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ツォー5/うちに帰ろう

ロッテは、埃だらけの床に腰を下ろして雨音を聞いていた。

彼女がここに来てから降り出した雨は、未だに止むことはない。


何も飲まず何も食べていなかったが、彼女は不思議と空腹を感じていなかった。

それは、自分がもう諦めたからだと考えていた。


もういい。

ハンスもいないこの世界で、わたしはもう生きていたくない。


*****


道沿いに山への入り口がある辺鄙な場所に、アレンは車を停めた。

ベアンハルトの記憶が確かなら、この斜面の向こうに小屋があるはずだった。

靴の紐を締め直し、斜面を登り始める。


雨でぬかるんだ道に足を取られ、ズボンも靴もすぐに泥だらけになった。

それでも、彼は進むのを止めない。

この先にロッテがいる保証はなかったが、彼女が他に行く場所も思いつかなかった。


雨除けにフードを被った、アレンの視界が開ける。

斜面の先にあった森を抜けると、丘の上に小さく小屋が見えた。

足が早まる。


雨は激しさを増してきた。

ようやく小屋の前に着いて振り返ると、風景は白く煙ったように見える。


ずいぶんと朽ちた小屋だった。

彼女がここを離れて以来は、誰の手入れも受けてこなかったのだろう。


入り口のドアには鍵も取っ手もなかったが、アレンは隙間に手を入れて引いてみた。

ギィーッと音がして、扉がゆっくりと開く。


壊れた棚に体を預けて床に座り続けていたロッテの耳に、その音は届く。

激しくなった雨音の中に、扉のきしむ音が混じった。

目をドアのほうに向けると、そこには見覚えのあるシルエットがあった。


入り口を覆うように立つ、1匹のオオカミ。


「ハンス……」

ロッテの唇が、懐かしい言葉を結ぶ。

しかし、そうではなかった。


「ロッテ……」

彼女の名を呼んだその獣は、ハンスではなかった。

全身びしょ濡れで、被ったフードから雫をしたたらせている。

それはハンスではなく、彼女のルームメイトだった。


「アレン……どうして……」

あの晩彼から逃げて以来、久々の再会。

あんな離れ方をしたのに、胸の中に懐かしさが温かく広がる。

しかし彼が部屋に一歩足を踏み入れたとき、彼女は逃げずにはいられなかった。


よろよろと立ち上がり、後ずさりをする。

「来ないで」

「帰って」

ロッテはアレンを見つめたまま、じりじりと後ろに下がる。

それは、まるで捕食者から逃れようとする哀れな獲物のようであった。


「ロッテ、話を聞いてほしい」

アレンは、ゆっくりと近付いてくる。


「来ないで!」

ロッテが叫んだ。

「来ないで……」


うつむく彼女の視界に、床に落ちていた果物ナイフが目に入る。

小屋の中を荒らされながらも残っていたそれは、錆びて使い物にならなそうだった。

しかし、果物の皮を剥くわけではないのならまだ使いではありそうに思える。


アレンがまた一歩進んだのと同時に、ロッテはそのナイフを拾う。

それを見ていた彼の表情に、緊張が走る。


ロッテはそのナイフを向かってくるアレンにではなく、自分に向けた。

錆びた先を、喉元に突きつける。


もういい。

もういいんだってば。


稲妻が光り、小屋をわずかに震わせて雷が鳴る。

ナイフは、再び床に転がっている。

ロッテはアレンに両手をつかまれ、はあはあと喘ぐように息をしていた。


ナイフの先が喉に食い込むより早く、アレンはロッテの元に走り寄った。

腕をつかみ、ナイフを離させる。

そのまま、押し倒すような形で床に倒れ込んだのだった。


床に押し付けられたロッテは、怒りと悲しみの混じった顔でアレンを見ている。

彼女の胸が、せわしなく上下している。


これが正しい方法だとは思えなかったが、ひとまず、彼女は自分を傷つけることはできないだろう。

その状態のまま、アレンはロッテに話しかけた。


「話を聞いてくれないか」

「……」

ロッテは何も言わない。

アレンは、そのまま続けた。


「あの晩のことは、本当に悪かったと思ってる」

「きみを、とても傷つけた」

「あのとき俺が言ってしまったことは、情けないくらい自分よがりだって分かったんだ」


「受け入れるとか、理解するとか」

「理解なんて、できるわけなかった……」

「本当に、ごめん」


彼の言葉を聞いても、ロッテは変わらない。

まるで押さえつけられた小さな獣のように、相変わらず荒い息をしている。


「許してくれなんて言わない」

「ただ、自分を傷つけるのだけは止めてくれないか」

「きみには、生きていてほしいんだ」


ロッテの荒い呼吸は、おさまりつつある。

しかしアレンが押さえる彼女の細い手首は、未だに逃れようともがいていた。


「生きて、どうすればいいの」

生きていてほしいという彼の希望だけでは、ロッテは動いてはくれない。


「あなたと一緒に暮らしたのは楽しかった」

「あなたに本気で恋もした」


「それでも心のどこかでは、ここへ帰ってくるのをずっと夢見ていた」

「ここでの静かな暮らし……ハンスとわたし……」

涙こそ流れなかったが、ロッテは泣いているようだった。


