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ひる

作者: 鷹師 森
掲載日:2018/05/06

 世界の平衡が崩れ、何もないところから1が湧き出る。1が2、3、4を産む。2、3、4は不完全なまま消える。1は5、6を産む。1のもとで、5、6は成長する。5と6が交わって7、8、9を産む。7は消え、8は旅に出て、9は残る。どこからともなく10があらわれる。9と10が交わって11、12、13を産む。11、12、13は2、3、4の生まれ変わり。11、12、13を残して9と10は旅に出る。5と6が11、12、13を育てる。1はいつまでも消えない。旅の途上で8は14と出会う。14は実は7の生まれ変わり。8と14が交わって15、16、17を産む。11、12、13、15、16、17の愛憎。最後に9と10がここではないどこかから帰ってきて、世界にふたたび平衡が訪れる。


 ことばに頼りすぎている。ことばはことばであるがゆえに、すでにそのことで痩せている。ことばに置き換えた時点で、もうはじめの姿は失われている。五官で感じたそのものが世界のすべてであったはずなのに。

 ことばは音には敵わない。ことばは味には敵わない。ことばは色には敵わない。ことばは匂いには敵わない。ことばは痛みには敵わない。音をことばであらわす試み、味をことばであらわす試み、色をことばであらわす試み、匂いをことばであらわす試み、痛みをことばであらわす試み、すべては徒労に過ぎない。聴いてごらん、舐めてごらん、視てごらん、嗅いでごらん、触れてごらん。ことばに置き換える必要なんてない。感じたそのままがもっとも正しくその経験をあらわしているのだから。


 忘れていく、忘れていく。こどものころの、ことば以前の感じ方。ことばを知らないこどもたちには、五官が世界そのもので、聴こえる笑い声や、舐めた甘さや、視える回転や、匂う空気や、触れた手のぬくもりが、ことばという媒介を経ることなく、直接、減衰も増幅もすることなく、わたしの世界に接触してくる。いや、そもそもわたしなんていない。わたしは世界という認識の一部分にすぎない。そして部分であることは全体であることと同じである。つまり世界の全体であるわたしはわたしを発見することなどできるはずがなく、したがってわたしに囚われることもなく、積み重なり、広がり、膨れていく。


 朝。水を張ったばかりの田んぼの傍らを走る灰色のアスファルトの道路の上に、ちいさな網と青いバケツが置かれている。あたりに人はいない。バケツの中には水が半分ほど入っている。昨夜、帰りにここを通ったときにも網とバケツが置いてあった。夜闇のなかで街灯に照らされたそれは、突然飼い主を失った犬のように呆然とそこに立ち尽くしていた。夕暮れまで田んぼで虫取りをしていたこどもが、うっかり道具を置いたまま家庭からの夕食の呼び声に連れ戻されたのだろう。どことなく所在なさげにみえる網とバケツ。夜通しこの田んぼの傍らのアスファルトの道路の上で、車に弾き飛ばされることもなく、千鳥足の酔っ払いに蹴り倒されることもなく、朝を待っていた。同じ網とバケツでありながら、夜見たそれと朝見るそれとでは、印象がまるで違っているのが不思議である。つまりは光のあたり方、あるいは見る者のこころのありようの問題なのだろうか。よく見る気にはならなかったが、バケツの中には何か生き物がいるような気がした。かえる? たがめ? ざりがに? 向こうからこどもたちが数人で走ってきた。あーっ、あったあったー、よかったー、まじでなかったらどうしようって思ってたー、きのうつかまえたひるー、まだ生きてるかなー? ひる。ひるか。そうか。それは候補に入ってなかったな。この子たちはひるなんか捕まえてどうしようっていうんだろう。水を張ったばかりの田んぼに、朝の光が反射して、鏡のように空と雲とを映し出していた。


