シャテン/シャーロットとロッテ
Schatten
影
わたしは、いつもどこかで不安だった。
この街に来てからずっとそうだった。
森でハンスと暮らしていたころは、そんな気持ちにはならなかった。
そこにはわたしとハンスしかいなかったし、誰もわたしに注目したりしなかった。
でもここは違う。
いつもどこに行っても、必ず誰かがわたしを見ている。
あるときは蔑むような目で、あるときは憎しみのこもったような目で。
その視線は、いつもわたしの傍らにあった。
物心ついたときから、ずっとそうだった。
わたしにとってこの部屋は、どこか避難所のようなものだった。
ここでは、ハンスと暮らした森のような空気が流れている。
アレンは、決してわたしを否定しない。
彼のまなざしは、わたしが生きることを肯定してくれているようにも感じる。
きみは、ここにいていいんだよ。
ありのままの、きみが好きだよ。
彼に言われたことを思い出すと、ふと頬が緩むのを感じてしまう。
わたしは、アレンのことが好きだ。
彼に求められるのは嬉しいし、わたしもそれに応えたいと思っている。
そんな心と裏腹に、体は厳密な境界線をわたしに守らせる。
どんなに夢心地の中にあっても、細胞のひとつひとつが警告を始める。
これ以上は、迎え入れてはいけない。
その体に、獣を受け入れてはならない…。
わたしは、悲しくなる。
*****
「ねえ、あなたの名前は何ていうの?」
暗い石造りの牢屋のような場所。
薄い敷物の上で、少女は目を覚ました。
隣では、同じ年頃の女の子が彼女に微笑みかけている。
彼女は、少女と同じ金色の髪をしていた。
「21番…」
「そうじゃなくて、本当の名前」
「もしかして、名前はないの?」
名前…。
ここに来る前、わたしは何て名前だっけ…。
しばらく考えて、少女はやっと思い出す。
ここでは、名前は必要なかった。
必要なのは、下半身に彫られた刺青の番号だけだった。
「ロッテ」
「本当!?わたしもなの!」
ロッテと同じ金髪の少女は嬉しそうに、しかし声を抑えて言った。
「わたしもそうなの」
「わたしは、本当はシャーロットっていうのよ」
「短く言うと、わたしもロッテなの」
シャーロットのロッテと、ただのロッテ。
2人はすぐに仲良くなった。
あちこちから集められた少女たち。
しかしその向かう先は同じだった。
少女たちは番号を与えられ、美しい純白のドレスでその傷だらけの体を隠す。
ドレスから見える場所を傷つけてはならない。
それが【ツォー】が客に課したルールであった。
彼女たちは毎晩、【ラウム】と呼ばれる石の牢屋に陳列される。
客たちは外から彼女たちを品定めし、気に入った子を買うのだった。
そして今宵も、蹂躙が始まる。
2人のロッテが知り合って、しばらく経ったある晩だった。
珍しく、彼女たちは2人とも【ラウム】に留まっていた。
指名が付かなければよくあることだが、2人は共に客受けがよかった。
肌が白く美しい金髪の少女たちは、獣たちの狂った欲情を誘うらしかった。
「…ねえ、ロッテはどうする?」
「もし、ここを出られたら」
シャーロットは、床の冷たさに時々腰を浮かしながらそう言った。
どこかの部屋で、少女が吼えるように悲鳴を上げているのが【ラウム】まで聞こえる。
ロッテは、そんなことにはもう慣れてしまっていた。
思考をかき乱されることなく、シャーロットの問いに答える。
「考えたこともなかった、そんなこと」
それは正しかった。
番号を持つ少女たちに、考える必要はなかった。
「シャーロットは?」
「そうね…わたしは…勉強がしてみたい」
「わたし、保健所にいたころはたくさん本を読んだのよ」
「あの頃は、今思えば楽しかった…」
そう言ったきり、シャーロットは黙り込んでしまった。
扉が開いて、逆光の中からシャーロットが呼ばれる。
「ご指名だ、19番」
彼女は恐れることなく、部屋から出て行った。
それきりだった。
翌日になっても、シャーロットは帰ってこなかった。
その日指名のなかったロッテは、ずっと待機部屋で過ごしていた。
【ツォー】が閉園になっても、もう1人のロッテは帰ってこなかった。
昼過ぎ、ロッテは他の少女と呼び出されて客室の掃除をさせられた。
こういうことはよくあることで、血液や排泄物、そのほかよく分からないものを片付けさせられる。
ロッテは心に蓋をした。
こうすれば、何も感じないし何にも驚かない…。
デッキブラシを渡され、水のまかれた部屋を掃除する。
ここでとんでもないことがあったらしいことは、その様子を見れば何となく分かる。
この出血量では、お客の相手をした子は生きてはいないだろう。
血で赤く染まった水をブラシで排水溝に流し込んでいるとき、ふと、部屋の隅に何かあるのが目に入る。
くしゃくしゃに丸まった、糸くずの塊のようなもの。
