聞こえた。
「きみの中のオオカミの遺伝子が、あそこまでの覚醒を見せたことを考えると……」
「もう今までのように様子見というわけにもいかないだろう」
フーは真剣だった。
「きみが不安定に獣に変貌することは、今後の人生においてよくない結果をもたらすことになると思う」
その言葉に、ロッテはアレンを見た。
「ハンスは、いつかこうなることを予測していたのかもしれない」
「ハンスが?」
「もしものときのためと、彼はこの薬をわたしに託した」
それが、目の前の薬液らしかった。
ひとつは赤色、もうひとつは青色の液体だった。
「これは彼が研究開発したもので、投与すれば一方の遺伝子的要因を押し込めることができるらしい」
「簡単に言えば、赤い薬を打てば獣に、青い薬なら人間になれるってことだ」
「投与した後は、もう一方には戻れない」
「どうする?」
選択権は、もちろんロッテに委ねられていた。
ロッテはしばらく考えていたが、やがて口を開いた。
「わたしも、そのほうがいいと思います」
「今のままじゃ、さすがにまずいです」
「では薬は投与するとして、問題は……」
「きみがどちらを選ぶかということだね」
「ええ……」
フーの言いたいことは、アレンにもよく分かった。
しかし彼は何も言わず、ベッドサイドに置かれた皿を見ていた。
そこには、ロッテがリンゴを剥いたナイフが乗っている。
剥いた皮は、リボンのように帯状につながっている。
「今までのように、人間のままでいるか」
「この機会に、オオカミになってしまうか」
「そういうことですよね、フーさん」
「まったく、その通りだよ」
フーはそう言うと、椅子から立ち上がった。
「決めるのは今すぐでなくてもいい」
「どうするか決心したら、また連絡をしてくれ」
それだけ言うと、踵を返して帰っていった。
病室は、柔らかな午後の光に満ちている。
ロッテは窓際に立ち、外を見ていた。
獣か人か。
俺は、どちらのロッテを望むのだろう。
アレンはふと考えていた。