 駅の前まで来るには来たが、どうにもこのまま電車に乗る気にはなれず、駅の向こう側にある喫茶店に向かった。古びた喫茶店。からんからん。乾いた鈴の音を立てながら扉を開けると、朝から疲れたような顔をした店主がちらりとこちらを一瞥し、軽く会釈をした。客は誰もいない。ほのかに音楽が流れている。プロコフィエフのピアノ協奏曲第5番ト長調作品55。好きな曲だからすぐにわかる。寓話的でおちゃめな作品。皮肉も利いている。この喫茶店の雰囲気に合っているのかどうかはよくわからない。ちぐはぐな印象もなくはない。奥のテーブルを選んで使い込まれた古く上質なソファに腰かけると体が沈む。腰がソファに包まれる。しばらくして店主が水とおしぼりを持ってきた。朝食は自宅で摂ってきたのだが、朝の喫茶店に入るとついついモーニングセットを注文したくなる。ホットコーヒーとトーストのセットをオーダーする。おしぼりは熱かった。そう、この熱さこそが望ましいおしぼりのあり方。どんなに夏が暑くてもおしぼりは熱々であるべきだ。もちろんタオル生地でなければならない。ペーパーおしぼりなんておしぼりのうちに入らない。手をぬぐい、店主が見ていないのを確認してから顔や首筋にそのおしぼりをあてる。ああ、気持ちいい。そういえばさっきのこどもたち、いったいひるをどうするのかな? ひるといえば昔の映画に、密林の沼地で戦士が大量のひるに吸い付かれ、それをナイフでめりめりと剥がしていくシーンがあったっけ。すべてのひるが血を吸う性質をもっているのかどうかは知らないけれど、いろんな生き物の体液を吸って生き延びるというイメージがひるにはある。ひるに体液を吸われた後の生き物、たとえばかえるや魚は、なんだか哀れだ。もしも自分が大量のひるに吸い付かれ、体液を吸われたらと思うとぞっとする。まあ、そんな怖い目に遭うことはきっとないんだろうけど。いや、まてよ、ほんとうにないかな? ひるに体液が吸われることはなくても、ひるみたいな人間に大切なものを吸い尽くされるってことはあるかもしれない。ひるよりも人間の方が怖いっていうのはいまさらながらもよくある話だ。

 などと、ありきたりの妄想を膨らませていると、香ばしいかおりのホットコーヒーと、あめ色にやかれたトーストが運ばれてきた。ゆで卵も添えられている。コーヒーカップにくちびるをつけると、その苦さで頭が醒める。砂糖を入れるかどうか迷ったが入れないことにした。ミルクは入れる。黒色から茶色に変わる熱い液体。トーストをかじる。ゆで卵の殻を割る。さて、これからどうしたものか。思案しているふりをして、実はもう電車に乗らないことは決めている。しばらくこの喫茶店でなんということもなく時間を費やすことにしよう。読みかけの本を鞄から取り出す。ページを開く。高貴な犬が愚かな人間たちに道を説いている。ことばに頼りすぎるな。動物としての感性を信じろ。内なる自然を目覚めさせよ。人間たちにはそのことばは聴こえない。もし聴こえたとしても意味を理解できる者はいない。いや、意味なんて理解する必要があるのか。高貴な犬は苦悩する。自問自答する。やがて、高貴な犬はその場所を離れて旅に出る。行き先は決めていない。旅に出る理由も目的もわからない。それでいいのか。この物語の寓意を読み取ろうとする。すこしぬるくなったコーヒーをすする。ゆで卵をかじる。白身の弾力のある歯ごたえと黄身のとろける舌ざわり。半熟だ。寓話は神話に似ている。突拍子もないようでいて、シンプルに世界の本質をあらわしている。娯楽のための物語は時の移ろいとともに痩せていくが、神話という物語にのせた寓意という暗号は力強く時代の流れを超えていく。この物語に忍ばせた暗号はかたちを変えながらどれだけの時を超えてきたのだろう。性能の高いスピーカーからリヒテルの指が激しく鍵盤をたたく音が聞こえる。

