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アイン クライネス リヒト/ロッテのある1日

ein kleines Licht


ある小さなあかり

エリカの咲く草原に寝転んで、気ままに空に浮かぶ雲を眺めるのが好きだった。

同じくらい好きだったのは、甘酸っぱいベリーの茂み。

まずは食べたいだけその実を口に放り込んで、ハンスのお土産にもしようとエプロンを広げて摘んで帰るのが常だった。


村娘のような恰好をして、わたしが生まれて初めて気ままに振舞うことを知ったあの場所。

誰もわたしを痛めつけず、誰もわたしに強制せず、誰もわたしを踏みにじったりしない。

圧倒的な力で押し付けられることもなく、暗がりで悲鳴に耳を塞ぐこともない。

ただそこにはハンスがいて、わたしがいて、わたしたちの静かな生活があった。


わたしはまた帰りたい。

青い匂いのする草に手を触れながら、あのうちに帰りたい。


*****


見たことのない天井。

いや、知らないなんてことはないはずだった。


ここはあるアパートの一室。

ここに住んで、もう2か月半にもなるではないか。


窓辺に腰を下ろして、外の景色を眺める。

まだ早朝だというのに、往来には獣の姿がまばらにある。


遠くから、車の走る音が聞こえてくる。

ここは、わたしが過ごした森よりもずっと音が多い。


不思議なもので、あの森を離れてもなお、わたしはまたオオカミと暮らしている。

彼はどこかハンスと似た匂いのする獣で、大きな体に穏やかな心を持っている。

彼も、わたしに何かを強いることはない。


わたしは今でも、ずっとあの場所に帰りたいと思っている。

夢の中でのわたしは、草に手を触れながらうちへの道を歩いている。


目が覚めてから、もっと急げばよかったのにといつも悔しく思う。

うちにたどり着くより先に、目が覚めてしまうからだった。


*****


10歳で、わたしは保健所から【ツォー】に引き抜かれた。

そこで異常な生活を長く続けたせいだろうか。


わたしは、自分の感情をうまくコントロールできないことが多かった。

怒りや悲しみといった負の感情を抑え込むのには、とても苦労をした。


悲しかったり腹が立ったりすると、わたしはたいてい部屋をめちゃくちゃにした。

ハンスは何も言わず、そのたびにただ嵐の過ぎ去った跡を片付けた。


彼の所で暮らし始めたころはそんな調子だったが、さすがにこのままではまずいと思ったのだろう。

あるとき、彼はわたしに一抱えの荷物を与えた。


「ロッテ」

「おまえは、感情のコントロールを学ばないと」

「ここはもう、あの恐ろしい場所ではないんだ」


「もう誰もおまえをひどい目に遭わせたりはしない」

「おまえはおまえで、この世界に順応していかなくてはならん」


「でなければ」

「壊しつくしてどうしようもなくなった場所で、ただ泣くしかなくなるぞ」


ハンスは、わたしに絵を描く道具をプレゼントしてくれたのだった。

わたしはある程度の読み書きはできたが、それでは自分の心を表現するには足りなかった。


言葉にできない感情を、色や形で残してみる。

それが、わたしが絵を描くことを覚えた最初のときだった。


それ以来、わたしは気持ちが抑えられないようになると紙やキャンバスに向かうようになった。

最初はうまくいかず、そんな自分にも苛立った。

その苛立ちすら、白い紙にぶつけてみる。

そうすることで、次第に感情をコントロールする術を学んでいった。

ハンスは、もう部屋を片付けずに済むようになったのだ。


*****


ハンスがわたしの元からいなくなってしまったとき、かつての悪い癖が発作のようにぶり返してしまった。

1人きりの森の小屋で、言いようのない不安が嵐となって吹き荒れる。


彼はどこに行ってしまったの?

どうして一緒に連れて行ってくれなかったの?


わたしはどうしたらいい?

どうしたら、どうしたら。


自分のことすら傷つけてしまいそうになったとき、すんでのところでベアンハルトに止められた。

彼はハンスの友達だと名乗り、ハンスにわたしのことを頼まれたのだとも言った。


それも最初は信じられなくて、スケッチブックに黒いクレヨンで円を描き殴った。

力を込めすぎてクレヨンが折れたが、それでも描くことを止めなかった。

この気持ちは、こんなものじゃ表せない。

そうは分かっていたけど、何か描かずにはいられなかった。

ベアンハルトは、そんなわたしを止めたりはしなかった。


夜が更けてようやくわたしが落ち着いたころを見計らって、彼はわたしを街に連れていくと言い出した。

ハンスがいなくなったときは、そうするように頼まれていたということだった。

わたしの両手は黒ずんだ汚れでいっぱいで、髪は乱れ、部屋もひどい状態だった。


わたしたちはそれを片付けもせず、少しの荷物だけまとめて小屋を出た。

森の先に停めてあったベアンハルトの車に乗って、わたしはこの街へやってきた。

わたしの手は、相変わらず黒ずんだままだった。


あなたと離れて、もう2年にもなる。

あなたは今、どうしているの?

どうして、わたしを迎えにきてくれないの?


