ツォー3/6番のハンナ
アレンは、電話をかけていた。
何度かコールした後、留守番電話につながる。
一度切ってかけ直そうとしたとき、その相手から折り返しがあった。
『すまない、アル』
『何か用だったかい?』
電話の相手は、父のエーリッヒだった。
歴史学者をしている父に、彼は頼るしかなかった。
「父さん、今いいかな…」
「聞きたいことがあるんだ」
『何だい?』
「ツォーという場所のこと、何か知ってる?」
アレンの言葉に、エーリッヒは黙り込んだ。
しばらくしてため息を吐き、彼は言葉を続けた。
『アル、どこでそんなことを知った?』
父の言葉が、いつもより緊張をはらんでいるのが分かった。
『私は人間の歴史についても詳しくはあるが…あの場所についてはあまり話したくない』
『できれば、おまえには知ってほしくないとも思っている…そんなことではいけないと思うのだが』
「父さん、気持ちは分かるけど俺はもう子どもじゃないんだ」
「その場所について、今すぐ知らなくちゃならない」
『そうか…』
父は、なぜだとは尋ねてこなかった。
それでもなお、考えあぐねているようだった。
アレンは、本当のことが知りたかった。
その場所を知ることが、ロッテを知ることにつながると信じるしかなかった。
『アル、少し待てるか?』
「ん?」
『私の元教え子で、その辺りを専門にやっているジャーナリストがいる』
『彼女に連絡を取ってみる』
エーリッヒは、最後まで自分の口からは何も言わなかった。
*****
その日の昼前、見知らぬ番号から電話がかかってきた。
父の言っていた獣だと思い、アレンは電話に出た。
『先生の息子さん?』
第一声から、相手はぶっきらぼうだった。
『先生から頼まれた件、ツォーのことだけど』
「はい」
『運がいいわね』
『明日、ちょうど生存者の取材に行くのよ』
『邪魔しないんだったら、助手ってことで同行させてあげてもいい』
『先生はあなたに真実を知ってほしくはないみたいね』
『あたしは逆に、真実こそ明るみに出るべきだと思ってる』
「よろしくお願いします」
当日、指定された駅で待っていると、ロータリーからクラクションが聞こえた。
音の先では、小さな車に小柄なキツネが乗って合図をしていた。
「ごめんなさいね、車狭くて」
「あたしはエレナ」
「あなたのお父上の教え子よ」
エレナは車を走らせる。
これから向かうのは、郊外にあるケアハウスだった。
「分かってると思うけど、勝手な真似はしないで」
「これから会いに行く人には、2年かかってやっとOKをもらったの」
「貴重な取材相手だってことを忘れないでよ」
エレナの言葉は厳しかった。
「ツォーという場所は…本当にただの娼館ではないんですか?」
狭い車内の後部座席で、身を縮めてアレンは尋ねた。
「ほんと、何も知らないのね」
「まあ、あなただけでなく、世間一般の獣たちもそうなんだけど」
エレナは断りなく煙草に火をつけ、断りなく窓を開ける。
車内を、ひんやりと湿気を帯びた空気が撫でつけた。
ケアハウスに着き、アレンはようやく窮屈さから解放された。
体を満足に伸ばす時間もなく、エレナに取材機材を運ぶよう言われる。
ハウスの受付で、エレナは取材に来た旨を伝えている。
「ハンナはお部屋でお待ちですよ」
受付スタッフがそう教えてくれた。
「ハンナさん、今日は本当にありがとうございます」
「実は突然で申し訳ないのですが、今日は助手を連れてきたんです」
「大きなオスのオオカミなんですが…」
エレナがそう話すのを、アレンは部屋の外で聞いていた。
彼は、ここで待つように言われていたのだった。
どうやら先方にOKをもらえたようで、アレンは手招きをされて入室した。
部屋に入ると、そこには車椅子に座った1人の老婆がいた。
とても上品に年を重ねた印象があり、完全に白くなった髪を一つに結んでいる。
「まあ、本当に大きいのね」
老婆はアレンを見て笑う。
ロッテも年を取ったらこんな風になるのだろうか。
呑気に、そんなことを考えてしまう。
「では、取材の準備に移らせていただきます」
エレナはバッグからいろいろな道具を取り出した。
準備をしながら、アレンにそっと耳打ちをする。
「何を聞いても、耳を塞ぐな」
「何を見ても、目を逸らすな」
押し殺した声で、そう言われた。
レコーダーのスイッチを入れ、取材が始まる。
「では、始めさせていただきますね」
「もしご気分がお悪くなられましたら、すぐに中止しますので」
「はいはい、大丈夫ですよ」
ハンナは、ただの優しい老婆に見えた。
これからどんな話が始まるのか、アレンには見当もつかなかった。
「まず…あなたがツォーにいたころのことを話していただけますか?」
「何でも構いません」
「思いつくままで結構です」
エレナが言う。
「そうねえ」
ハンナは車椅子の上で片肘をついて考えている。
「あれは、12歳のころだったと思うわ」
「保健所にいたわたしは、ある日ツォーに連れていかれたの」
「そこがどんな場所なのか、わたしは何も教えてもらえなかった」
「ただ、そこに行けば毎日美しいドレスが着られると言われたの」
「食事も、お腹いっぱい食べられるって」
「10歳程度の子どもにとって、それ以上のことは必要なかったのね」
「わたし、すごくワクワクしていたの…」
エレナは、時おりノートにペンを走らせている。
ハンナは続けた。
「聞いていた通り、美しいドレスを着せてもらったの」
「色は白で…そう、裾がふんわりとした」
老婆は、手で形を作ってみた。
「ドレスは嬉しかったけど、その日の食事はとても粗末なものでがっかりしたわ」
「わたしがふくれていると、黒いスーツを着た獣が言ったのよ」
「腹をパンパンにしたら、後の掃除が困るからなって」
「そのときは、その言葉の意味が分からなかった…」
「夜になって、わたしは眠くてベッドに行きたかったの」
「例のスーツの獣は、わたしを部屋に案内してくれた」
「そこには柔らかなベッドはなくて、薄い敷物が敷かれた何もない部屋だった」
「そうね…牢屋みたいな」
「そんな場所で寝かされるなんてショックだったけど、ただ寝るだけならずっとましだったわね」
ハンナは一度、水を飲んだ。
「横になってうとうとしていたら、いきなり足を押さえられて」
「訳も分からないうちに、お尻に強い痛みを感じたわ」
「それは、ツォーに来た少女の最初の試練なの」
「刺青で、番号を入れるのよ」
ハンナは、自分のお尻の辺りを指して見せる。
「ちょうど、脚の付け根の辺りね」
「わたしの番号は、06だったわ」
「初めてのことで痛くて泣いていたら、ドアが開いて呼ばれたの」
「6番、指名されたぞってね」
ふっと微笑んで、ハンナはエレナを見た。
エレナは真剣な顔で、彼女の話に耳を傾けている。
「それから別の部屋に移されて…」
「それで…」
ハンナは、言葉に詰まっている。
「辛いなら、お話しにならなくてもいいですよ」
「大丈夫、大丈夫よ」
ハンナは何度か深呼吸をして、やっと続きを話し始めた。
「それで、そこで初めてお客と対面したの」
「大きな体の、太ったイノシシだったわ」
まるで目の前にその獣がいるかのように、ハンナに視線は上向きになっている。
そこから始まる物語は、アレンの想像していたどんなものとも違っていた。




