ベアンハルト/クマの本屋さん
Bernhardt
ベアンハルト
ある晴れた日のことだった。
非番でその日何も予定がなかったアレンは、暇を持て余していた。
ロッテは仕事に行っている。
仕事に…。
ふと思い付く。
その日の午後、薄い上着を羽織ったアレンはアパートから2つ先の駅で降りた。
そこから歩いて5分程度の場所に、ロッテの職場がある。
以前そう教えられて、一度遊びに来たらと言われていたのを思い出したのだった。
彼女は、本屋で働いていた。
『ベーレンフンガー』という、妙な名前の本屋であった。
ベーレンフンガーとは、ものすごく腹が減っているという意味である。
まったく、妙な名前だと思った。
本屋に着いても、アレンはすぐには入っていけなかった。
ガラス越しに店内を見ていると、そこにロッテの姿があった。
彼女は店のユニフォームを着て、あちこち動き回っている。
本の陳列、お客への対応、レジ打ちなど。
忙しそうではあったが、彼女は充実した様子だった。
同居人のそういう姿を見るのは、ちょっと新鮮な感じがして好ましく感じられた。
彼は、店の外からロッテを観察し続ける。
そのときだった。
すっと影が差したかと思ったら、アレンの背後に大きな体があった。
ずんぐりとしたそれは、とてつもなく大きなクマだった。
「あのぅ…あなたはお客様ですか?」
のっそりした体に似つかわしい声で、そのクマは尋ねた。
「あー、あの、えーと…」
アレンは、突然のことでうまく答えられない。
彼は、自分より大きな獣と対面する機会があまりなかった。
恐ろしいと感じたわけではなかったが、面食らってしまう。
「一体、何を見ていたんです?」
クマはなおも聞く。
「まさか、あの女の子ですか?」
「あんなにじっと見つめて、どうしようっていうんです?」
「店から出たところを引っかけて、どうにかしようっていうんですか?」
クマはゆっくりとだが、こちらに有無を言わせない話し方をする。
「いけませんねぇ、そんなことはいけません」
クマはのっそりと一歩、アレンの方に近付いた。
その大きな手が、彼の首元にかかる。
「あの子に手を出したら…」
今にも襟首をつかまれて、そのまま持ち上げられそうになる。
「ベアンハルトさん!」
「今、中でお客さんが…」
クマを呼びに、店からロッテが顔を出した。
「え?アレンなの?」
大きなクマに首を絞められそうな格好になっているオオカミを認め、ロッテは驚いたようだった。
その驚きは、ベアンハルトと呼ばれたクマにも伝染したようである。
彼は真顔のままアレンを見て、あれれ?という顔をしていた。
*****
「いやぁ、本当にごめんなさい!」
ロッテからアレンの正体を聞いたベアンハルトは、大きな体を縮こませて謝った。
ここの店長である彼は、つぶらな瞳を持つ大きなグリズリーだった。
「きみがずっとロッテを見ていたものだから、何かよからぬことを考えているのかと思って…」
「脅すような真似をして、申し訳なかった」
大きな体を揺らして、ベアンハルトは言った。
ロッテをずっと見ていたことが軽くカミングアウトされ、アレンは少し居心地が悪くなった。
「ゆっくりしていってくださいねぇ」
そう言って、ベアンハルトはのっしのっしと奥へと消えた。
「あー、びっくりした」
かけた椅子からずり落ちそうになっているアレンがそう言うと、ロッテがおかしそうに笑った。
早とちりの店主も変わっていたが、店内にも変わった趣向が凝らされていた。
ベーレンフンガーの室内には、本物の芝生がある。
客はそこで気ままに寝転がり、飲み物を飲みながら読書できるらしい。
そんな説明をロッテから聞いていると、奥からのっしのっしとベアンハルトが現れた。
「これ、よかったらどうぞ」
「さっきのお詫びに」
そう言って出されたのは、クリームがこんもりと乗ったフラペチーノだった。
クリームには、ご丁寧にチョコレートシロップまでかかっている。
厚意は嬉しかったが、アレンは過度に甘いものは苦手だった。
それでも一応お礼を言って受け取った。
「用事があれば呼ぶから、彼とお喋りでもしててよ」
