ツム テアター/観劇と夜景とキスの夜
zum Theater
劇場へ
その押し出すような呼吸は、どちらのものか分からない。
彼女と唇が触れるたび、体中の細胞が熱を帯びる。
体に、エンジンがかかる。
何度目かのキスの後、アレンはドレスのファスナーに手を伸ばした。
彼女の背面にあるそれは、意外にも簡単に滑り降りていった。
*****
帰省の後しばらくして、アレンは懐かしい獣からメールを受け取った。
差出人は、アテナだった。
彼女は高校時代の2つ上の先輩で、しなやかな肢体をもつカラカルであった。
隣の街で公演を行うことになったから、よければ観にこないか?
必要なら、ペアで席を空けておく。
文面には、そうあった。
「演劇?」
「うん」
「隣街であるんだけど、よければどうかな?」
「昔の知り合いが舞台女優をやっていて、チケットを用意してくれるらしいから」
絵を描くのが好きなロッテは、他のジャンルの芸術にも興味があるのではないか。
そう思って、思い切ってロッテを誘ってみたのだった。
「観劇って初めてなの!」
「わたしでいいなら、喜んで行くわ」
皿を洗いながら、ロッテは嬉しそうに言った。
彼女の返事を聞いて、アレンはアテナに返事を書いた。
チケットは2枚ほしいということも、忘れずに書いた。
公演は、土曜の晩だった。
劇場は隣の街にあり、電車で半時間ほどの道のりだ。
小さな劇場らしいが、一応ドレスコードはある。
アレンは久々にスーツを着て、ネクタイを締めた。
ネクタイの締め具合を調節していると、着替えの終わったロッテが部屋から出てきた。
彼女は、シンプルな黒いドレスを着ていた。
袖のないワンピース型で、つるんとした光沢のある生地でできている。
髪はいつもと違って頭の上にまとめ上げ、耳にはピアスが光っている。
その上にコートを羽織って、先のとがった靴を履く。
靴には、キラキラと光るラインストーンが付いていた。
劇場に向かう電車の中で、アレンはアテナについて簡単に話した。
「高校のときから、アテナは外部の劇団に所属していて…」
「急な裏方不足のときに手伝いを頼まれてさ」
「それが縁で、今でもたまに誘ってくれるんだよ」
アテナに手伝いを頼まれたのは偶然だったが、彼女はアレンのことをいい素材だと気に入ってくれた。
その後何度か演劇の道に誘いを受けたが、その気はなかったので断り続けた。
卒業後のアテナはそのまま劇団で活動を続け、すぐにその才能を開花させることとなる。
今では有名な舞台女優の1匹として、演劇界にその名を轟かせている。
劇場は、ほどよく混み合っていた。
アレンはロッテが好奇の目で見られるのを心配していたが、特にその必要はなかったようだった。
獣たちはみなアテナの劇を楽しみにして、あれこれとお喋りに花を咲かせていた。
舞台上で久々に再会したアテナは、彼の知っている彼女とほとんど変わりはなかった。
クールで、ストイックで、美しくて。
恋心ではなかったが、アレンはアテナに憧れていた時期もあった。
彼女は相変わらず、アレンの憧れの先輩のままだった。
ロッテもまた、アテナの舞台に釘付けになっていた。
彼女もまた、あの美しいカラカルの新しいファンの1人になったに違いなかった。
途中、ロッテは何度も身を乗り出しそうになり、そのたびにそんな自分を押さえているように見えた。
彼女を誘ってよかったと思えた。
2時間という公演はあっという間に終わり、会場からは観客たちが吐き出されていく。
アレンはチケットの礼を言うべく、楽屋にアテナを訪ねた。
彼女は、アレンの隣にいるロッテを見ても驚く様子はなかった。
まだ夢から覚めないような顔をしているロッテと、固く握手をしてくれた。