 からんからん。ひとりの女が入ってきた。この土地では見慣れない洗練された装い。上品で美形。さらに知性的な趣を漂わせている。店主に親しげに声をかけながら、女はカウンターの席に着いた。店主はあいかわらず疲れた表情のまま、女に水とおしぼりを手渡す。女は受け取ったコップの水を一息に飲み干して、おしぼりを手にとった。握ったまましばらくじっとしている。遠目にも、熱いおしぼりを快適に感じているのがわかる。上品でありながら奔放なその感情の表出に好感を抱きつつ、女をそれとなく眺める。女はこの喫茶店の常連客なのだろうか。店主となにやら話し込んでいる。ときおり微かに笑いあいながら、ときおり深刻そうにうなずきあいながら。ふたりの声はこちらまでは聞こえない。女は隣の椅子に置いていた自分のバッグから、大きめの茶封筒を取り出すと店主に手渡した。店主は中身をちらりとみて店の奥に入っていった。ここまでの様子を、本を読むふりをしながら観察していたのだが、突然、女がこちらに振り向いてにっこりと微笑んだ。不意をつかれてうまく反応できない。どぎまぎしていると女がこう言った。あなたはここで何をしているの? とっさには意味がわからなかった。あわてて思考をめぐらしている気配が伝わらないよう、なんとか落ち着いた表情をつくりだす。しかしことばは出てこない。女は続けて言う。すぐにこの店を出た方がいいわよ。

 意味を尋ねようと口を開きかけたときに、店の奥から店主が出てきた。手には電話を握っている。あなたにお電話です。こちらのテーブルに向かって歩いてくる。一体誰からだろう? そもそもここにいるっていうことがどうしてわかったのだろう? 人違いじゃないのだろうか? 電話を受け取る。どちらさまですか? 尋ねると相手はこう言った。私だ。聞き覚えのある声。上司である。どうしてここにいるとわかったんですか? 何を言っているんだ、君に今日、そこに行くように指示したのは私だ。事情がわからない。そんな指示を受けた覚えはない。今日は組織に行く気にはなれず、それでいつものようには電車に乗らずにこの喫茶店に入ったのだ。上司の指示でこんなところに来るはずがない。寝ぼけているのか、まあいい、とにかく指示通りにそこに行っているのは確認した、あとは上手くやっておくように。それだけ言って、上司は電話を切った。あとは上手くやっておくように? いったい何を? あっけにとられていると、店主と女がこちらの様子を窺いながら笑っている。店主はにやにやとしている。女はいたずらっぽく微笑んでいる。まったく不愉快だ。

 鳥になりたいと思いませんか。自由に空を飛ぶ鳥に。けれども鳥は自由に空を飛んでいるわけではありません。飛ばされているのです。それはたとえば風の流れであったり、空気の温度差であったり、湿度の差であったり、気圧の差であったり、あるいは鳥自身の翼の状態であったり、筋力であったり、そんなさまざまな要素によって、飛ぶタイミングも、飛ぶコースも、すべてはあらかじめ決定されているのです。鳥自身の意思なんていかほどにも反映される余地などないのです。それはあなたの気まぐれな逃避と同じように。もしかするとそれでも鳥自身は自分の意思で飛んでいると信じているかもしれません。しかしもしも鳥自身が、自らの意思で飛んでいるのではなく、飛ばされているのだということに気付いたとしたらどうでしょう? 鳥は絶望するでしょうか? あなたはどうでしょうか?

 お客さん、どうぞ。店主が先ほど女から受け取った茶封筒を持ってきた。中身を確認するよう促される。怪訝に思いながらも促されるままに中身を取り出す。なにかのパンフレットのような冊子が入っていた。カウンターの席に座ったまま女が声をかける。見ない方がいいと思うけど。じっとこちらを見つめている。初対面の店主と初対面の女と。どちらのことばを信じるべきか。悩むのはよそう。いまは何にしても事態を前に転がす方がよさそうだ。この不可解な状況を理解する手がかりになるかもしれない。パンフレットのような冊子の表紙とおぼしきページを見る。幾何学模様のデザインのうえになにやら見たことのない文字でタイトルらしきものが書かれている。どこの国の言語か。まったく読めない。ページをめくる。中にはやはり読めない文字が書かれており、また、どこかのジャングルのような場所の写真や地図がちりばめられている。結局終わりまでページをめくっても、このパンフレットのような冊子が何を意味するのかはわからなかった。これはいったい? 店主に尋ねたが、店主は肩をすくめただけだった。念のため、女にも視線で問いかけてみたが、女も首をかしげただけだった。このまま持っていても仕方がないので、パンフレットのような冊子を茶封筒のなかに戻し店主に返そうとした。しかし店主は受け取ろうとしない。先ほどの電話の方がこれをあなたに渡すようにとおっしゃっていましたので。上司がそんな指示を? なぜ? なんだかこの喫茶店も居心地が悪くなってきた。パンフレットのような冊子が入った茶封筒をテーブルの上に置いたまま喫茶店を出ることにした。店主に代金を支払う。店内に響くピアノの音はいつの間にか激しさを増し、オーケストラの演奏とともに繊細な調和を保ちながらせめぎ合っていた。