そう言って、グリズリーの店主はまたのっしのっしと消えていった。
後には、アレンとロッテとクリーム付きのフラペチーノが残された。
「面白いよね、ベアンハルトさんて」
彼がいなくなったのを見て、ロッテが笑って言った。
アレンは甘すぎるフラペチーノに苦戦しつつも、ここがロッテにとって居心地のいい場所らしいことは理解できた。
人間の社会的地位は今も低い。
彼らの多くは死ぬまで保健所の厄介になるか、低い賃金でこき使われるかがほとんどだという。
獣の社会で仕事はできても、オスなら肉体労働、メスなら水商売が関の山。
雇い主から精神的肉体的な暴力を受け、職を手放して再び保健所に戻る者も少なくないらしい。
そこへきてロッテは、ごく普通に本屋で働いている。
給料も多くはないだろうが、生活に困窮するほど少ないわけではない。
あのグリズリーは、見た目よりずっとできた獣らしい。
「仕事は楽しい?」
アレンは、芝生に手を触れながら聞いてみた。
「うん」
「人間がこんなまっとうな仕事に就けるなんて驚きよね」
「ベアンハルトさんも、とっても親切にしてくれるし」
「彼はわたしの…」
そう言いかけたとき、店の売り場でロッテを呼ぶベアンハルトの声がした。
「ごめん、行かなくちゃ」
「来てくれてありがとう」
ロッテはそう言って、声のほうへ走っていった。
フラペチーノは、何とか2/3は片付けることができた。
今日はもう何も食べたくないくらい、満腹になったな…。
そこへ、今度はベアンハルトがやってくる。
彼はよっこいしょと言って、芝生に腰を下ろした。
「どうですか?楽しんでくれていますか?」
アレンの手元にあった本を見て、彼は聞いた。
「はい、そうさせてもらっています」
それはお世辞ではなく、実際にこの店の雰囲気が好きになりかけていた。
「ふんふん」
「それはよかったです」
ベアンハルトは、満足したように独り言ちた。
店の売り場では、ロッテが動き回っているのが見える。
ここに来る客は、少なくともアレンの見る限りはロッテを対等に扱っている気がした。
店主の姿勢が、客にも伝わるのだろうか。
「今さらなんですが、きみはロッテのルームメイトのアレンくんですか?」
「え?はい、そうですけど…」
「あぁ、きみだったんだね」
「いつも、ロッテを大切にしてくれる獣というのは…」
他の獣からそんな風に言われて、アレンは少し照れてしまった。
「彼女はね、よくきみの話をしていますよ」
「とても楽しそうに」
「そうなんですか…」
「きみは、ロッテが好きですね?」
突然そう言われて、どう答えたものか迷った。
ロッテは、自分たちの関係についてどこまで話しているのだろうか。
「別に隠すことじゃありません」
「誰かが誰かを好きになるのは、素晴らしいことですから」
「特にあの子、ロッテはとてもいい子ですよ」
「はい…」
ベアンハルトの話す独特のリズムは、アレンの耳に心地よく響いている。
「あの子はね、僕の古い知り合いが託したんです」
「聞いていますか?」
「彼女は、きみのようなオオカミと暮らしていた」
その話は、確かに聞いたことがあった。
ロッテは、自分の養父はオオカミなんだと言っていた。
だから、同じオオカミであるアレンのことも怖くはないのだとも。
「ええ、そう聞いています」
「ここへ来たころの彼女は、もっとずっと酷かった」
「彼女はずっと、ハンスの元へ帰りたいと言っていた」
「ハンスというのが、知り合いの名前です」
「彼は、親友だった」
ロッテの養父、ハンス。
彼は一体、どのようなオオカミだったのだろう。
そして今、彼はどこにいるのだろうか。
「ハンスは、あるときどこからかロッテを連れてきた」
「ひどい場所で暮らしていたんだと、彼は言っていました」
「ハンスがなぜ人間の女の子を引き取ったのか、僕には分かりませんでした」
「そのわけを、彼から聞いたことはありません」
「ただ彼は、自分が彼女の傍にいてやれなくなったときには、代わりに面倒を見てくれるよう僕に頼んだんです」
「それで、彼女はここへやってきた」
