表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
38/46

イム イアー/静かな足音

im ihr


彼女の中で

その日自分の身に起こったことを、ロッテはまだ信じられずにいた。


アレンに話したら、彼は驚くだろうか……。

そんなことを考えながら、アパートへの道を急ぐ。

今日は、何だか変だ。


*****


「ただいま」

部屋に入ると、アレンがキッチンに立っていた。

顔だけで振り返って、彼はおかえりと言った。


ロッテは部屋で着替えを済まし、キッチンのアレンを見に行く。

彼は、茹でたエビの殻を剥いていた。


「何だか急に食べたくなって、帰りにスーパーで買ったんだ」

ボウルには、既に剥いたエビがいくつか入っている。

今夜は、これでサラダを作るらしい。


「味見する?」

「ほら、口開けて」


そう言われ、ロッテは雛鳥のように口を大きく開けた。

そこに、アレンがエビを放り込んでくれる。

口を閉じたとき、彼の指と唇が一瞬触れ合う。


「指まで食べられちゃかなわないな」

アレンは笑うと、再びエビを剥き始めた。


ロッテは口を数回動かして、エビを飲み下した。

パリパリと音をさせて、アレンはその大きな手で器用にエビを剥いている。

その手つきを見ていると、ロッテは急に胸が苦しくなる。

作業をしていた彼の手をつかんで、自分に引き寄せる。


「ロッテ、残りは夕食のときに食べようよ」

おかわりをねだられたと思い、アレンはやんわりとたしなめた。


ロッテは確かに欲していた。

しかしそれは、エビではなかった。


引き寄せた手を口まで持って行き、唇に触れた指を舐める。

その様子に、アレンは一瞬あっけを取られたようになる。


何をしてるの?

