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ブリンゲ ミッヒ ウム/真夜中のうわ言

Bringe mich um!


わたしを殺して

「おい、フローリアン」

「見てみろ、アルが変だぞ」


社員食堂でチャドからそう言われ、フローリアンはランチのトレーを持ったまま同僚のオオカミを見ていた。

彼は、やはり今日もカレーライスを食べている。

真面目な顔をして食事をしているアレンは、まったくいつもと同じに見えた。


「何が変なの?いつも通りじゃない?」

アレンの向かい、チャドの隣に腰を下ろしてフローリアンは言う。


「待て待て」

「ちょっと10秒くらい見ててみろ」

「はあ?」

彼はいぶかしがったが、チャドに言われるまましばらくアレンを観察した。


言われてみれば、アレンはいつもと少し違う感じもする。

何が違うかとはっきりとは言えないが、いつもよりキリッと凛々しい顔つきのような気がした。

その顔を、フローリアンはしばし見つめた。


見ようによっては不機嫌さを感じる顔のまま、アレンはカレーライスを頬張っている。

もぐもぐもぐと何度か口を動かしているうちに、その表情に変化が生じた。

張り詰めていたような表情がだんだんと緩み、目尻が心持ち下がってくる。

口の端には、笑みさえも浮かんでいるようだった。


「な?な?」

「何かおかしくねえ?」

チャドに同意を求められ、フローリアンは確かにそうだと思った。


「何を怒ったり笑ったりしてんだよ、なあ、アル」

「キャラが崩壊してんぞ」

チャドもランチを食べながら言う。

「別に、怒ってなんかいない」

ぶっきらぼうにアレンは答えた。


ふと、フローリアンには思い出すことがあった。

それは、高校のとき。

取り立てたエピソードではないが、彼はよく、何か嬉しいことがあったときにこういう顔をしてたような…。


「何かいいことあった?」

フローリアンの質問に、アレンはスプーンを音を立ててトレーに落とした。


「アルって、そういうとこあったよね」

「嬉しいことがあるのを気取られたくなくて、わざと難しい顔するの」

「でも、嬉しさが顔からにじみ出てしまう」

「チャド、これはそういう顔だよ」


フローリアンの解説を、チャドはふんふんと聞いている。

アレンは、余計なことを言うなという顔をして黙っている。


「もしかして、ロッテと?」

アレンは、取り上げたスプーンを再び落っことすところだった。

「何だよ、ロッテと何だって!?」

チャドは、聞き捨てならないという顔をしている。


「きみたちの関係が、前に進んだ」

「違う?」

さすがはイケパカの名は伊達じゃない。

アレンはフローリアンの洞察力に恐れ入る。


「よし、今夜は飲みだな!」

「そこらへん、ゆっくり聞かせてもらう!」

どういうわけか、チャドが妙に張り切って宣言した。


*****


「何だよ、俺は早く帰りたいんだけど」

仕事を終えた3匹は、会社近くの立ち飲みバーに流れ込んだ。


「いいから吐け、そうしたら解放してやる!」

チャドは、主導権を握った顔でそう言う。

「ロッテとどうなったのか、それはぼくも興味があるなあ」

フローリアンもニコニコして、アレンアレンが話すのを待っている。


実際、彼は早くうちに帰りたかった。

ドアを開けて、ロッテの顔を見たかったのだ。

ため息を吐き、さっさと終わらせて帰ろうと思った。


「先週の土曜日」

「うんうん」

「ロッテと、キスした…」

「えーーー!マジかよ!」

「やるねえ、アル!」

2匹の驚きようはそれぞれだった。


「じゃあそういうことだから、俺は帰る」

そう言って、アレンはビールを一気にあおってその瓶をテーブルに置いた。


「バカタレ、こっからが本番だろうが」

それを、チャドが引き止める。

「で?で?」

「で?って何が」

「ったく要領を得ねえ!その後、キスの後どうしたんだよ!?」

「どうって…」

「どうだった?よかった?」

チャドは子どものように目を輝かせて、前のめりになっている。


「どうも、してない」

「そのまま寝たよ」

「別々の部屋で」


2匹は、真顔でぽかーんとしていた。

それは、アレンが予想していた反応とさほど変わりはなかった。


「アル…おまえ…どっか悪いの?」

病人に話しかけるような言い方で、チャドが尋ねた。

「いい泌尿器科紹介しようか?」

「そういうんじゃないって!」


「チャドの話はさておき…」

さておくんじゃねえ!と言うチャドを遮り、フローリアンが聞いた。

「キスしかしなかったって…どういう状況だったのかぼくも気になるな」

「…」

アレンは面倒に思いながらも、2匹にこれまでの話をかいつまんで聞かせた。


「なるほどねえ…」

「何だか、なかなか一筋縄ではいかない仲だね」

その手のことに経験豊富なフローリアンは、アレンの話を聞いてしみじみと言った。


「でも、付き合うことにはなったんだ?」

「よかったね、きみたちお似合いだと思うよ」

友達にそう言われ、アレンは嬉しかった。


「そうは言うけどよー」

「実際大変じゃねえ?」

「いっつもお預けを食らうってのは」

チャドらしい意見だった。

その点は、アレンにも思うところがある。


「そりゃまあ、そうなんだけど」

「でも今は、それでいいと思ってる」

「彼女がそう望むなら、無理強いはしたくないし」

それは、彼の素直な気持ちだった。

今はただ、ロッテが傍にいてくれるのが嬉しい。


「キスはOKなんだ?」

「うん、一応ね」

2匹がそんな話をしている中、チャドは黙ってビールを飲んでいる。

「どうしたの、チャド?」

「もうヤキモチは止めてあげなよ?」

「そんなんじゃねえって」

チャドは、何か考えてる様子であった。


「何だよ、チャド」

アレンが聞くと、チャドはややあって口を開いた。


「いやーさ、キスだけOKってのも、案外辛いんじゃないかって思ってよ…」

「だって、そっから盛り上がってくるわけじゃん?」

「よく我慢できるよな」

「オレは無理だわ」

「…」


チャドの言うことは、かなり的を得ている。

キスをして、その先を我慢できるか?

