ドゥルヒレーベン1/雨の降る日
わたしは、物欲が強いほうではない。
保健所とツォーという、特殊な環境で育ったせいもある。
それを経たハンスとの森での暮らしでも、彼との穏やかな生活以外に特にほしいものは見つからなかった。
よく行く市場の一角に、カピバラのおばあさんが切り盛りする雑貨店がある。
そこのショウウィンドウに、そのエプロンは飾られていたのだった。
黒地で、オオカミのイラストがプリントしてある。
それがアレンに似ている気がして、わたしはそのエプロンが気に入っていた。
エプロンは決して高いものではなかったけど、わたしはすぐにそれを買うことはしなかった。
その前を通るたびに、ガラス越しに眺めるのが習慣になった。
あの日、そのエプロンが消えていることにわたしは気付いた。
衝動に任せて買ってしまえばよかったと、わたしは少し後悔をした。
あれを締めてキッチンに立つのは、きっと楽しかっただろう……。
エプロンのなくなったショウウィンドウを眺めていると、店からおばあさんが顔を出した。
「あなた、いつも見ているわね」
「何か、気になるものがあるかしら?」
おばあさんは、穏やかな顔をしてそう尋ねた。
「エプロン……ここに飾ってあったものですけど、売れてしまったんですね」
わたしが少し寂しそうに言うと、おばあさんはつぶらな目を大きくした。
「あら、まだもらってないの?」
「え?」
何のことだろう。
わたしには、おばあさんの言う意味が分からなかった。
*****
ツォーの一件から、俺たちは互いに相手の肌に直接触れるようになっていた。
ぼんやりとした明りの中に浮かぶ彼女の体は傷だらけで、それを見るたび胸が痛む。
それでも俺は、温かく柔らかい彼女の体が好きだった。
結局、彼女の痛みを共有することすら俺にはできなかった。
肌を合わせる夜には、その傷跡をじっくりと愛でる。
それが、俺が獣としてできるせめてもの償いだという気がしていた。
彼女は時おり泣きそうな声を上げたが、それは苦痛からではないようだった。
最近、ロッテは少し変わったように思う。
オスの勝手な感じ方かもしれないけど、関係を一歩前に進めようとしている気がする。
そして、そうなるよう努力している気もする。
回りくどい言い方をしたが、要は、彼女はだいぶ積極的になった。
何にかというのは、説明するまでもないだろう。
一緒に寝ても、今までは俺のやることに身を任せている感じだった。
拒みこそしないが、自発的に何かを仕掛けてくることもない。
そんな彼女に、特に不満を感じたこともなかったのだけど。
彼女が何かに目覚め、急にセックスという行為に能動的になったというわけではない。
しかし、彼女は殻を破ろうともがいている。
そんな気がする。
先週の土曜日の晩もそうだ。
ベッドの中で、彼女は体を起こした。
彼女は俺にまたがるような格好で座っており、密着している彼女のももが、柔らかく汗で湿っているのを感じた。
俺は、何も言わずに下から彼女を見上げる。
ロッテの長い髪が、彼女の胸を覆い隠している。
彼女も何も言わず、俺を見ている。
ただ視線だけが交わり、声も音もない時間。
ほんの一瞬そんな時間があった後、彼女は俺の胸の上にゆっくりと倒れ込んだ。
「ごめん」
そして一言、そう言った。
「うん」
それに対して、俺もただそう答える。
後は、もうそれきり。
そうすることを、お互いのルールにしていた。
こんなことが、実は何度も続いていた。
彼女は、何とかして体を開きたいと考えていた。
ありふれたオスとメスの関係になって、俺とセックスをしたいと思っていた。
人間と獣というだけで、他に何がなくてもありふれてはいない関係だ。
だから俺は、いっそこのままでもいいのかもしれないと思っていた。
わたしの記憶が間違っていなければと、あるときロッテは呟いた。
彼女は、10歳からの6年間をツォーで過ごしたらしい。
誰にとってもおそらくは多感なその時期を、彼女は生き死にと背中合わせで過ごしてきたのだ。
彼女は、未だに涙を流せない。
体の傷だって、死ぬまで残るだろう。
欲望のままに、獣たちに痛めつけられてきたロッテ。
同じ獣という生き物である俺が、彼女に何を求められるというのだろう。
彼女の考え方は、俺とは少し違った。
そんな普通でないときを過ごしたからこそ、今度は普通になりたい。
大好きだと思える相手と、ありふれた関係になりたい。
体の関係を持ちたいのは、もちろん俺のためでもある。
しかしそれは、自分も望んでいることなのだと彼女は断言した。
キスをしたり、ケンカしたり、盛り上がればセックスもする。
ありふれたカップルになることが、俺とロッテの目標になった。
目標というと大げさな感じもするが、ロッテは目下のところ、その実現に向けて努力をしている。
彼女の心とは裏腹に、体は素直に言うことを聞かない。
どんなに盛り上がっても、最後の最後ですっと身を引いてしまう。
そんなとき、ロッテは申し訳なさそうに何度も謝った。
俺が彼女の立場だったとしても、同じように申し訳なく思ったと思う。
ロッテが謝り、俺が慰める。
それでは、なかなか前に進まないような気もした。
そこで俺たちは、新しいルールを作ることにした。
たとえだめでも、謝るのは一度切り。
それに答えるのも一度切りにしよう。
その先は何も言わず、いつも通りに過ごすことにする。
そして俺が、正確には俺の体が期待してしまったにしても、それにも目をつぶること。
彼女の心と体が別々なように俺の心と体もまだ別々なのだと、ロッテには説明した。
これらの新しいルールは、彼女と暮らし始めてから2つ目にできたものだった。
1つ目は……そう、部屋では靴を脱ぐことだ。
いずれにしても、俺はロッテに無理強いをするつもりはなかった。
正直なところ、あと一歩は押しでどうにかなるような気もする。
しかし、そうはしたくない。
俺たちの関係は、卵を温めるようなものだと思っている。
せっかく今まで育んできたものを、焦って潰してしまいたくない。
ロッテがその殻を破るまで、俺は温め続けていようと思う。
『あいつのためなら、命かけたっていい!』
パートナーについて、そんなことを言うオスを見たことがある。
俺は自分が一番大切というわけではないし、誰かを思う気持ちもそれなりに分かっているつもりだ。
ただ、命をかけるというのはどこかしっくりとこなかった。
背を向けて眠っている彼女の首元から、ほんの少し傷跡が見える。
彼女の隣に寄り添って、俺は思う。
今なら、その気持ちがよく分かる。
もし、今ここに彼女をこんな目に遭わせたやつらがいたとしたら?
