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ツォー4/老婆と古傷

よどみなく彼女が話し始めたことは、アレンの耳に奇妙に響いた。

「部屋にはわたしと彼しかいなかった」

「彼はわたしをテーブルに仰向けに寝かせたの」

「そしてわたしの口を押えて、お腹を思いきり殴ったのよ」


何だ?

何かがおかしい。


「イノシシが手を離すと、わたしの口からは胃の中身が出てきて」

「食事のときに言われたのは、このことだったのよね」

「それから何度も何度も、同じことが繰り返された」

「わたしが気を失ってしまうまでね…」


アレンは、ごくっと唾を飲み込んだ。

首のあたりの毛が逆立つのが分かる。

この老婆は、一体何の話をしているんだ。

ツォーって、何なんだ。


「初めての夜が終わってからしばらくは、わたしは座ることもできなかった」

「誰も介抱なんかしてくれなくて、食事も目の前にパンがどさっと置かれるだけなのよ」

「血みたいなおしっこがだらだらと流れるのを感じながら、そのパンを口に押し込むしかなかったわ」

ハンナは、そこまで言うとうつむいてしまった。

組んだ両手は、皺こそあるが細々としてきれいだった。


「ハンナさん、大丈夫ですか?」

エレナが気遣った。

「ええ、ええ」

「少し、お茶をいただいてもいいかしら?」

「もちろん」

エレナは温かいお茶を用意して、ハンナに飲ませた。

彼女はそれを、ゆっくり美味しそうに飲んだ。


「あなたは、ツォーがどんな場所だったと思いましたか?」

今度はエレナが質問した。

「地獄があるとしたら、きっとああいう場所ね」

「わたしたちのような、人間にとっては」


「表向きは高級娼館だったけれど、性的な奉仕をして済まされることなんてほとんどなかった」

「お客の多くは、そんなことよりわたしたちを痛めつけたかったの」

「耐えられなくて、死んでしまった子もたくさんいたわ」


「いろいろなことをされたわね」

「殴られるのは日常茶飯事だったし、切られたり、焼かれたり」

「水に沈められたこともあったわ」

「意識を失うと、そのたびに水を吐かせて呼び戻すの」

「そこから、また同じことが始まる」


「錆びたはさみで、指を切られた子もいたわね」

「でも、それをやったお客はとってもひどい目に遭わされたみたい」

「それが、ツォーでの約束なの」


「みんなが気持ちよく使()()()ように、商品にみだりに傷をつけてはならない」

「ドレスから見えるような場所に、怪我を負わせてはいけないのよ」

「だから、わたしたちはいつもただ美しいように見えた」

「白いドレスの下は、とても見られたものじゃなかったけれど」


再び、部屋に沈黙が訪れる。

アレンは、胸がむかむかしていた。

胃の中に重い石でも詰まっているかのようだった。


ハンナが、沈黙を破った。

「せっかくこうして来ていただいたんだから…」

「わたしの体、見せましょうか」


エレナは、一瞬躊躇したらしかった。

しかし唇を噛みしめ、できる限りの柔らかな声で言った。

「もし、あなたがそうしてくださるなら」


「助手の方も、よろしければどうぞ」

お茶を勧めるような感覚で、ハンナはアレンをも手招きした。


エレナとアレンが、ハンナの背後に立つ。

「めくってくださる?」

ハンナがそう言い、エレナは深呼吸してそれに応じた。

エレナは服をめくりあげる瞬間、とても小さな声で「目を逸らすな」と言った。

それがアレンに向けての言葉だったのか、あるいは彼女自身へのものだったのかは分からなかった。


服のめくりあげられた背中を見て、アレンは息を飲んだ。

ハンナの滑らかな背中全体には、あらゆる古傷があった。

刃物で切ったらしいもの、殴られたあざ、火傷で肌が変質した部分もあった。


ロッテのキャンバスを思い出す。

背中という白いキャンバスには、彼女の受けた苦痛が生々しく描かれている。

それは何十年経っても色あせない、呪いの絵画のようだった。


「びっくりさせてしまったかしら」

ハンナは静かに微笑んだ。

「本当は、前も見せてさしあげたいんだけど…」

「こちらはもっとひどいの」

「胸なんかは、もう原型を留めていないくらいなの」

「さすがに、ご覧にならないほうがいいわ」

微笑みは、消えていた。


深く息をついて、エレナはハンナに向き直った。

