ツォー2/戻らないハンス
電話の後すぐに、アレンは本屋を訪ねた。
ベアンハルトには、昨日ケンカをしてしまったとだけ伝えた。
あの様子からして、彼女が過去にツォーにいたというのはおそらく事実だろう。
ベアンハルトがそれをどこまで知っているか分からなかったので、あえて言うことはしないでおこうと思ったからであった。
「さっき電話でも言ったけど、彼女はハンスと暮らした森の家に帰りたいと言っていた」
「僕は、きみと何かあったのかと彼女に聞いたんだ」
「そのことについて、ロッテは何も言ってくれなかった」
「ただ声を震わせて、うちに帰りたいと言っていた…」
ベアンハルトの静かな言葉に、アレンの胸は余計に締め付けられた。
「それで…ロッテは?」
ようやく言葉を絞り出すと、大きなグリズリーは頭を横に振った。
「どこに行ってしまったのか、分からないんだよ」
「今日はうちにも来ていないし…」
「そうですか…」
2匹とも黙っていたが、ふとベアンハルトが口を開いた。
「彼女が向かったとしたら、きっと前のうちだと思うんだ」
「ただ、僕は正確な場所を教えなかったから、たどり着けているかは分からない」
「アレンくん、前にきみに言ったよね?」
「え?」
「きみは、ロッテにとっての大きな存在になると」
「え、ええ」
「ああ言ったのには、実は理由がある」
ベアンハルトは、がっくりと肩を落とした。
*****
奇跡だと彼女は思った。
過去の記憶を頼りにして、ロッテはかつて暮らした森に近付きつつあることを実感していた。
歩き通しで足がガクガクと震える。
「確か、ここにベアンハルトさんの車が止まっていて…」
彼女はグリズリーに引き取られた晩のことを思い出す。
ということは、この斜面の上が小屋の方向になる。
そう思い、道に面した斜面をのぼり始めた。
途中何度も転んで、膝は泥だらけになってしまった。
斜面が終わっても、森の小屋までは緩やかな登りが続く。
ロッテは息を切らして歩み続けた。
その途中、ピックアップトラックに乗った老犬とすれ違った。
汚れたトラックに乗った老犬は、速度を落としてロッテのことをじろじろと見た。
「あんた、どこへ行くのかね」
「人間が、どうしてこんな辺鄙な場所に来るんだい」
そう言いながらも、品定めをするように彼女を見ている。
「わたし…上のほうにある小屋に行きたくて」
「小屋…?ああ、あの変わり者のオオカミがいた小屋かい?」
老犬の言う変わり者のオオカミとは、ハンスのことに違いなかった。
「彼を知っているの?」
「別に知り合いじゃあない」
「あのオオカミが小屋を建てるときに、ちょっと車を貸してやっただけさ」
「あんたは、あの小屋に行ってどうしようというんだね」
ロッテは、たとえハンスがいなくても1人でそこに住むつもりだった。
そして、彼の帰りを待つつもりでいた。
ハンスを思い出すと、アレンのことも思い出さずにはいられなかった。
わたしは、何も言わずに彼の所から逃げてきてしまった。
だけど、もうああするより他に方法はなかったのだから仕方がない。
彼と楽しい時間を過ごしたことは、また別の傷となって心に残りそうだった。
その傷も、ここでの生活と、いつか戻ってくるハンスが癒してくれるだろう。
その考えは、甘かった。
*****
「ハンスはね、もう帰ってこないんです」
「え?」
ベアンハルトはそう言うと、目にうっすら涙を浮かべた。
「病気が、もう手の付けられないほどに進行していて…」
「僕がロッテを引き取った翌週に、病院で亡くなったんです…」
「そんな…」
アレンは何も言えなかった。
ロッテはどうなる?
ハンスの帰りを待っているロッテは、一体どうなる?
「ロッテはそのことを知ってるんですか?」
「いいえ…」
「昨日も、結局言えなかったんですよ」
血の気が引くという感覚を、アレンは身にしみて感じた。
ロッテは、今もハンスが生きていると信じている。
信じて、かつて住んだ森で待とうというのか。
永遠に帰ってこないその獣を、じっと待とうというのだろうか。
「アレンくん!」
「お願いします、ロッテを助けてあげてください」
「俺が…?」
「それができるのは、もうきみしかいないんです」
「僕じゃあ、ダメなんです」
ベアンハルトは大きな体を曲げて頼んだが、アレンには分からなかった。
彼女がいなくなった原因を作った自分に、それができるだろうか…。
*****
「え?今何て…」
ロッテには、老犬の言葉がにわかには信じられなかった。
彼はもう年老いているし、もうろくして訳の分からないことを言っているのだと思いたかった。
「だからな、あのオオカミはもう死んじまったって言ったのさ」
「何年か前だったかな」
「近くの街の病院でな」
「わしの仕事仲間が噂しとったよ」
ハンスが死んだ?
悪い冗談にしか聞こえない…。
ロッテとしばらく話した後、老犬はちらりと腕時計に目をやって言った。
「まあどこへ行こうがあんたの自由だが、面倒は起こさんでくれよ」
汚れたトラックは、黒い排ガスを残して走り去った。
ロッテは、空っぽになってしまった。
ハンスが死んだ。
一歩踏みしめるごとに、同じ考えが頭を巡る。
彼はもう、どこにもいない。
帰ってこない。
あの日、ツォーからわたしを救ってくれたハンスは、もういない。
もう二度と、わたしの元に帰ってはこない。
ハンスは、死んだ!!
心から思いが溢れ、ロッテは走り出した。
走ることで、苦しさから逃れたかった。
ぜえぜえと喘ぎながら、ロッテはようやくかつての家にたどり着いた。
森の奥に建てられた小さな小屋。
ここは、ロッテのすべてを肯定してくれた場所だった。
ずっと放置してあったらしい小屋は、雨風にさらされてみすぼらしくなっていた。
鍵は壊されていた。
扉には取っ手もなかったが、引けば簡単に開いた。
ギィーッとドアがきしみ、暗い室内が現れる。
小屋の中もずいぶん荒らされていた。
棚という棚は開けられ、ガラスも割られていた。
テーブルこそまだそこにあったが、椅子は脚が腐って転がっている。
部屋中に埃臭さが充満し、蜘蛛の巣があちこちに張られていた。
ハンスがいってしまったように、ここでの幸せな時間もどこかへ行ってしまったようだった。
ロッテは部屋に入り、扉を閉めた。
外では、ぽつぽつと雨が降り出してきた。
稲光が射し、束の間部屋を明るく照らす。
ロッテは床に這いつくばって、そこに何度も拳を打ち付けた。
そして、喉の奥から絞り出すような大声を上げた。