俺は間違いなくそいつらを殺すだろう。
*****
その日は、何も特別なことはないいつも通りの日だった。
アレンとロッテはいつものように朝食を取り、いつものようにそれぞれ仕事に出かけた。
今晩は何を食べよう、週末には何をしよう。
そんな、他愛もない話をしながら。
その日の夕食係だったアレンは、帰りの地下鉄で何を作ろうか考えていた。
そして、クローゼットの奥にしまい込んだ包みのことも。
それは、ロッテへの初めてのプレゼントだった。
市場の近くに、小さな雑貨店がある。
そこは年老いたカピバラが1匹でやっている店で、ショウウィンドウはいつも可愛らしく飾られていた。
いつ頃からか、ロッテはそこで足を止めるようになった。
そこで何を見ているのかアレンは特に聞かなかったし、彼女もまた何も言わなかった。
ロッテに何か贈ろうという考えは、唐突に浮かんだアイデアだった。
付き合ってからずいぶん経つが、アレンは彼女に何もプレゼントしていないことに気付いた。
付き合ったからといって、何かを贈らなければいけないということはないけれど……。
ただ、ロッテの喜ぶ顔が見たい。
アレンは、そんな気持ちからプレゼントを用意しようと思い立った。
何かのタイミングに合わせてプレゼントを贈るのは、難しそうだった。
何もないときにもらうプレゼントもいいものじゃないか?
アレンはそうも思った。
次の問題は、彼女に何を贈るかだった。
食べ物などより、何か形に残るものにしたかった。
アクセサリー、本、服、靴……。
あれこれ考えたが、これだという決め手はなかなか見つからない。
何かアイデアをと覗いたのが、あの市場近くの雑貨屋だった。
『オマス ゲシェンク』
おばあちゃんの贈り物という名前の付いた、小さな店。
自分は明らかに場違いな気がして入るのをためらっていると、中から店主のカピバラが出てきた。
「何かお探しかしら?」
カピバラはロッテよりも小さく、アレンは少し身を屈めて話した。
付き合っている相手に、何かプレゼントをしたいということも。
「それって……もしかしてあの人間のお嬢さんのことかしら?」
アレンは驚いた。
彼女は、市場によく来る彼らのことを覚えていたらしい。
「彼女、いつもうちのウィンドウを覗いているわね」
カピバラはほほほと笑った。
「この中に、何かほしいものがあるんじゃない?」
アレンは、ショウウィンドウを見る。
何の根拠もなかったが、直感的にこれだと感じた。
それは、1枚のエプロンだった。
黒い地に、オオカミのイラストがプリントしてある。
「これ、包んでもらえますか?」
アレンはそのエプロンを買った。
帰宅すると、プレゼントの包みを見つからないようにクローゼットの奥に隠した。
ふふっと、アレンはつい声を出して笑ってしまう。
隣で吊革に掴まっていたライオンが、怪訝そうな目で見てくる。
気まずくなって、アレンはあくびをしてごまかした。
あのプレゼントは、今日渡すつもりだった。
ロッテは、一体どんな顔をするだろう。
*****
壁の時計は、もうじき9時になる。
アレンは、さすがにおかしいと思い始めていた。
夕食は既に作り終え、鍋を温めるだけになっている。
しかし、肝心のロッテが帰ってこない。
ロッテの帰りが遅いことは、以前にもあった。
そのときも心配したが、急な残業で連絡する時間もなかったということだった。
今日も、そうなのだろうか。
とりあえず連絡しようと思い立ち、スマホを手に取った。
繋がらなかったら、メッセージを残そう。
さらに待つようなら、ベーレンフンガーまで行こうと思っていた。
今夜は、夜から雨になるらしい。
ロッテは、傘を持って行かなかったはずだ。
彼女の番号を呼び出し、電話をかけた。
1回、2回とコールし、3回目で電話がつながった。
「ロッテ? 俺だけど」
ごめん、また仕事が遅くなって……。
アレンは、彼女がそういうのを期待していた。
『あなたは……アレンさんですか?』
返ってきた声は、聞いたこともないオスの声だった。
一瞬間違えたかと液晶を見たが、そこにはロッテの番号が表示されている。
『もしもし? 切らないでください』
電話の見知らぬ相手にそう言われ、彼は再びスマホを耳に当てた。
『突然驚かせてしまいましたね』
『私は、マルクト警察署の者ですが』
警察……。
アレンの背中を、汗が滑り落ちた。