彼女の心にも葛藤が生まれているのが、アレンにも分かる。

「あなたは、その後どうなりましたか?」

「どうやって、ツォーから生還されたのですか?」


「わたしは、運がよかったの」

「お客の1匹が、わたしにとても同情してくれて…」

「ツォーに大金を支払って、わたしを引き抜いてくれたの」

「表向きは、自分専用にするということでね」

ハンナは再び手を組んで、静かに話し始める。


「わたしは本当に運がよかったわね」

「ツォーにいた少女たちの中で、生きてそこを出られたのは全体の3%ほどだっていうじゃない」

「そしてわたしのようにありふれた最後を迎えられるのは、その中でさらに数えるほど…」

「そう教えてくれたわね、エレナ」

「ええ…調べがついている限りでは」


ハンナの視線は、再び宙を漂う。

「もちろん、ツォーから解放された少女たちはたくさんいたわ」

「命は、そこに置いてきてしまったけれど…」


脚に力が入らなくなってきたのを感じる。

ハンナの話に耳を塞ぎ、アレンは今すぐにでもここを出ていきたかった。

彼女の話は、あまりに凄惨すぎた。


「それで…その獣はわたしに求婚してくれたの」

「ふふふ」

「わたしのようなおばあちゃんにも、そんな輝いたときがあったのよ」

ハンナは、口に指を当てていたずらっぽく言った。

「わたしの素性を知っていてなお、わたしを受け入れたいと言ってくれた」

「嬉しかった」


「それで、その彼と?」

エレナが尋ねる。

ハンナは、ゆっくりと首を振った。

「いいえ」

「それは叶わなかった」

「彼ではなく、わたしが拒否したの」


「彼はわたしを受け入れると言ってくれたし、きっとそれは本心だったと思う」

「でもね、わたしにはできなかった」

「わたし自身が、ツォーで生きた自分を受け入れられなかったの」

「わたしの体も、彼を受け入れることはできなかった」

「彼のことは、とても愛していたんだけど」


アレンは、ロッテのことを思い出した。

あなたのほしいものは、わたしは与えてあげられない。

いつか彼女が、悲しげにそう言ったのを思い出す。


「あんな場所からやってきた自分は、ものすごく汚れているように感じられたわ」

「そんな自分が、彼に寄り添うのは相応しくない気がしたの」

「わたしは訳を告げずに、彼のプロポーズを断ったわ」


ハンナはうつむく。

「それでも彼は優しかった」

「自分の会社でわたしを雇ってくれたのよ」

「そのおかげで、わたしは今こうしてここにいられるの」

「当の彼は、数年前に亡くなってしまったけれど…」


そこまで話すと、ハンナは大きく息を吐いて両手で顔を覆った。

「ごめんなさいね、もうこのくらいでいいかしら」

震える声で、そう言った。


「はい、もう充分です」

「貴重なお話を、ありがとうございました」

エレナは深々と頭を下げた。


こうして、取材は終わった。

アレンは少しほっとしたが、同時に焦ってもいた。

ハンナの話を聞いて、俺はどうしたらいいのだろう。

自分から離れようとしているロッテに、何をしてやれるだろう。

そう思うと、抑えることができなかった。


「あ、あの!」

アレンは、初めてハンナに話しかけた。

エレナは怪訝な顔をして見ている。


「教えてもらえませんか?」

「あら、何かしら?」

応じてくれたハンナに、彼は急き込んで尋ねる。


「もしここに…あなたのような少女を大切に思う獣がいたとして…」

「そいつは、彼女に何をしてやれるでしょう」

「彼女がツォーにいたと知っても、彼は構わないと思っています」

「あなたのように離れていく彼女を、どうやって引き戻せばいいと思いますか?」

エレナは、余計なことを言うなという顔をしてアレンの肩を引く。

それを無視して、アレンは続けた。


「彼は、彼女がどんな過去を持っていても受け入れたいと思っている」

「理解したいと思っている…」

そこまで言うと、アレンはうつむいて拳を握った。


しばらく間を置いて、ハンナは静かに答えた。

「残念だけど」

「理解することはできないのよ」

「わたしたちが引きずる過去は、理解なんかできるものじゃないの」


アレンは、ショックだった。

道が断たれたような気がした。

ロッテと同じような境遇の彼女なら、何か答えをくれるのではないかと思っていた。

その考えは甘かったと、彼は打ちのめされた。


*****


ハンナに別れを告げ、2匹は車に戻った。