アテナはまだ忙しそうだったので、短い会話を交わして劇場を後にした。
何だかこのまま帰るのはもったいない…。
アレンは、ふといい場所があったことを思い出した。
劇場からしばらく歩いて、アレンは街にある古城にロッテを案内した。
城は街の高台に建っており、その庭からは美しい夜景を見ることができた。
「寒い?」
高台の城は、さすがに寒かった。
「少しね」
ロッテはそう言って、首をすくめた。
しかし街を見下ろせる庭に出て、そんなことは忘れてしまったようであった。
冬の澄んだ空気の中で、夜景はことさら美しく見えた。
街を分けるように流れる河に、橋が架かっている。
そこを行き交う車のヘッドライト。
家々に灯る灯り。
真っ黒な布の上に、宝石をばらまいたような眺めだった。
しばし会話を忘れ、アレンとロッテはその景色に見入った。
最初に口を開いたのはロッテだった。
「怖いくらいにきれいね」
彼女はそう言うと、ため息を吐いた。
「うん」
アレンが応じると、ロッテはそのまま続けた。
まるで、昔話を語るような口調で。
「昔にも、こんな景色を見せてもらったことがあった」
「あのときの夜景もとてもきれいだった」
「だけど、同時に心細くもなって…」
「あの小さな光のひとつひとつには誰かの暮らしがあって…」
「行き交う車には、きっと帰る場所がある」
「でも、わたしにはどこにも帰る場所がない」
「ドアを開けて迎えてくれる家族もいない」
「それを見せつけられた気がして」
ロッテが誰にともなく呟くように言うのを、アレンは黙って聞いていた。
「あのときのわたしには、きっと想像もできなかったな」
「ん?」
「今こうしてオオカミと暮らして、普通に生活をしたり、劇を観たり夜景を見たり…」
「こんな風になるなんて、全然考えられなかった…」
アレンの左に立っているロッテの右手は、彼の左手のすぐ近くに置かれている。
「アレン、ありがとう」
ロッテはそれだけ言うと、再び夜景に視線を戻した。
その後のことは、もはや反射的に起こったといってもいい。
彼は、すぐ隣にあったロッテの右手に触れる。
小指に始まって、やがてその手全体を包む。
ロッテは、何も言わなかった。
ただその目は、夜景ではなくアレンを見つめていた。
1人と1匹の距離がぐんと近くなり、アレンは少し屈みこむような姿勢でロッテにキスをした。
彼女はやはり何も言わなかったが、拒むこともしなかった。
一度離れて、確認するようにもう一度。
2度目のキスも、はねつけられることはなかった。
帰りの電車では、どちらも何も話さなかった。
手も触れず、互いの顔を見ることもなかった。
しかし、それを苦痛には感じない。
自分たちの中で、ほんの少し前にはなかった何かが燻っている。
そのことを、お互いに自覚してはいた。
その燻りに火が付いたのは、部屋に帰ってきてからだった。
電気もつけず、アレンとロッテはソファになだれ込む。
玄関で脱いだ靴は、彼らには珍しく揃えられることもなかった。
暗闇の中で、アレンは手探りで暖房のスイッチを入れた。
なるべく早く部屋を暖めたくて、つまみを目いっぱい回した。
襟に指を突っ込んで、窮屈なネクタイを外す。
上着はとうに脱ぎ捨てて、ソファの端に引っかかっている。
ロッテのコートも、同じように放ってある。
アレンはソファに深々と座り、抱き上げたロッテを自分の上に座らせた。
向かい合わせになって、再びキスが始まる。
彼らの座る壁際は、すぐに暖かくなってきた。
ロッテはノンスリーブのドレスでも、きっと寒くはないだろう。
キスを重ねながら、アレンは何度かロッテを見た。
彼女は目を閉じて、彼に身を委ねている。
何度目かのキスの後、アレンはとうとうロッテのドレスのファスナーに手をかけた。
