イム イアー/静かな足音
im ihr
彼女の中で
その日自分の身に起こったことを、ロッテはまだ信じられずにいた。
アレンに話したら、彼は驚くだろうか……。
そんなことを考えながら、アパートへの道を急ぐ。
今日は、何だか変だ。
*****
「ただいま」
部屋に入ると、アレンがキッチンに立っていた。
顔だけで振り返って、彼はおかえりと言った。
ロッテは部屋で着替えを済まし、キッチンのアレンを見に行く。
彼は、茹でたエビの殻を剥いていた。
「何だか急に食べたくなって、帰りにスーパーで買ったんだ」
ボウルには、既に剥いたエビがいくつか入っている。
今夜は、これでサラダを作るらしい。
「味見する?」
「ほら、口開けて」
そう言われ、ロッテは雛鳥のように口を大きく開けた。
そこに、アレンがエビを放り込んでくれる。
口を閉じたとき、彼の指と唇が一瞬触れ合う。
「指まで食べられちゃかなわないな」
アレンは笑うと、再びエビを剥き始めた。
ロッテは口を数回動かして、エビを飲み下した。
パリパリと音をさせて、アレンはその大きな手で器用にエビを剥いている。
その手つきを見ていると、ロッテは急に胸が苦しくなる。
作業をしていた彼の手をつかんで、自分に引き寄せる。
「ロッテ、残りは夕食のときに食べようよ」
おかわりをねだられたと思い、アレンはやんわりとたしなめた。
ロッテは確かに欲していた。
しかしそれは、エビではなかった。
引き寄せた手を口まで持って行き、唇に触れた指を舐める。
その様子に、アレンは一瞬あっけを取られたようになる。
何をしてるの?
一体、何を。
ロッテの心で声がする。
しかし、その声には答えられない。
咥えた指を、舌の上で転がしてみる。
彼の指は、当然ながらエビの味がした。
ロッテは、自分を制御できない。
「そんなことされたら困るな」
アレンは彼女の口から指を引き抜いた。
拒絶ではなかった。
アレンは、今しがた自分の指を咥えていた唇にキスをする。
ロッテもそれに応える。
キスをしながら、アレンは素早く流しで手を洗った。
濡れた手のまま、ロッテを抱き上げる。
アレンが腰を下ろしたのは、ソファの上だった。
その上にロッテが馬乗りになる。
何年振りかに再会したかのように、我を忘れてキスに没頭する。
そのうちに、ソファがきしみ出した。
*****
部屋の中はずいぶん暗い。
先ほどアレンが作業していた、キッチンの明かりが付いているだけである。
窓からのひんやりとした冷気が、火照った体にはちょうどいい。
アレンは、ふーっと長い息を吐いた。
エビにあんな効果があったとは知らなかった。
アレンは、今はくたっとして彼の胸の上に張りついている恋人を見た。
ロッテは、どうしてしまったのだろう。
もちろん、彼女に迫られるのは全然嫌じゃない。
むしろ、大歓迎だった。
依然彼に跨っている彼女の足首には、くしゃくしゃになったパンティーが絡みついている。
何てエロい眺めだと、アレンは心密かに思った。
「今日は何かあった?」
アレンはロッテの髪を撫で、両手で彼女の腰をつかんだ。
そのまま手を下ろして、お尻の辺りを撫でる。
触れた手を感じて、ロッテはようやく閉じていた目を開けた。
潤んだ目で、ぼんやりとアレンを見つめる。
心ここにあらず、といった瞳だった。
その瞳に、だんだんといつもの光が戻ってくる。
ロッテは少し体を起こして、アレンを見た。
ソファにいる彼とその上に跨っている自分を、ようやく発見したような様子だった。
彼女の顔が、みるみる赤くなる。
「イヤッ!!」
顔を背けたかと思うと、ロッテは思い切りアレンを突き飛ばした。
いきなりそんなことをされ、アレンは首をしこたま反らせることになった。
グギッという、嫌な音がした。
「嫌って……」
アレンは首をさすりながら、ソファに座り直した。
ロッテはさっさと立ち上がって、また自分のあられもない姿に驚きを隠せないようだった。
転びそうになりながら、急いでパンティーを履いている。
「誘ってきたのはそっちじゃないか」
ふくれっ面をしてアレンが言っても、ロッテには届いていない。
「早くシャツのボタンを締めて! ズボンも!!」
なぜか彼が怒られてしまった。
