ツヴァイ ヘンデ/大きな手と小さな手
zwei Hände
ふたつの手
ロッテがうちに来て、早くも1か月が過ぎようとしている。
彼女とのルームシェアは、目下のところ順調であった。
ロッテは決められたルールはきちんと守るし、住居を清潔に保つことも好んでいる。
手先が器用なので、掃除も完璧だった。
キッチン用品などの共用物は丁寧に扱うし、次に使う相手のことを考え、きちんと手入れしている。
ルールがあれば守るのは当たり前だと思うのだが、残念なことに、そうでないやつも意外に多い。
ロッテが来るまでに、俺のルームメイトは3匹変わっている。
最初のルームメイトは、陽気なオスのバクだった。
気のいい獣ではあったが、いかんせん、掃除ができないのが難点だった。
自分の部屋だけならまだしも、キッチンやリビングなどの共用スペースも散らかすので困った。
それをたしなめると、彼はさっさと出て行ってしまった。
「ノリが悪い」と最後に捨て台詞を吐いた彼との生活は、たった2か月のことだった。
次に来たのは、同じ肉食獣であるオスのホワイトタイガーだった。
きれい好きな部分は好ましかったが、よくメスを連れ込むのには閉口した。
プライベートルームは隣り合わせ、壁もそんなに厚くはない。
そこへきて、週に3~4日は激しくやるものだから寝不足になってしまった。
いい加減何か言わなくてはと思っていたとき、孕ませたメスと結婚すると出て行った。
3匹目は、気弱そうなメスのアルマジロだった。
彼女に至っては、10日で音を上げた。
興味本位で肉食獣とルームシェアしたかったということらしかったが、その大きさにさすがに引いたと最後に言われた。
一体、何なんだか……。
そんなこんなで3匹もが変わったせいで、ヤマアラシの大家には目を付けられてしまった。
俺は、何か悪いことをしただろうか。
ロッテと暮らしてまだ長くはないが、何か悪いことがあっただろうか?
少なくとも今までは、彼女はパーフェクトではなかったか?
そう考えたとき、ふとあることを思い出した。
夜勤明けでひと眠りした午後、洗濯をしようと思い立った。
部屋にはランドリールームが別にあり、旧式ではあるが洗濯機と乾燥機が置いてある。
この辺りでは、天気のいい日でも屋外に洗濯物を干すことはない。
そのため、洗った洗濯物はそのまま乾燥機に直行することになる。
コーヒーを飲みながら雑誌を読んでいると、洗濯が終わったことを知らせるブザーが鳴った。
中から洗濯物を取り出していったん籠に移し、乾燥機に入れようとふたを開ける。
そのがらんとした空間の中に、何かが落ちている。
ロッテの忘れ物らしい。
乾いた洗濯物を乾燥機に忘れてきてしまうことは、俺にも経験があった。
届けてあげようと思い、何気なく手に取る。
それはつやつやとした光沢のある濃いブルーの生地で、サイズからしてハンカチか何かの小物のようだった。
乾燥機から出して広げてみると、ハンカチではなくパンティーだった。
はっとして2~3秒、その小さな布切れを手にしたまま固まってしまう。
断じて俺自身が望んでいるわけではなかったが、オスの本能がついついパンティーを観察してしまう。
真ん中に小さなリボンが付いていて、ちょっとレースがあしらわれている。
さばさばした印象すら与えてくるロッテが、こんな下着を履いているなんて。
そもそも、人間の下着ってこんなに小さいのか……。
最後にはそれを履いている彼女まで想像してしまいそうになり、俺は自分の本能を叱り飛ばした。
さて、ではこの代物をどうすればいいのか。
彼女が気付くまでここに放置するとなると、俺の洗濯物が乾かせない。
『忘れたあいつが悪いのさ! ポッケにしまっておきな!』
悪魔の本能が囁く。
もちろんそんな声には耳を貸さず、俺はそれを彼女の部屋に届けることにした。