エリカとベリーのある、あの森に帰りたい。

次に目を覚ましたときには、あの懐かしい小屋の天井を見たいと思っている。

そしてドアを開けて、ひどく怖い夢を見ていたんだとあなたに抱きしめてもらいたい。

あなたの匂いを胸いっぱいに吸い込んで、また昨日と同じ穏やかな1日が始まるのだと信じたい。


*****


ロッテはたまらない気持ちでいっぱいになって、白いキャンバスに向かっていた。

落ち着かなくちゃと何度も自分に言い聞かせ、深呼吸を繰り返す。


訓練のおかげで、感情が爆発することはほとんどなくなった。

それでも度々、ふとしたタイミングで予期せぬ感情に揺さぶられることがある。


病気の発作のようなもので、自分を落ち着かせ、すぐに治ると信じるしかない。

ハンスに言われたとおり、心を色で表すより他はない。


ロッテは、白いキャンバスに絵の具で線を引いた。

太い刷毛のような筆を使って、縦にかすれた一直線。

色は、赤と黒をあいまいに混ぜた色だった。


同じ色と筆を使い、彼女は何度も線を引く。

白いキャンバスは、だんだんとどす黒い赤で満たされていく。

パレットの絵の具を使い切ったとき、キャンバスにはもう白い部分は残っていなかった。


崩れるように、ロッテは床に座り込む。

深い呼吸を繰り返し、大丈夫だと何度も呟いた。


そう、きっと大丈夫。

不安になることはない。

ハンスは、きっとわたしを迎えに来てくれる。


ロッテは、ルームメイトのアレンよりいくらか年を取ったオオカミが、自分に向かって両手を広げている様を思い描いた。

部屋には、油絵具特有の油臭さが充満しつつある。

アレンが嫌がるだろうか……。

そう思って、ロッテは部屋の窓を開け放した。


秋口の早朝。

冷たい風が、部屋から臭いを運び去ってくれた。


*****


テーブルで朝食を食べていると、ロッテの隣室からアレンがのっそりと現れた。

今日は非番なのか、ゆっくりと寝ていたらしい。


「ああ、おはよう」

「早いね」

まだ寝ぼけ顔でそう言いながら、彼はバスルームに消えていく。

しばらくして、シャワーの水の音がキッチンまで聞こえてきた。


ややあってバスルームから戻った彼は、頭にバスタオルを被せたままで朝食のグラノーラを鉢に移している。

まだどこかぼんやりとした様子もあったが、ロッテはこんなアレンのことも気に入っていた。


彼には、心地いいゆっくりとしたリズムがある。

それはどこか、ハンスにも似ていた。


「っくし!」

グラノーラをぼりぼりとやりながら、アレンは不意にくしゃみをする。


「お大事に」

「うん、ありがとう」

くしゃみの後のお決まりのやり取りを終え、アレンはバスタオルで頭をごしごしと拭いた。

普段は几帳面に見える彼だが、今日はずいぶんと適当だ。


既に食事を終えたロッテは立ち上がり、バスタオルを受け取って濡れた毛を拭いてやる。

彼のグレーのバスタオルは、洗い立てで洗剤の匂いがした。


「ん、まだ濡れてる?」

「うん、風邪引くよ」


まだ秋の始めではあるが、冬が着実に近付いてきているのが分かる。

今日も肌寒い。


ロッテは手を動かしながら、毛に覆われた獣の頭を見る。

肉食獣との関りは多すぎるほどにあったが、こんな風に彼らの後頭部を見たことはあっただろうか。


彼らはいつもわたしの背後にいて、本能のおもむくままに相手をさせた。

顔も知らない何者かに、夜通し痛めつけらることも珍しくはなかった……。


「ありがとう、もういいよ」

アレンの声に、ロッテははっとした。


こんな風に昔のことを思い出すなんて、もうずいぶんなかったことだった。

今朝、あんな夢を見たせいだろうか。


ハンスのことを思い出したのもそうだった。

どの記憶や思い出も、簡単に心の中から消えてしまうことはない。


そう思うロッテは、思い出してもどうにもならないことは思い出さないようにしていた。

忌まわしい記憶は、きっと死ぬまで消えることはないだろう。

そんなものを、わざわざ目の前に引っ張り出す必要はないと考えていた。


ハンスとの楽しい思い出にしてもそうだった。

森での素晴らしい日々は、今はどんなに焦がれても手に入れることはできない。

いたずらに思い出して、苦しい気持ちを抱えることはしたくない。

心配せずとも、この温かな記憶もまた消えてなくなるものではないのだから。


*****


部屋に戻ったロッテは、日記代わりにしているスケッチブックを開いた。

書き物机に向かって、ペン立てから色鉛筆を取り出す。

今のこの気持ちを、色に残しておきたかった。


しばらく色鉛筆を走らせてできたそれは、今朝キャンバスに浮き上がらせた気持ちとはだいぶ違っていた。

全体的に明るい色で、見る者に柔らかな印象を与えるようなものだった。

その色彩の中に、ぽっかりと浮かんでいる色がある。

それは灰色と黒と茶色を混ぜた、小さな雲のような形をしている。


アレンのバスタオルと毛色を混ぜたような色を、ロッテは指先でそっとなぞってみた。

こんなものを、わたしはどうして描いたのだろう。


今のロッテの心には、いつからか小さな灯りのようなものがちらついている。

それを何と呼ぶのか、それはまだ誰にも分からない。

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