事実それは、アレンにとっての課題でもあった。


*****


ロッテとの生活に、さしあたって大きな変化はなかった。

週のほとんどは、朝と夜しか顔を合わせない。


アレンが夜勤のときは、もっと接点が少なくなった。

夜勤明けには、やはり冷蔵庫にタッパーが用意してある。

つい今しがた作ったような、温かい料理が置いてあることもある。


彼女は相変わらずアレンの古着を着て絵を描いたし、夜勤明けのアレンは泥のように眠ることもある。

大きな変化は、さしてなかった。


彼とロッテの間に生じたその最も大きな変化、それはキスだった。

顔を合わせたときにするほんの軽いキスも、ただのルームメイトとの間には決して起こらなかったことだった。


週末の晩には、アレンのベッドで一緒に寝ることも多くなった。

これも、彼にとっては嬉しい変化のひとつであった。

そしてそれは同時に、悩みの原因にもなった。


週末の解放感も手伝って、寝る前のキスは深いものになることが多い。

体の関係を築けないぶん、ロッテへの気持ちのはけ口はここにしかなかった。

なるべく自制するように心しているが、つい、深追いしてしまうこともある。

先日もそうだった。


「アレン…ごめん、もう…」

あの晩のように言われて、アレンははっとする。

ベッドに横になるロッテに覆いかぶさるようになっていた彼は、慌てて体を起こした。


「いや、俺が悪かった」

「ごめん、本当に」

そう言うと立ち上がって、アレンはバスルームに向かう。

トイレで、頭と体を冷やすために。


想像していたよりずっと、ロッテとのこの関係は堪えた。

チャドの言うことは、珍しく当たっている。

いつまで自制が利くか、それは彼自身にも分からなかった。


いっそ、キスもしないほうがいいのではないだろうか。

それは、ロッテとも話したことだった。

彼女は、余計な刺激は避けたほうがいいのではないかと考えていた。


「アレンとキスするのは好きだけど…」

言いにくそうに、ロッテはそうとだけ言った。

キスはしても、その後は続けられない。


しかしアレンは、自分たちの関係をまったくプラトニックなものにする気はなかった。

我慢は、自分がしさえすればいいのだ。


ロッテとキスするのは好きだったし、こんな状態が長く続けば、彼女の中にも変化が表れるのではとも思っていた。

ロッテの境界線には、とても敏感なセンサーが付いているらしい。

キスに夢中になってそのまま…なんてことは、今の彼女には起こり得ないことだった。


「とっても気持ちのいい温度のお湯に、全身が浸かっているような感じ」

キスをしているときの感覚を、ロッテはそう説明したことがある。


「ずっとそうしていたいと思うんだけど、急に足元から冷たい水が湧き出してくるの」

「それは足からすーっと這い上がってきて、やがて全身が包まれてしまう…」

「そうなってしまうと、わたしはもうどうしようもないの」

その冷水がどこからやってくるものなのか、アレンには分からなかった。


*****


ある金曜日の深夜、その衝動は唐突に彼を襲った。


その日の夜、アレンとロッテはそれぞれの部屋で寝ることにした。

ロッテは一緒に寝たがったが、アレンは何か理由を付けてそれを断った。


自分が我慢すればいい。

その意思が保てるか、いよいよ怪しくなったと彼は感じていた。

一緒に寝てしまうと、彼女を傷つけてしまいそうで怖くなったからだった。


夜中にふと目が覚めた。

頭はなぜか、驚くほどにクリアだった。

布団を押しのけ、おもむろに立ち上がる。


彼の向かった先は、隣にあるロッテの部屋だった。