「でももう、ハンスはどこにもいない」

「わたしを迎えに来ることもない」


「今まで進んできた道が、突然なくなってしまったような気持ちよ」

「もうどこへ進めばいいのか、わたしにはまるで分からない……」


「じゃあ、俺が手を引いたらきみは帰ってきてくれるのか?」

「きみが道に迷ったなら、俺が手を引いて連れ戻す」

ロッテを見下ろすアレンの頭から、ぽたぽたと雨粒が滴る。


「アレン」

「わたしがツォーという場所にいたことを、あなたはもう知ってしまった」

「そんなあたなのいる場所に、わたしはきっと戻れない」


「俺は……」

俺はそんなことは気にしない。

アレンはそう言いたかった。

しかし、それを遮るようにロッテは続ける。


「あなたは何も知らない」


「あなたの見た1021という番号を背負って、わたしがどうやって生きてきたのか」


「毎日をどうやり過ごしていたのか」


「どんなふうに苦痛に耐えていたのか」


「アレン、あなたは何も知らないのよ」


アルから落ちた雨粒が、涙のようにロッテの頬を伝う。


「わたしと同じ名前の友人は、頭の皮だけになって消えてしまった」


「意識のあるままに皮を削がれる痛みを、あなたは知らない」


「焼けた鉄で、肌が焼ける臭いも知らない」


「何度も水に沈められる苦しさも」


「剥き出しの爪を引き下ろされる苦痛も」


「あなたは何も知らないし、わたしはあなたに知ってほしくない」

「そんなことをされたわたしを、わたしの体を知ってほしくない」


「痛めつけられて、わたしたちが獣のような叫びをあげるのを知らない」


「それにいつしか慣れてしまうのも知らない」


「苦痛のさ中にある仲間をいたわるより、あれが自分でなくてよかったと思える心を知らない」


「心が腐って涙が出なくなるのを、あなたは知らない……」


「ロッテ……」

絞り出すように、アレンはたったそれしか言えなかった。

彼が心から大切に思うロッテの言葉は、ハンナのそれよりも重くのしかかる。


「お願い」

「だからもう、終わりにしたいの」

「帰る場所も、なくなってしまった」


「だから、もう全部なかったことにしたいのよ」

「わたしという人間そのものも」

ロッテは足掻くのを止めていた。

ずっと心にため込んでいた思いを吐き出した彼女は、やけにすっきりとした顔をしていた。


「だからアレン、お願い」

「わたしが自分を傷つけてならないなら、あなたがやって」

「あなたがわたしを殺して」

「お願い、殺して」


あの晩の寝言のように、ロッテはずっとそう望んでいたのかもしれない。

足掻いて生きるのを止め、命を捨てて安らぎを得ること。

きっとツォーでは、そのほうがずっと楽だったはずだ。

今の今までただ抱き続けたその願いを、俺は叶えてやれるだろうか。


アレンは、ロッテを押さえていた手を離した。

彼女は抵抗することなく、そのまま床に横たわっている。


床に落ちているナイフを、アレンは手に取ってみる。

錆びてはいるが、役には立ちそうだった。


ロッテは、ふっと微笑んだ。

ハンナのように。

そこには、自分の願いが聞き届けられるという安堵があった。


「きみの言うとおり、俺は何も知らない」

「知ったところで、理解もしてやれない」

「だけど……」

「こうすることはできる……」

稲光が走り、雷鳴が聞こえる。


アレンはナイフを持ち替えて、その柄をロッテに握らせた。

「理解はできない」

「ただ、共有はできるかもしれない」

「きみが受けた、苦痛の共有」


ナイフを手にしたロッテは、驚いた表情をしている。

アレンはその錆びた刃先をつかみ、自分の胸に押し当てた。


「きみが獣にされたことを、同じように俺にもすればいい」

「きみの体についた傷を頼りに、同じようにすればいい」

「切ろうが焼こうが、俺は構わない」

刃先を強く押し付けた胸に、鋭い痛みを感じる。


「もし……」

「もしそうやって、それでも最後に俺が生きていたら……」

ナイフを手にするロッテは震えていた。


「そのときは、一緒に帰ろう」

「うちに帰ろう」


「うちに……帰る」

「わたしの、うち……」


「ああ」

「あの気難しいヤマアラシの大家がいる、あのアパートだよ」

「あそこはもう、きみのうちなんだ」

「一緒に帰ろう、ロッテ」


床の上で、ロッテはひくっと喉を鳴らした。

持っていたナイフから手を離すと、両手で顔を覆う。


アレンは胸からナイフをゆっくり離すと、ロッテを抱き起こす。

体が濡れているのも構わず、彼女を思い切り抱き締めた。

彼女がもう、どこへも行ってしまわないように。


顔を覆って硬くなっていたロッテの腕が、やがてアレンの背中に巻き付く。

その手は、彼の背中を強い力でつかんでいる。


アレンの胸の中で、ロッテは大声を上げた。

何度も何度も、彼の名前を呼んだ。


アレンは間に合ったようだった。

遠ざかっていくロッテの手を、しっかりと握ることができた。

今、ロッテは彼を振り返り、そして泣いていた。

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