 からんからん。音を立ててドアを開け、通りに出ると、すぐに女があとから追ってきた。お忘れですよ。追いつかれまいと早足で歩く。女は小走りで近づいてくる。ハイヒールの音が小刻みにアスファルトに響く。仕方がないので振り返る。それは忘れたのではなく置いてきたのです。でも、と女は口ごもりながらも何かを言いたそうにしている。でも、何ですか? これはあなたに必要なものだから。いや、あなたはさっき、見ない方がいいと言ったのではありませんでしたか? そうですがあなたは見ました、見た以上はもうこれを無視することはできないのです。一方的かつ断定的な口ぶり。いったいこれは何なんですか、これを持ってどうしろというんですか? そんなことはわかりません、なぜあなたがそれに疑問を抱くのかもわかりません、けれどもこれはあなたには必要なのです、さきほどの電話のひともそう言っていたんでしょ? 女の意思は固そうだった。これ以上、話していても何かが進展するとは思われなかった。女とのやりとりも面倒に感じ始めたので、あとで女がいなくなったころを見計らって捨てるつもりで、その茶封筒を受け取った。ひとつだけ聞いてもいいですか、あなたはいったい何なんですか? それはあなたが知る必要のないことです、さらに付け加えると、もしかするとこれは言い過ぎかもしれませんが、私にもその問いの答えはわからないのです、私がわからないことをあなたが知る必要があるでしょうか、わたしがいま言えることは、あなたにはこれが必要だということだけです。そう言うと、女はもと来た方向に歩いていった。あとには女のあまくて爽やかな香りが残った。いつの間にか空は灰色の雲に覆われはじめていた。


 モノレールは高台のさらに高い位置にあるレールの上を走っている。車窓から見渡せるのは遠くの広い平野に集積する都会のビルディングの群れ。さらに厚くなった灰色の雲が重く垂れこめ、ビルディングの高層階は雲に呑み込まれているように霞んでいる。モノレールの上を走るおもちゃのような車両の先頭には運転士の後ろにガラスの壁を隔てて特等席ともいえる座席が2席だけ設置されている。電車好きのこどもとそのこどもを連れたおとなが座るのにふさわしい座席である。ここでは運転士の視界を体験することができる。ジェットコースターの先頭の視点。ふだんなら恥ずかしくておとなひとりで座るなんて到底できないが、いまは誰とも向かい合わせでは座りたくない気分だったので、対面に席のないこの特等席が空いていたのをいいことに陣取った。ほかの誰にも座られないように、隣には荷物を置いた。この際、マナー違反には目をつむってもらうとする。どうせ平日の昼間で、この車両に客はほとんど乗っていない。結局、今日は乗らないでおこうと決めていた電車に、やはり乗ることにしたのは、あの喫茶店の前の通りで女とやりとりをした後、このまま歩いてどこかに向かうというのがなんとなく億劫に感じられてきたからだった。それでひとまずいつもの電車に乗ってみようと思い直した。例の茶封筒は、駅のごみ入れに捨ててきた。あの茶封筒のなかのパンフレットのような冊子が何を意味するものだったのかはわからずじまいだったが、わからないからといって自分が困るとはまったく思わなかった。世の中にはわからないことなんて数えきれないほどあるのだ。いちいちすべてをわかろうとする必要はない。ひとつだけ気がかりがあるとすればそれは、あの喫茶店の店主のことば、上司が渡すようにと言っていた、ということだけだ。それにしても。そもそもあの電話の声の主はほんとうに上司だったのだろうか? それに、上司から今日、あの喫茶店に行くように命じられていたというのはほんとうか? 覚えがない。ちっとも事情が呑み込めない。疑い始めると、何もかもが疑わしく思えてきた。しかしそれではきりがない。信じられることなんて、はなからどこにもありはしないのだ。おおかた、ちかごろ溜まっている疲れのせいで記憶があやふやになってしまっているせいなのだろう。めったにこんなあやふやな思考になることはないのだが。とにかく、いまは自分の明確な意思で電車に乗って次の駅に向かっているのだ。自らの自由な選択によって、あらたに定めた目的地に向かっている。それだけでも事態をよくするのに役立っているのではないだろうか。前に進むモノレール。運転席の後ろの座席からみえる景色。一本のレールがどこまでも続いている。白いコンクリートのレールが、雲の隙間からわずかに差し込む光をにぶく反射している。