一体、何を。


ロッテの心で声がする。

しかし、その声には答えられない。


咥えた指を、舌の上で転がしてみる。

彼の指は、当然ながらエビの味がした。

ロッテは、自分を制御できない。


「そんなことされたら困るな」

アレンは彼女の口から指を引き抜いた。


拒絶ではなかった。

アレンは、今しがた自分の指を咥えていた唇にキスをする。

ロッテもそれに応える。


キスをしながら、アレンは素早く流しで手を洗った。

濡れた手のまま、ロッテを抱き上げる。


アレンが腰を下ろしたのは、ソファの上だった。

その上にロッテが馬乗りになる。


何年振りかに再会したかのように、我を忘れてキスに没頭する。

そのうちに、ソファがきしみ出した。


*****


部屋の中はずいぶん暗い。

先ほどアレンが作業していた、キッチンの明かりが付いているだけである。


窓からのひんやりとした冷気が、火照った体にはちょうどいい。

アレンは、ふーっと長い息を吐いた。


エビにあんな効果があったとは知らなかった。

アレンは、今はくたっとして彼の胸の上に張りついている恋人を見た。

ロッテは、どうしてしまったのだろう。


もちろん、彼女に迫られるのは全然嫌じゃない。

むしろ、大歓迎だった。


依然彼に跨っている彼女の足首には、くしゃくしゃになったパンティーが絡みついている。

何てエロい眺めだと、アレンは心密かに思った。


「今日は何かあった?」

アレンはロッテの髪を撫で、両手で彼女の腰をつかんだ。

そのまま手を下ろして、お尻の辺りを撫でる。


触れた手を感じて、ロッテはようやく閉じていた目を開けた。

潤んだ目で、ぼんやりとアレンを見つめる。

心ここにあらず、といった瞳だった。


その瞳に、だんだんといつもの光が戻ってくる。

ロッテは少し体を起こして、アレンを見た。


ソファにいる彼とその上に跨っている自分を、ようやく発見したような様子だった。

彼女の顔が、みるみる赤くなる。


「イヤッ!!」

顔を背けたかと思うと、ロッテは思い切りアレンを突き飛ばした。

いきなりそんなことをされ、アレンは首をしこたま反らせることになった。

グギッという、嫌な音がした。


「嫌って……」

アレンは首をさすりながら、ソファに座り直した。

ロッテはさっさと立ち上がって、また自分のあられもない姿に驚きを隠せないようだった。

転びそうになりながら、急いでパンティーを履いている。


「誘ってきたのはそっちじゃないか」

ふくれっ面をしてアレンが言っても、ロッテには届いていない。


「早くシャツのボタンを締めて! ズボンも!!」

なぜか彼が怒られてしまった。


*****


食欲がないというロッテを、それでもアレンはテーブルに着かせた。

ロッテはまともに彼を見られない様子で、ずっと下を向いている。

もちろん、彼の作ったエビのサラダにはまったく手を付けていない。


「今日はどうかしたの?」

「急に……あんな風になって」

アレンはもはやエビはどうでもよかったが、せっかくなので食べてみる。


「ごめん……本当に」

ロッテは穴があったら入りたい心境のようである。


「いや、謝ることじゃないって」

「嫌じゃなかったし」

「むしろよかったし」


それは本当の気持ちであり、同時に彼女へのフォローでもあった。

しかし、やはり彼女には届いていないようだった。


「何か今日、ちょっと変なの」

しばらくして、ロッテはようやく話し出した。


急にムラムラすることは誰にでもある。

アレンはそう言おうとしたが、またロッテが黙り込むといけないので止めた。


「その、変っていうのはさっきのことだけじゃなくて……」

そう言って、彼女は続けた。


*****


それは、昼休憩を終えた後のことだった。


ベーレンフンガーの芝生で読書する客に、ロッテはコーヒーを出そうとトレーを手にしていた。

熱いコーヒーが2つ。

ソーサーには、キャラメル風味のビスケットも乗っている。


彼女の背後には、本の詰まった大きな本棚がある。

その本棚の後ろにも、また本棚が続いている。

その後ろにも、また。


彼女から一番離れた本棚の近くで、2匹の獣たちが遊んでいた。

店内にいた客の子どもたちで、兄弟であった。


最初はふざけ合っていたのが、やがて取っ組み合いになる。

それを見た母親が止めるように声をかけたが、とてもそれでは収まらない。


やがてそのうちの1匹が、どすんと本棚にぶつかった。

兄に突き飛ばされて、強い力でぶつかった。

その衝撃で、最初の本棚がゆっくりと傾き出す。


傾いた本棚は並べられた本を床に吐き出しながら、次の本棚にぶつかる。

ぶつかられた本棚は、そのまた次の棚にぶつかる。

ドミノの要領で、本棚は次々に倒れ始める。


それはあっという間のことで、最初の棚にぶつかった子どもも呆然とそれを見守っていた。

彼が最初にぶつかったときに生じた力は、やがて最後の棚に伝わる。

ロッテの背後の棚に。


本棚が傾いてきたのを、ロッテは目の端でとらえた。

このままでは下敷きになる。

彼女は咄嗟にそう理解した。


しかし、彼女の片手には熱々のコーヒーがある。

このまま身を引けば、それは芝生の客に降りかかるだろう。


客か、自分か。

ロッテは恐ろしいほどの短い時間で、選択を迫られた。

客を火傷させるわけにはいかない。

では、わたしはこのまま本に押し潰されてしまうのだろうか。


結果は、どちらでもなかった。


「ロッテ!」

ベアンハルトが叫んだとき、ロッテは立っていた。

片手にコーヒーのトレイを乗せ、もう片方の手で本棚を押さえていた。

彼女の手には、本の詰まった5つ分の本棚が預けられていることになる。


すぐさまベアンハルトが駆け寄り、彼女を救った。

コーヒーは、トレイの中で洪水をこしらえていた。


「大丈夫かい?」

「怪我はないかい!?」


ベアンハルトはとても心配したが、彼女はまったくの無傷だった。

咄嗟にあれだけの重さを受けたにも関わらず、腕にダメージはないようであった。

騒ぎの張本人である子どもたちと、その母親が何度も頭を下げた。


*****


「へー、すごいな」

「それって、火事場の馬鹿力ってやつじゃないか?」


ベアンハルトと同じことを、アレンも口にした。

でも、ロッテはどこか納得できない気分でいた。


昼間の一件と、さっきの一件。

彼女は、何かが起こり始めているような気がしてならなかった。

自分のまったく意図しないことが、自分の中で起こり始めている。


怖いとか不快とか、そういうものとは違う。

しかし、楽観的に無視はできないそういうもの。


何かが、足音を忍ばせて自分に近付いてきている気がする。

時おり気付くその足音は、なぜか自分の内から聞こえてくるような気がする。

近付いてくるものが何か、ロッテには説明できない。


とりあえず、今は忘れよう。

ロッテはそう思い、夕食を食べ始めた。

アレンのサラダは美味しかったが、さすがにエビは残した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