「最初は大変でしたよ」
「何せほら、僕はこんなに大きいでしょう?」
「ロッテが怖がってね…」
ベアンハルトはそのときのことを思い出しているのか、どこか遠くを見ていた。
「ハンスは、病気だったんです」
「重い病気…それで、ロッテの元にいられなくなってしまった」
場の空気が、ずっしりと質量を増したように思えた。
「ロッテには、そのことを伝えていません」
「彼女は、今もずっと信じています」
「いつかハンスが迎えに来てくれて、また森の中で静かに暮らすことを」
いつかまた、森で静かに暮らす。
その言葉は、アレンの胸をちくりと刺した。
養父のハンスがロッテを迎えにきたら、彼女は行ってしまうのだろうか。
そのとき、俺はどうなるだろう。
彼女は、俺とハンスとを天秤にかけてくれるだろうか…。
ロッテの養父にどこか嫉妬のような気持ちを感じ、アレンは慌ててその考えを振り払った。
「でもね、僕は嬉しいんですよ」
「ハンスとどこか似たきみが、ロッテを好きになってくれたことが」
「きみは、きっと彼女にとっての大きな存在となります」
「この先、何があったとしても…」
正直なところ、アレンには分からなかった。
このグリズリーは、なぜ自分にこんな話をするのだろうか。
ハンスが迎えにきたら、彼女は行ってしまうかもしれないのに。
ルームメイト以上の関係になったとはいえ、自分はロッテにとってそこまでの存在だろうか。
「古本の仕分け終わりましたよ」
「新刊のほうは並べてしまいますか?」
ちょうど話の終わったころ、ロッテが顔を出してベアンハルトに聞いた。
「そっちはまた今度でいいです」
「ロッテ、今日はもう帰ってくれていいですよ」
「彼ももう帰るでしょうから、一緒にお帰りなさい」
「ねぇ、アレンくん」
そう言われて、アレンはふと窓の外を見た。
日は既に傾き、薄暗くなっていた。
ベアンハルトは気を遣ってくれたのか、ロッテを早上がりさせてくれた。
アレンが店の前で待っていると、着替えたロッテが出てくる。
「お待たせ」
ベアンハルトも、見送りに出てきてくれた。
「今日はごちそうさまでした」
「またゆっくり来ます」
店の雰囲気はとても気に入ったので、次はブラックコーヒーをお供に本を読みたい。
アレンはそう思っていた。
「ええ、待っていますよ」
ベアンハルトも嬉しそうに言った。
そこで別れるはずだったのだが、最後にアレンは手招きをされる。
「何ですか?」
クマの店長に近寄ると、彼は身を少し屈めてアレンの耳に囁いた。
「あのですねぇ、とっても言いにくいんですけど」
「はい?」
「ロッテの首筋にですね、たまーにキスマークが付いていますよね」
「たまーにですけど」
その言葉を聞いて、アレンは顔が爆発した。
「見えにくいところではあるんですけど、まぁ、見えちゃうときもあるんですよ」
「僕もオスなんで気持ちは分かります」
「よく、奥さんと付き合ってたころに怒られましたから…」
「でも、ついつい付けたくなっちゃうんですよねぇ、キスマークって」
アレンは硬直しているが、ベアンハルトはなおも続ける。
「まぁ何が言いたいかというとですね、やっぱりあんまり見えないほうがいいと思うんですよ」
「ロッテの評判にもつながってしまいますし」
「そこんとこ、お願いしたいと思います」
「まぁ、僕みたいなオジサンに言われたくはないでしょうけど…」
それだけ言うと彼はアレンをロッテのほうに押しやり、大きな手でバイバイをした。
「あ、はい…以後気を付けます…」
アレンは、そう言うのが精一杯だった。
「ベアンハルトさん、また明日!」
ロッテが彼に手を振っている。
歩き出したロッテは、何気なくアレンに聞いた。
「ねえ、さっき何の話をしてたの?」
「んー?」
答えをはぐらかしながら、彼はロッテの首筋を見た。
いつのものか分からないが、微妙な位置にうっすらとキスマークが残っている気がする。
「何?秘密の話なの?」
「うんうん、そう」
「オス同士の秘密の話」
アレンはそれだけ言うと、両手を頭の後ろで組んだ。
今晩は、さすがに気を付けようと思った。