 ちぇっ、だれか座っているよ、楽しみにしていたのに、ついてないな。背後で男の声がした。まあいいじゃないか、何度もあそこには座ったことがあるんだから。別の男の声が言う。あいにくだが今日は先に座らせてもらっているよと後ろを振り返りもせず心のなかで思う。まあ、がらがらの車内だからどこにでも座れていいじゃないかとも思う。しかし男たちはこの特等席の背後に立ったまま会話を続けた。それにしてもこの箱は掘り出し物だったな、あんなところで価値のわからない素人に保管されていたんじゃ人類にとって重大な損失だからな。そう言うな、前の所有者が素人だったおかげで破格の安さで手に入れることができたんだから。そうだな、この箱はわが組織にとってはイコンだからな。さらにキーにもなっている、これで、わが組織の目的は実現に一歩近づいたということだ。組織? イコン? キー? 聞き耳を立てる。コーネルのカシオペア#1がまさかあんなところにあったとはな。国立の美術館で盗難に遭ったと聞いて探していた甲斐があったというものだ。コーネルのカシオペア#1だって? ということは彼らの組織は。とにかくひとまずこの箱を支部に持ち帰ろう、きっと支部長から努力を称えるお褒めのことばがいただけるだろう、もしかしたら本部からお呼びがかかるかもしれない。そうだな、しかし我々はすぐに次の仕事にとりかからなければならないぞ。もちろんだ、我々には世の中の不公平を正し、公平な世界をつくるという使命があるからな。不公平の是正。間違いない。彼らは対立する組織の一員だ。彼らの行動は阻止しなければならない。しかし、いまここで彼らに挑むことには意味がない。彼らはたしかに組織で重要な役割を果たしているようだが、それでも支部の構成員に過ぎないだろう。彼らの組織は巨大だ。まずはこのまま彼らの話を聞き続け、それを上司に報告することにしよう。

 彼らの組織は、世の中の不公平を是正することを目的に活動している。あたりまえのことだがいつの世にもさまざまな不公平がある。男と女との間の不公平、おとなとこどもとの間の不公平、富める者と貧しき者との間の不公平、国と国との間の不公平、時代と時代との間の不公平。自分の努力ではいかんとも是正しがたい不公平にみちている。彼らの組織はときに政府に働きかけ、ときに各国の要人へのロビー活動を展開し、ときにNGOやNPOを支援し、ときに街頭PRやメディア操作で大衆に影響を与えながら、世の中の不公平を是正する活動に取り組んでいる。先日はある国で、親の経済状態でこどもの教育環境に差が出ないよう、つまり世代をまたぐ貧困の連鎖を断ち切るための政策を政府に実現させたところだ。その少し前には、先進国の企業が低い賃金で途上国の労働者を働かせて利益をあげる仕組みを是正すべく、途上国の労働者に企業との交渉の術を教育し、国と国との間の賃金格差の是正に道筋をつけた。といっても彼らの組織が自ら組織を名乗ってこれらの活動をおこなっているわけではない。組織の全貌はごく少数の幹部を除いてわからないことになっている。彼らの組織は数多くのグループに分かれており、さらにその各グループは細かく枝分かれし、そして各グループ間の横のつながりがないうえに、他のグループがどのような名称でどのような活動をしているのかも知らされていない。実際の活動の現場ではしばしば共同で作業しているのだが、お互いに同じ組織であるとはわからないようになっているのだ。