*****
食欲がないというロッテを、それでもアレンはテーブルに着かせた。
ロッテはまともに彼を見られない様子で、ずっと下を向いている。
もちろん、彼の作ったエビのサラダにはまったく手を付けていない。
「今日はどうかしたの?」
「急に……あんな風になって」
アレンはもはやエビはどうでもよかったが、せっかくなので食べてみる。
「ごめん……本当に」
ロッテは穴があったら入りたい心境のようである。
「いや、謝ることじゃないって」
「嫌じゃなかったし」
「むしろよかったし」
それは本当の気持ちであり、同時に彼女へのフォローでもあった。
しかし、やはり彼女には届いていないようだった。
「何か今日、ちょっと変なの」
しばらくして、ロッテはようやく話し出した。
急にムラムラすることは誰にでもある。
アレンはそう言おうとしたが、またロッテが黙り込むといけないので止めた。
「その、変っていうのはさっきのことだけじゃなくて……」
そう言って、彼女は続けた。
*****
それは、昼休憩を終えた後のことだった。
ベーレンフンガーの芝生で読書する客に、ロッテはコーヒーを出そうとトレーを手にしていた。
熱いコーヒーが2つ。
ソーサーには、キャラメル風味のビスケットも乗っている。
彼女の背後には、本の詰まった大きな本棚がある。
その本棚の後ろにも、また本棚が続いている。
その後ろにも、また。
彼女から一番離れた本棚の近くで、2匹の獣たちが遊んでいた。
店内にいた客の子どもたちで、兄弟であった。
最初はふざけ合っていたのが、やがて取っ組み合いになる。
それを見た母親が止めるように声をかけたが、とてもそれでは収まらない。
やがてそのうちの1匹が、どすんと本棚にぶつかった。
兄に突き飛ばされて、強い力でぶつかった。
その衝撃で、最初の本棚がゆっくりと傾き出す。
傾いた本棚は並べられた本を床に吐き出しながら、次の本棚にぶつかる。
ぶつかられた本棚は、そのまた次の棚にぶつかる。
ドミノの要領で、本棚は次々に倒れ始める。
それはあっという間のことで、最初の棚にぶつかった子どもも呆然とそれを見守っていた。
彼が最初にぶつかったときに生じた力は、やがて最後の棚に伝わる。
ロッテの背後の棚に。
本棚が傾いてきたのを、ロッテは目の端でとらえた。
このままでは下敷きになる。
彼女は咄嗟にそう理解した。
しかし、彼女の片手には熱々のコーヒーがある。
このまま身を引けば、それは芝生の客に降りかかるだろう。
客か、自分か。
ロッテは恐ろしいほどの短い時間で、選択を迫られた。
客を火傷させるわけにはいかない。
では、わたしはこのまま本に押し潰されてしまうのだろうか。
結果は、どちらでもなかった。
「ロッテ!」
ベアンハルトが叫んだとき、ロッテは立っていた。
片手にコーヒーのトレイを乗せ、もう片方の手で本棚を押さえていた。
彼女の手には、本の詰まった5つ分の本棚が預けられていることになる。
すぐさまベアンハルトが駆け寄り、彼女を救った。
コーヒーは、トレイの中で洪水をこしらえていた。
「大丈夫かい?」
「怪我はないかい!?」
ベアンハルトはとても心配したが、彼女はまったくの無傷だった。
咄嗟にあれだけの重さを受けたにも関わらず、腕にダメージはないようであった。
騒ぎの張本人である子どもたちと、その母親が何度も頭を下げた。
*****
「へー、すごいな」
「それって、火事場の馬鹿力ってやつじゃないか?」
ベアンハルトと同じことを、アレンも口にした。
でも、ロッテはどこか納得できない気分でいた。
昼間の一件と、さっきの一件。
彼女は、何かが起こり始めているような気がしてならなかった。
自分のまったく意図しないことが、自分の中で起こり始めている。
怖いとか不快とか、そういうものとは違う。
しかし、楽観的に無視はできないそういうもの。
何かが、足音を忍ばせて自分に近付いてきている気がする。
時おり気付くその足音は、なぜか自分の内から聞こえてくるような気がする。
近付いてくるものが何か、ロッテには説明できない。
とりあえず、今は忘れよう。
ロッテはそう思い、夕食を食べ始めた。
アレンのサラダは美味しかったが、さすがにエビは残した。