「パンツ、乾燥機に残ってたよー」
しっかりしろよ~と笑いながら返すことなど、俺には到底無理だった。
幸い、彼女は仕事で不在である。
なので、彼女の部屋に適当に放り込むことに決めた。
あわよくばロッテが、自分がしまい忘れたと思ってくれることを願って。
どう扱っていいか分からず、その小さくて濃紺のシロモノを2本の指でつまむ。
決して、決して汚いと思っているわけではないんだ……と、自分自身に弁解しながら。
手首のスナップを利かせてロッテの部屋に投げ込むと、それはまるで生き物のようにふわふわっと飛んでいった。
どこに落ちたまでは確認しなかったが、後は野となれ山となれの心境だった。
思えば、ロッテとの暮らしで参ったのはそれくらいだった。
友達の1匹に言わせれば、これはきっとトラブルではないのだろうけど。
「おまっ……それはご褒美っつうんだよ!」
彼なら、きっとそう言うだろう。
ご褒美というのか分からないが、彼女と暮らしてよかったことはもうひとつあった。
「朝ごはん、まだなんでしょ? 冷蔵庫の残り物でよければ食べてよ」
そう言って、ロッテは夜勤明けの俺に食事を残してくれるようになった。
彼女曰く、前日の晩にいつもつい作りすぎてしまうのだそうだ。
もちろんないときもあるわけだが、あるときのほうが圧倒的に多い。
最初こそ恐縮していただいていたけれど、次第に冷蔵庫を開けるのが楽しみになっていた。
夜勤明けはだいたい辛いし、家に帰って何か作る気もしない。
寝る前にせめて腹に何か入れておこうと、ジャムを塗ったパンなどを食べるのが常だった。
肉食獣の俺は体も大きく、夜間勤務だとエネルギー切れを起こしそうになる。
途中に休憩して何か食べられるときはまだいいが、状況によってはそれも無理なときも多い。
本来のオオカミという獣は、一度にたくさんの食べ物を食べることができ、そのエネルギーを蓄えておくこともできる。
しかしそれは昔の話で、今そんなことをしたら腹は減らないだろうけど仕事にもならないだろう。
これは、進化によって生じた弊害である。
何はさておき、俺はロッテの料理を楽しみにするようになった。
彼女は、余った料理をいつも一番大きなタッパーに入れて冷蔵庫に入れておいてくれる。
それをレンジで温めて食べるのが、俺の夜勤明けの習慣となっていた。
マメな彼女は料理をすることも好きらしく、タッパーの中身が今まで食べたことのないようなものであることも少なくなかった。
温かい料理で胃袋が満たされ、俺はぐっすりと眠れるようになった。
よく眠れるようになったのは、しっかりとした食事をするようになったからというだけではなかった。
彼女は、俺を邪魔するようなことは決してしない。
バクのように部屋を散らかしたり、ホワイトタイガーのように毎夜励むこともない。
何にしても、ストレスが溜まらなくなったのが大きいと思う。
ロッテはよく、窓際に腰かけて外を眺めていることがある。
階下の往来に目をむけているときもあれば、ずっとどこか、遠くを見ているときもある。
そんなときの彼女はどこか寂し気に思えた。
いつだったか部屋の前を通りかかったときに、そんな彼女と目が合ったことがある。
彼女は俺に気付くとふっと笑ってみせ、また窓の外に視線を戻す。
彼女は、独特のリズムを持っている。
その、他に何を強制するわけでもないリズムが、俺には心地よかった。
彼女は、部屋のドアを開け放して過ごすことも多い。
床に腹ばいになり本を読んだり、机に向かって何かやっているときもある。
引っ越し後の彼女の部屋は何度か覗いたことがあったが、ディーゼルにキャンバスが掛けてあったり、棚には画材らしきものが並べてあった。
どうやら、絵を描くことが好きらしい。