 それにしてもこのカシオペア#1は見れば見るほど魂が吸い込まれるようだな。それはそうだ、この箱は宇宙を模した美しくてセンチメンタルな箱庭のイメージで捉えられているが実際はそんな抽象的なものではなく、もうひとつの宇宙そのものをこの箱のなかに封じ込めているのだからな、ひとたびこの箱を開けてしまうと、中の宇宙と外の宇宙とが交じり合い、外の宇宙、つまり我々がいまいるこの世界は消えてなくなってしまうということらしい、だからこそ魂が吸い込まれそうな感覚に囚われるのだろう。恐ろしい箱だな。

二本の銀色の金属の棒の上を転がる白い球体、背後には濃紺の星図、あの作品は国立の美術館で見たことがあるが、宇宙そのものだったのか。そんな重要なものを、たったのふたりで、しかも電車なんかで運んでいて大丈夫なのだろうか? そんなことを考えていると、いつの間にか男たちの声は聞こえなくなっていた。すると、間もなく目的の駅に着くというアナウンスが流れてきたので、隣の座席に置いていた荷物を抱えて立ち上がった。ドアに向かって振り向くと、しかしそこにはまだ男たちが立っていた。双子かと見まごうほどにうりふたつの黒いスーツの男たち。どちらも背が高いが痩せすぎている。そしてあきらかにこちらを見ている。ひとりの男が言った。あなた、さきほど電車に乗る前に駅でこの茶封筒を捨てましたね? 男はやにわに見覚えのある茶封筒を鞄から取り出した。あの茶封筒だ。しかしなぜこの男が持っている? 答えないでいるともうひとりの男が口を挟んだ。これはあなたには必要なものです。あの女と同じく一方的で断定的な口調。いったい何なんだ。しかもこのふたりは敵対する組織の構成員だ。こちらのことを知っているのか? そうだとすると厄介だぞ。身分がばれているのなら、ただでは済まないだろう。このまま拉致されるか、あるいは消されてしまうかもしれない。駅に着いた。とっさに茶封筒を受け取って、緊張しながら男たちの前をすり抜け、ドアに向かった。男たちは、妨害するでも追いかけてくるでもなく、ただその様子を見ているだけだった。ドアが閉まり、電車が出発した。動く電車を見ていると、男たちがさっそく運転席の後ろの例の特等席に座っているのが見えた。結局、男たちからは何も危害を加えられることはなかった。ただ、こちらの手元にはなぜかあの茶封筒が戻ってきていた。


 走り去る電車を見送った後、振り返ると駅の向こうに巨大なモニュメントがそびえたっているのが見えた。白くて長い塔。まるで大地から圧倒的な生命のエネルギーが噴き出しているようなその威容。モニュメントの周囲にはこの駅のほかに大きな建造物はない。広大な敷地の公園のなかにこの巨大なモニュメントとモノレールの駅があるだけだ。空は灰色の厚い雲に覆われていて、すでに光が差し込むほどの雲の切れ間もなくなり、いまにも雨が降り出しそうだった。濡れるのは嫌だな。しかしいまは、ひろびろとした空間に出て空気を思い切り吸い込みたい気分の方が強いので、迷いながらも駅を出た。さっきの男たちはこちらが何者か気付いていなかったのだろうか? 公園のなかを歩きながら考える。目的地がないと歩きにくいので、とりあえずモニュメントを目指す。ラベンダーの香りが充満する公園。この匂いはあまりにも月並み過ぎて好きではない。ほんとうは気持ちのいい香りのはずなのに、いろんなところで嗅ぎすぎて、すでに香りのインフレーションが起こり、価値が暴落している。しかしいまは降り出しそうな雨の匂いと混ざり合って、少しは気分を落ち着かせてくれるような気もする。匂いのブレンドというのも悪くない。それにしても問題は再び手元に戻ってきたこの茶封筒。なかにはあのパンフレットのような冊子がそのまま入っていた。結局、あの男たちの情報は何も集めることはできなかった。組織のイコンでありキーでもあるというコーネルのカシオペア#1を手に入れていたという情報だけでも上司に報告しておかなければならない。気は進まないが、やはり事務所に行かなければならないだろう。それでもまずは、空気を入れ替えて気分をあらためることが先決だ。