そっとドアを開けると、小さな間接照明がついている。

彼女は、1人で眠るときには決して暗闇にしなかった。


ぼんやりとした薄明りを頼りに、アレンはロッテのベッドに近付いた。

彼女は横を向いて、静かに寝息を立てていた。

彼がベッドの端に腰をかけたとき、マットが沈み込んでスプリングがきしんだ。

しかし、ロッテは起きなかった。


緩くひとつに縛った彼女の髪の毛は、ベッドの上に無造作に散らばっている。

アレンは、それを美しいと思った。

顔にかかった髪を、指でそっと払った。

そのまま、彼女の頬を撫でる。

その肌の柔らかな感触が、指を伝わってくる。


アレンはロッテに屈みこんで、彼女の匂いを嗅いだ。

いつも使っているシャンプーの香りに、彼女自身の匂いが混じっている。

それが、オスの神経をたまらなく刺激する。


キスができるなら、その先ができないわけないじゃないか。

彼女は確かに拒んだけれど、それは何も重大なことではない。

その背景にあることは、何も重苦しいことじゃないかもしれない。

彼女はただ恥ずかしくて、自分を寄せ付けないのではないだろうか。


アレンはそんなことを考えていた。

いつもの彼なら、決して考えないような自分よがりの考え方だった。

彼女が起きようが起きまいが、できるところまで試してみてもいい。

彼はそんな風にも思っていた。


横になっているロッテを包むように、アレンはベッドに両手を置いた。

そのまま腕を曲げれば、彼女に覆いかぶさる格好になる。

そんなことをすれば、彼女はさすがに起きるかもしれない。


ロッテは、泣いて拒むだろうか。

もう、分からない…。


アレンは、そっとロッテに顔を近付けた。

鼻先が、彼女の首筋に触れる。

ロッテは身じろぎをした。

その刹那、彼女の薄く開かれた唇から漏れた言葉が突き刺さる。


「ころ、して…」

「お願い、も…う…ころして…」


電気に打たれたように、アレンはロッテから身を引いた。

心臓がどくどくと鳴り始める。


殺してくれと言ったロッテの表情は苦し気だった。

その声が頭から離れない。


お願いと頼んだ後、彼女はもう何も言わなかったが、表情が和らぐことはない。

眉間に深い皺を寄せて、彼女は誰かに懇願している。

アレンは今まで生きてきて、誰かに自分を殺してほしいなどと思ったことは一度もなかった。


彼は、なおも苦痛に満ちたロッテの額に手を置いた。

「ごめん、ロッテ」

「ごめん…」

そう話しかけると、徐々にその表情が和らぐ。

ほっと落ち着いたように息を吐き、彼女は寝返りを打った。


*****


つい今しがたまで彼女に感じていた欲求は、すっかりどこかに消えてしまっていた。

手が震えている。

彼女に何もしなくて、本当によかったと思える。


本当のところ、あの寝言がどのような意味を持っていたのかは分からない。

ただ彼は漠然と、ロッテの背負う過去を垣間見た気がしていた。


クリスマス市で、ハイエナに怯えたロッテ。

殺してくれと、うわ言で訴えたロッテ。

あの華奢な体で、彼女はどれほどのものを抱え込んでいるのだろう。

彼女が自分に体を許せない理由に、とてもおぞましいものが隠れている気がした。


そして、それを分かってやれない自分が悲しかった。

彼女は何気ない顔をして、いつも苦しんでいるかもしれないのに。


その夜を境に、アレンは変わった。

今までより一段と、自制が利くようになった。

彼女を思うと、自分の欲求なんてすごくちっぽけなものに思えてならなかった。

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