機材をトランクに押し込み、バタンと扉を閉めた。

彼の脳裏に、ロッテが浮かぶ。


柔らかい光の中で、彼女は笑っている。

自分の名前を呼び、ハンナのように静かに笑っている。

そよぐ風に、ほどいた髪を遊ばせる。

光を受けて、彼女の長い髪はきらきらと光っている。


アパートの玄関で、初めて出会ったとき。

手形を押して、一緒に額を作ったとき。

寝込んだときに感じた、額に置かれたその手の心地よさ。

窓際で外を見ているとき。

夜景を眺めたときの、寂しさの滲む横顔。

キスのとき、ゆっくりと閉じられた目。

互いに求め合いながらも、叶わなかった夜。

ごめんと謝った、悲しそうな顔。

シャワーの後の、甘い匂い。

触れる唇の柔らかさ。


明け方に目を覚ましたとき、傍らにロッテがいるのが嬉しかった。

無防備に眠る彼女を、強く抱きしめた。

ロッテは時おり目を覚まして、アレンに笑いかける。


自分の言葉に、取り乱したロッテ。

自分はあのとき、彼女に何と言ったのだったか。


きみを受け入れたい。

きみを理解したい。

そんなことは、叶わなかった。

獣の身勝手な考えでしかなかった。


光の中のロッテは、悲しそうな顔で微笑む。

やがて踵を返すと、アレンに背を向ける。

そのまま、ゆっくりと遠ざかっていく…。


胃がギュッと押されるように感じ、傍らの木に寄りかかる。

木に手をついて、アレンは嘔吐した。

昨日からろくに食べていないせいで、出たのは胃液程度だった。


アレンは泣きたかった。

でも、それを自分に許してはならないと思った。

本当に泣くべきは、ハンナでありロッテであった。

彼女たちがそれをできないのに、自分が泣くなどあってはならない。

獣である自分が。


アレンの吐き気がおさまったのを見計らって、エレナが水を差しだしてくれた。

口を拭って、彼は礼を言ってそれを受け取った。

キャップを開けて、水をごくごくと飲んだ。


エレナは再び煙草に火をつけた。

煙をくゆらせながら、水のボトルを持ってたたずむアレンを見ている。


「…さっきは、勝手なことをしてすみませんでした」

「ああ、別に構わないわよ」

「彼女の思いも聞けたしね」

アレンは黙り込み、エレナも黙って煙草をふかした。


「ちょっと、あなたたち!」

不意にハンナの声がした。

ケアハウスの玄関から、スタッフに車椅子を押されたハンナが出てくる。

「よかった、間に合ったわね」

「どうかしましたか?」

エレナが尋ねると、ハンナはアレンに向き合った。


「アレンといったかしら?」

「はい…」

「さっき、あなたは聞いたわね」

「わたしのような少女に、獣が何をしてやれるか」

「…ええ」

「理解できないと言ったのは、わたしの本音よ」

「あなたたちには、理解はできないの」

「…」

アルは黙って聞いている。

ハンナは続けた。


「ただね、あれから考えたの」

「もしわたしがその少女だったら、何をしてほしいか…」

ハンナは、アレンを見つめた。


「何度でも何度でも、諦めずに手を引いてほしいわね」

「行くなと言って、引き止めてほしい」

「わたしを救った彼は、わたしが断ると悲し気に離れていったの」

「それは彼にとって正解だったと思っているわ」

「でもね…」


「もし彼がしつこくわたしの手を引いてくれていたら、もしかしたらとも思うのよ」

「もしかしたら、わたしは彼に心と体を開けたかもしれない」

「今は、そう思ってるの」


何度でも、手を引く。

アレンの元を離れようとしているロッテ。

今なら、まだ間に合うだろうか。

行くなと言えば、彼女はまた振り向いてくれるだろうか。


「あの、ありがとうございます」

アレンは彼女に近寄り、そっと手を握った。

「頑張ってね、アレン」

ハンナは微笑んだ。

「彼女を助けてあげて」


おそらく彼女は、少女を愛する獣が彼自身であることを見抜いていたのだろう。

最後にああ言われたことで、アレンにはかすかに希望が見えた。

きっと、まだ遅くはない。


*****


ハンナとの面会から帰った後、アレンは久々にしっかりとした食事を取った。

服を着替え、靴を履く。

手には、ベアンハルトの貸してくれた車のキーがある。


ロッテを迎えに行く。

彼女の手が、届かない場所に行ってしまう前に。

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