指でつまみ上げると、それは髪の毛だった。
髪の束の先には、生っぽい頭皮が残っている。
その髪色に、ロッテは覚えがあった。
*****
体を強張らせて、ロッテは目を見開いた。
見慣れた天井が、その目に映る。
体中に嫌な汗をかいている。
やっと寝返りを打つと、隣ではアレンが眠っている。
少し体を曲げて寝るのは、彼の癖だった。
彼を起こさないように、ロッテはゆっくりと体を起こした。
「シャーロット…」
口に出して呟いてみる。
【ツォー】の夢を見るなんて、ずいぶん久しぶりのことだった。
胸に手を当てて呼吸を整えていると、胃袋の中身がぐるんと混ざるような感覚がした。
強い吐き気を感じて、ロッテは慌ててバスルームに駆け込む。
トイレに覆いかぶさるようにして、嘔吐した。
吐くのは苦しかった。
どうせ苦しいのなら、いっそ過去の記憶も吐き出せたらいいのにと思った。
ようやくおさまり、水道で口をゆすいでバスルームを出る。
そのままアレンの隣に戻る気にはなれなくて、ロッテはキッチンに向かった。
流しの電気だけをつけ、何をするわけでもなく床に座り込んだ。
どうしてだろう。
どうしてこんなに動揺しているのだろう。
ロッテは自問した。
【ツォー】にいたころは、自分の身に起こることも他人の身に起こることも、こんな風には感じなかったはずだった。
ロッテは思った。
それはきっと、自分が今は日の当たる場所にいるせいだ。
薄明りしか射さないあの場所では、何を見ても心は乱れない。
影は影の中にあっては、その輪郭をうまく見て取れないものである。
強い光の元にいてこそ、その影の濃さがよく分かる。
そういうことだと思った。
その光をわたしに当ててくれるのは、間違いなくアレンだろう。
温かな光をもっと浴びていたいと思うのに、心はその影のほうに引き寄せられている。
後ろに伸びる、闇のような影を見ている。
わたしもいつかは、影を振り返らずに済むようになるだろうか。
「ロッテ?」
不意に声がして、ロッテははっとした。
アレンがすぐ傍に立っていた。
「どうかした?」
寝起きの声で、ロッテに問いかける。
「ううん、何でもない」
「ちょっと目が覚めて…」
それ以上のことを、彼女は言うことができなかった。
アレンは、ロッテが話したくないことは聞き出そうとしたりはしない。
その代わり、いつもただそっと寄り添ってくれる。
今回も、ロッテの隣に静かに腰を下ろした。
彼も何も言わずにただ座っている。
「アレン、あのね…」
「うん」
「わたし…」
「わたし、泣けないの」
「ん?」
「涙を流して泣くことができなくなっちゃったの」
「今も本当はすごく泣きたい」
「でも、どうしてもできないの」
「悲しいのに、苦しいのに…」
ロッテは抱えた膝の間に顔を埋めた。
彼は、何も言わなかった。
そっと伸ばしたその大きな手で、ロッテの首から背中を撫でている。
わたしを見て、アレン。
汚れきって、雑巾のようにぼろぼろになったこの体を見て。
言えない言葉は、流れない涙と共に胸の中に詰まってしまっている。
しばらくして、アレンがやっと口を開いた。
「このままじゃ体が冷えるよ」
「どうする?自分の部屋で寝たい?」
「それとも、こっちで寝る?」
そう言いながらも、彼女を撫でる手は止まらない。
「アレンの、隣で寝たい」
顔を上げて、ロッテはようやくそう言った。
ベッドに入っても、ロッテはアレンのいる方を向けなかった。
取り乱してしまった気がして、何だか恥ずかしかった。
彼はそんなロッテを後ろから抱いて、横になっている。
ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば…冷蔵庫に卵はあった?」
「何?急に」
「明日の朝食に、オムレツを食べたい」
「どうして?」
ロッテが聞くと、アレンは少し間を置いて答えた。
「実はさっき、夢を見たんだ」
「大きなオムレツに追いかけられる夢」
「何それ」
さすがにおかしかった。
ロッテは、アレンの腕の中で体を揺らした。
「しかもそのオムレツっていうのが、昔嫌いだったグリーンピース入りのやつでさ」
「豆は体にいいからって、うちの母親がよく作ったんだけど」
「これがまあ、俺は嫌いだったんだ」
「それが、猛スピードで追いかけてくるんだよ」
「悪夢だろ」
わざと真剣な声を作って、アレンは話して聞かせる。
「それで何となく、オムレツが食べたくなった」
「だから明日、オムレツを食べよう」
「もちろん、グリーンピース抜きのね」
そう言って、アレンはロッテを抱き締めた。
背中に感じる彼のぬくもりが、だんだんと体中に広がってくる。
わたしがさっき見た夢は、そのぬくもりの中に溶けていく。
今度はわたしも、オムレツに追いかけられる夢を見たい…。
まどろみは、やがて深い眠りになった。