彼女の描く絵は抽象画というのか、色を塗りたくっただけの形のないものが多い。
アパートの前で俺が手にした画用紙は、彼女のそんな1枚であったのだ。
ロッテが言うには、自分が絵を描くのは日記を書くようなものだということだった。
文字にすらできない気持ちを、紙の上に描き上げる。
「後から見ても、何を感じていたか分からないんだけどね」
困ったように笑って、ロッテはそう言う。
昔、そうやって気持ちを整理するよう教えてもらったのだとも言っていた。
何にしても、俺とロッテは意外にうまくいっているらしかった。
*****
「ねえねえ、あそこの壁に何か飾ってもいい?」
「ん?」
互いに別々の食事を取った夕食後、ロッテはお茶を飲みながら言った。
あそこの壁というのは、リビングにある鍵かけのある壁のことだった。
鍵をかけるフックのある以外は、クリーム色の壁が広がっているだけだ。
「あそこに何かあれば、壁がしまると思うんだよね」
「そんなこと、考えたこともなかったな」
率直な感想。
「飾りたければ、何か飾るといいよ」
「本当?」
ロッテは嬉しそうだった。
すぐに部屋に戻ると、いろいろなサイズの額を持ち出して、壁に当ててみている。
ああでもない、こうでもないと、ずいぶんお悩みの様子だった。
俺は壁の白さは特に気にならなかったし、別に何を飾ってもいいだろうとも思っていたので、特に関心は示さなかった。
「サイズはこれなのよね」
ようやくロッテは、中くらいの額縁を選んだようだった。
問題は、その中身を何にするかということらしい。
「写真? いやー、違うな」
再び、ああでもない、こうでもないの時間だった。
俺が食器を洗っていると、ついに彼女にひらめきが訪れたようだった。
「ねえ! こういうのは?」
キッチンのテーブルに、白い絵の具をのばした容器が置いてある。
そして、額に合うようにカットされた、濃いブルーの画用紙。
濃いブルー。
俺はつい、あの乾燥機の一件を思い出してしまう。
ロッテは、そんな俺にはもちろん気付いていない。
「で? どうすればいいの?」
「この絵の具を、手の平に付けて……それでこっちの紙にスタンプするの」
「えーと、位置はこの辺りね」
「そう、あんまり真ん中じゃなくて」
指定された場所に俺が絵の具を塗った手を置くと、ロッテはその手を上から押さえる。
「ちょっとじっとしてて」
そう言ってやはり小ぶりな手で、俺の手の甲や指をまんべんなく押している。
もういいよと言われて手を剥がすと、ブルーの紙に浮かび上がるように俺の白い手形があった。
「次はわたし」
そう言って、彼女は俺と同じ手順で紙に手形を押した。
俺の手形の隣に、反対の手で。
ブルー地に、2つの手形が浮かび上がる。
ちょうど両手をついたように、親指が内側を向いている。
大きな手と、小さな手のスタンプ。
「ありがとうね」
そう言って、彼女は俺の次にバスルームで手を洗った。
その翌日、起きてきた俺は壁の額に気付く。
アンティーク調の茶色の額に、昨日の俺たちの手形が納められている。
何てことはない、子どもの遊びのようなものだった。
しかし、それが妙に存在感を示している。
「どう? けっこういい感じだよね」
既に起きていたロッテが、部屋から出てきて声をかけた。
「アレンとわたし」
「この201号室のルームメイトってことで」
そう言って、にかっと笑った。
「変かな?」
俺が黙っていたので、気に入らないのかと思ったらしい。
「いや、そんなことない」
「いいと思う」
慌てて弁解する。
事実、それはあの殺風景な壁によく似合っていた。
壁に穴をあけるとヤマアラシの大家がうるさいけれど、きっとまた、ロッテがうまくやりこめるだろう。
俺はそんなことを思って、胸のすくような白い手形を見つめていた。