デア ファーター2/幸せだった日々
「きみの半分は、ハンスからの遺伝子で作られている」
「……うそ」
ロッテは口を手で覆った。
ハンスは、彼女をツォーから救った養父だった。
そのはずだった。
「待ってください……」
「ハンスは、わたしの本当の父親だってこと?」
「そうだよ」
「彼は最後まで明かさなかったけれど」
この話は、ロッテにとってさすがにショックだったようだった。
それがいいとか悪いとかそういう判断にもたどり着けず、彼女はただ衝撃を受けていた。
「ただ、きみは少し複雑だ」
「一般的なカップルの間に生まれた子のように、オスとメスが愛し合って生まれたってわけじゃない」
「ハンスは、ただ彼の遺伝子を提供したに過ぎないんだ」
「研究者がそれを人間の卵子に注入し、そうしてきみは生まれた」
「前に言ったね」
「私がきみに初めて会ったのは、きみが意思を持たない細胞だったときだと」
膝の上で握られたロッテの手は、小刻みに震えている。
顔を下に向けて、唇をぎゅっと結んでいる。
「精子を提供しただけで、ハンスに父親になるという感覚はなかった」
「そもそも、研究者というのはそういうものだ」
「彼はずっと割り切っていた」
「生まれたきみを見るまではね」
フーのその言葉を聞いて、ロッテははっと顔を上げた。
「自分の遺伝子を受け継いだものが赤ん坊という形になって現れたことは、彼にとって想定外の気持ちを生んだらしい」
「彼はきみの父親であるという気持ちが膨らむのを、抑えることができなかったようだ」
「それは、研究者としては辛いことでもある」
「彼にとってのきみは、血を分けた娘である以前に研究の材料なわけだからね」
フーは、当時を思い出しているのか遠い目をしていた。
「小さい頃のきみには、我々の研究の成果と思える要素が何もなかった」
「言うなれば、きみは失敗作だったと判断されたんだよ」
「それで……研究所はきみを保健所に回した」
「処分するという提案も出されたが、ハンスが全力で阻止した」
「それが、彼がきみにしてやれた最初の父親らしいことだったってわけだね」
アレンは息が詰まるような気がして、天井を仰いで長く息を吐いた。
その研究とは、一体何だったのだろう。
獣と人間の混血を作るため、ただそれだけの目標のためにどれだけの試作品が犠牲になったのだろうか。
考えるだけでも、気分の悪くなるような話だ。
「保健所から後のことは、きみ自身が知っているとおりだね」
「きみには、本当に苦労をかけた」
「申し訳ないことをしたと思っている……」
フーはそう言うと、ロッテに深々と頭を下げた。
それを見ても、ロッテは何を答えたものか分からないようだった。
「きみが保健所に行ってからも、ハンスはきみのことを追い続けていた」
「それを知っていたのは、わたしだけだったが」
それを聞いて、ロッテは何かを察したらしい。
「じゃあ……ハンスがわたしをツォーから引き取ってくれたのは……」
「……そう、あれは偶然でも何でもなかった」
「今でもよく覚えているよ」
「きみがあそこに入れられたと知ったときの、彼の狼狽ぶりは」
ウサギは、わずかに目を伏せた。
「6年間もあんな場所で過ごさせたことを、心の底から悔いていたよ」
フーの言葉を聞いて、ロッテが膝の上で握りしめていた拳に、涙の粒が落ちる。
アレンがその顔を覗くと、ロッテは見開いた目から涙を流すままにさせていた。
やがて、その顔に変化が表れる。
体を覆っていた毛は、彼女の内側に吸い込まれるように消えていく。
耳も頭に沈んでいき、牙の並んだ口もなくなる。
握りしめた手は、アレンのよく知る小さな拳に戻っていく。
「楽しかったかい?」
フーが不意に尋ねた。
「え?」
すっかり人間の姿に戻ったロッテが、ゆっくりと顔を上げる。
「ハンスと一緒に暮らした時間は」
その言葉に、ロッテは体を震わせた。
「し」
「幸せだった……」
切ない笑顔を浮かべてそう呟くと、嗚咽を漏らした。
「ロッテ」
「ハンスも、ずっとそうだったんだよ」
「彼は自分が父親であることを明かさなくとも、きみと共に過ごせて幸せだった」
ロッテは、最後まで顔を上げていることができなかった。
*****
翌日の午後、アレンとロッテは部屋で静かに過ごしていた。
彼らの中には、昨日の夜にフーから聞いた話の余韻が気だるく残っている。
とんだデートになったものだと、アレンは思っていた。
しかし、決して無駄な時間ではなかった。
病気によって死期を悟ったハンスは、自分の亡き後もロッテを見守ってくれるようにフーに頼んだ。
フーは同僚との約束を守り、今に至るまで影ながら彼女を見守っていたらしい。
ロッテが誘拐されたとき、現場の後処理をしたのは実はフーだった。
アレンとロッテに迫る最後のブタをいなすと、彼女はそのまま姿を消した。
フーがロッテに接触したのは、ベーレンフンガーでの一件を目撃したからであった。
彼女は、それが獣の遺伝子が覚醒しつつある兆候だと睨んだのであった。
『これから、わたしはどうすればいいでしょうか』
自らの生い立ちについて知ったロッテは、あの晩、フーに尋ねた。
『さしあたって、さほど面倒なことにはなっていない』
フーは半身を屈め、膝に肘をついた。
『オオカミに変身するくらい、どうってことないだろう?』
フーはロッテではなく、アレンを見て言った。
それはどういう意味だろうかと思ったが、アレンは口には出さなかった。
『ただ、体が獣の目覚めに慣れるまでは、過剰に興奮させることは慎んだほうがいいだろうね』
そうとも言った。
何だ、全部俺のせいか?
アレンは、口をへの字に結んだ。
『きみが望むなら、定期的に会う機会を設けることもできる』
『気になることがあれば、相談すればいい』
フーのその申し出を、ロッテはありがたく受け入れたようだった。
いざとなればフーに相談できるという安心感もあってか、ロッテは落ち着いていた。
フーの言うとおり、ロッテには強い芯がある。
それが、彼女をしっかりと立たせているのだろう。
ロッテはアレンの傍でごそごそと動き、彼の顔を見上げた。
「ねえ」
「ん?」
「オオカミのわたし、どう思った?」
「どうって……」
アレンは目をぐるっと動かして、昨晩のことを思い出した。
ジャグジーが泡を吐くバスタブで、自分の腕の中にいたメスのオオカミ。
彼女の髪と同じ、美しい毛色をしたオオカミのロッテ。
「よかった?」
「うん……きれいだったよ」
「人間のわたしと、どっちがよかった?」
「困るなあ、そういうの」
アレンが答えあぐねているのを見て、ロッテは声を出さずに笑った。




