アイネ ヘージン/ベンチのウサギ
eine Häsin
メスのウサギ
その日のランチの付け合わせは、よりによってエビとマカロニのサラダだった。
アレンはサラダの小鉢を手に取り、しばしそれを眺める。
「あっ、今日はマカロニシュリンプなんだ」
「ぼく、好きだな」
向かいに座ったフローリアンが言う。
幸い、うるさいチャドはまだいない。
アレンは思い切って聞いてみることにした。
「あのさ」
「何?」
「エビ食べて、ムラムラすることってある?」
「は?」
フローリアンでさえこの反応だ。
チャドがいるところで話をしなくて本当によかった。
自分の判断が正しかったことを確認し、アレンはカレーライスを頬張った。
*****
その日は、久々に晴れだった。
休みだったロッテは、気ままに散歩にでも出かけようと思い立った。
ベーレンフンガーでのこと、そしてその日の夕方に起こったこと。
あれからもう2週間が経つが、他におかしなことは起きていない。
あれは自分の思い過ごしだったのだろうか。
ロッテはそのように思うようになっていた。
いつもより少し足を延ばして、池のある大きな公園に出掛けた。
天気がいいだけあって、家族連れも多い。
池を囲むように置かれたベンチのひとつに、ロッテは腰を下ろした。
鞄には、コーヒーを入れたタンブラーと文庫本が入っている。
布製のカバーがかけられた本を取り出し、ロッテは読書を始める。
この季節にしては珍しく、暖かな風が頬を撫でる。
風はロッテの髪を撫ですかし、思い悩んでいたことを運び去ってくれるようだった。
どれくらいページを繰ったときだろうか。
ベンチのもう一方の端に誰かが座っているのに、ロッテは気が付いた。
それほどまでに読書に集中していたのだろうか。
全然気が付かなかった。
ロッテはその獣をちらりと見た。
ベンチの端に座っているのは、ウサギらしい。
感じからして、どうやらメスのようだ。
彼女はこげ茶色と黒と白の混じった、複雑な毛色をしていた。
片方の耳の先が折れている。
珍しいこともあると、ロッテは思った。
ベンチはまだたくさん空いているのに、わざわざ人間の隣に座る獣がいるなんて。
しかしそれほど気に留めることもなく、ロッテは再び本を読み始める。
コーヒーを飲もうかと、鞄に手を突っ込んだときだった。
手がタンブラーに触れたのと同じくらいに、その声は聞こえた。
「ハンスのことは、残念だった」
その声は、はっきりとそう言った。
もし別の言葉なら、ロッテは聞き流していたかもしれない。
しかしその懐かしい名は、容易には無視することができなかった。
「え?」
ロッテは、隣を見る。
言葉を発したのは、そこに座るウサギだったはずだ。
しかし彼女は相変わらず正面を向いたままで、ロッテを見ることはない。
「あの……今何か……」
もしかしたら、聞き間違えだったかもしれない。
そう思いつつも、ロッテはウサギに話しかけた。
彼女は何も言わない。
やはり、間違いだったのか。
ハンスなんてよくある名前だし、そもそもハンスと言ったわけではなかったかもしれない。
ロッテは話しかけたことを少し恥ずかしく思った。
しかし、次の言葉はもっと無視できないものだった。
「ずっと会いたかったよ、ロッテ」
もう間違いではない。
このウサギは自分に話しかけている。
ロッテはそう確信した。
「あの……どこかで会いましたか?」
そのウサギに、ロッテは見覚えがなかった。
「きみに覚えがないのは当然だ」
「私がきみに初めて会ったのは、きみがまだ意思を持たない細胞だったときなのだから……」
そう言って、ウサギは初めてロッテを見た。
深い海のような、きれいな青い目だった。
「あなたは誰ですか?」
「今、私から言うことではない」
ウサギは再びそっぽを向いてしまう。
細胞がどうとかというさっきの話といい、まったく訳が分からなかった。
関わり合いにならないほうがいいのかもしれない。
「最近、自分がおかしいと思うことはないか?」
その言葉に、ロッテはドキッとした。
思い当たることは、もちろんある。
「どうやら、ないことはないようだ」
見透かしたように、青い目のウサギは言う。
「もしその謎について知りたいのであれば……」
「きみが自分でそう思ったなら」
「私はきっと助けになれるよ」
そう言うと、ウサギは名刺を差し出した。
彼女は、【フー】という変わった名前だった。
「あの……」
ロッテが名刺から顔を上げたとき、ベンチの端はもう空だった。
急いで周りを見回したが、折れ耳のウサギはもうどこにもいなかった。
*****
夕方にアレンが帰ってきたとき、ロッテは昼間のことを話すのは止めておこうと思った。
明日、アレンはとうとう現場での仕事に出ることになったのだった。
興奮半分に不安半分といった彼に、余計なことを言って水を差すことはしたくなかった。
ロッテは書き物机にしまった名刺のように、今日のこともひとまずは自分の中にしまっておくことにした。
その晩、彼女は夢を見た。
嫌な夢だった。
体の不快なざわつきは、やがては痛みに変わる。
蛹から蝶が生まれるときのように、背中にぱっくりと亀裂が入る。
人間の皮を脱いで現れ出でたのは……。
目を開けると、朝が来ていた。
アレンは早くに家を出たのか、もう隣にはいなかった。
割れた背中の感触が、まだ自分の体に残っているような気がする。
シャワーを浴びたロッテは、鏡で自分の姿を映してみた。
傷だらけの体。
今はもうあまり嫌悪感のない体だったが、わたしは何か新しいものに変わりたいのだろうか。
傷だらけの皮を脱ぎ捨て、新しい何かに……。
その何かを夢で見た気がしたが、ロッテはもう思い出せなかった。