背面のそれにはもっと手こずるだろうと思っていたが、シューッという音を立てて、ファスナーは滑るように下りていく。
ドレスのホックは留まったままだったが、背中はぱっくりと開いた。
そこから見える彼女の背中は、暗闇ではよく見えない。
アレンはロッテの首筋に唇を付けながら、その中に手を差し入れようとしていた。
異変は、そのとき初めて起こった。
それまではゆったりと預けられていたロッテの体が、彼の腕の中で強張る。
彼女はアレンの胸に手をついて、彼との間に距離を作った。
その顔は、悲しそうでもあり申し訳なさそうでもあった。
「アレン」
「アレン、ごめんなさい…」
ロッテは小さな声で言うと、今度は完全に離れた。
アレンは、彼女が上に座っていたままの格好でなおもソファに座っている。
順調に進んでいたと思えていただけに、頭がすぐには反応してくれない。
「ごめん、本当に…」
ロッテはうつむいて、もう一度言った。
「いや…」
アレンは、それだけ言うのがやっとだった。
「ごめん…」
最後に絞り出すように言うと、ロッテはそのまま逃げるように部屋に入ってしまった。
彼女が離れてしまっても、壁際のソファは暖かだった。
*****
うとうとを繰り返して、ロッテは早朝に目を覚ました。
冬の朝は寒い。
つま先立ちになって、バスルームへ急ぐ。
昨日着たままだった黒いドレス、背中の開いたままのそれを脱ぎ捨て、バスタブに入ってシャワーカーテンを閉めた。
ほどなくして出た熱いお湯で、バスルームは湯気でいっぱいになる。
髪をほどいたロッテは熱いシャワーを全身に浴びせ、昨日のことを思い出していた。
アレンと演劇を見に行ったこと。
彼が夜景を見せてくれたこと。
自分に触れた彼の大きな手、そしてキスも。
首筋に手を触れたとき、そこに彼の唇があったことを思い出す。
時おり触れた舌の柔らかな感触も、未だに口の中に残っているような気がした。
シャワーの栓を閉め、ロッテはバスタオルを羽織った。
もうもうとした湯気の中、曇った鏡を手で拭う。
そこに移る、濡れた自分を見つめた。
獣からああいうことをされて、自分が受け入れられるとは思わなかった。
ロッテはアレンのキスを無抵抗に受け入れたが、それは自分が望んでのことだった。
彼にキスされたい、彼にキスしたい。
そんな気持ちの中で、彼女はアレンと唇を重ねていた。
あのまま、背中のファスナーを下ろした彼と一夜を過ごすことができていたら…。
今頃は彼の大きなベッドの中で、温かみを感じてまどろむことができていたに違いない。
目を覚まして、少し気恥しい気持ちで笑い合えたかもしれない。
しかし、現実は違う。
わたしは、結局は彼を受け入れられなかった。
わたしの体が、彼を受け入れるのを拒んでしまった。
ロッテの体からバスタオルがずり落ち、足元に落ちる。
湯気のおさまりつつあるバスルームで、その裸身が露わになった。
その色白の体には、数えきれない傷跡があった。
薄くはなっているが、消えずに残ったあざもあった。
それらは層のようになり、彼女の体を覆いつくしている。
これは、わたしが生き抜いた証である。
そして、わたしを縛りつける呪いでもある。
こんな体で、どうして愛してくれだなんて言えるだろうか。
あんな場所で過ごしたわたしは、誰かに愛される資格があるのだろうか。
いっそ、アレンのことを拒めたらどんなに楽だっただろう。
嫌悪感を抱くほうが、今よりはずっとましなはずだった。
洗面台に両手をついて、ロッテはその傷だらけの体を支えた。
喉の奥に、こみ上げるものがある。
彼女は、大声を上げて泣きたかった。
しかし、涙を流して泣く方法を、彼女はとうの昔に忘れてしまっていた。