 うつむきながら歩いていると、突然、耳元でばさばさという激しい音が響き、その次の瞬間、たくさんの鳥が目の前を横切った。すこし遅れてなまあたたかい鳥の匂いが鼻をつく。誰かが鳥を呼ぶために餌を撒いたらしい。視線を上げると、鳥の群れが撒かれた餌をせわしなくついばんでいるそのなかに、小さな女の子が立っていた。つぶやくような声で歌っているようだ。餌をついばむ鳥の群れのなかで歌う少女。その異様な光景に目を奪われる。

 ひーるこ ひるこ うまれたひるこ ほねなしひるこは あしぶねにー いれてながして さようならー

 ひーるこ ひるこ うまれたひるこ ほねなしひるこは あしぶねにー いれてながされ こんにちはー

 視線を少女の足元の鳥の群れに戻す。鳥のくちばしには、なにやら釣りで使う白い練り餌のようなものが咥えられている。目を凝らすとその餌はわずかに動いているようにも見える。生き物なのか。それはひるこよ。少女が小さく声をかけて近づいてきた。近づいてきて気付いたのだが、少女はたしかに少女らしい服装と髪型をしているものの、背の高さはおとなとかわりがない。ここの鳥たちはひるこが大好きなの、だからあたしがひるこをあげているのよ、ほら。少女と思えた女の子は得意げに両方の手のひらをあわせてこちらに差し出した。そこにはうごめく大量のひるが載せられていた。手からあふれてこぼれ落ちるのもいる。もちろん彼女の手のひらは気味の悪い粘液でねっとりとしている。目の前に突如差し出されたそれらにひるみながらも、精一杯の問いを投げかける。ひるこっていうのはひるのことかい? ひるこはひるこよ、いざなきといざなみが最初にまぐわって生まれた子、国産みよりも先に生まれた子よ、生まれた時から骨がなくって、ひとやけもののからだに吸盤で張り付いて、血を吸って生きるのよ。この子はいったいなんの話をしているのだろう。神話かおとぎ話か。どちらにしても奇妙な話だ。黙って聞いているとなおも続けて言う。ひるこはかわいそう、だっていざなきといざなみに捨てられちゃう、骨がないからだって、ひるこが生まれたのはいざなきといざなみのまぐわい方がなってなかったからだって、どっちが先に声をかけたっていいじゃない、そう思わない? 同意を求められても何と答えていいのかわからない。結局、こちらの答えを待つのでもなく、また一方的に話し出した。ひるこはとうとう葦船に入れられて流されちゃったの、いざなきといざなみにとってはひるこはこれでもうおしまい、そこからもういちどまぐわい直して、つぎつぎと国を産みましたとさ、めでたしめでたし、でもね、ひるこにとっては終わってなかったのよ、だってひるこは死ななかったんだもの、で、ひるこはそのあとどうなったと思う? そう言って手のひらの上のひるを再びこちらに差し出したものだから、ぎょっとしてついこう言ってしまった。もしかしていま鳥に食べられているこのひるがひるこの子孫なの? あはは、それも悪くはないわね、だけどはずれ、ひるこっていうのは漢字で書くと蛭子、ああ、口で言うのは難しいわね、虫偏に至るって書いて蛭、それに子どもの子、この字で何か思い浮かばない? ああ、そういえばその字で、えびすって読むこともあったかな? はい、今度は正解、えびすさまね、骨なしのひるこっていっても、元はいざなきといざなみから生まれてるんだから神には違いないわけ、だからひるこが葦船で流れ着いたその場所では、えびすさまとして大切にされたのよ。そう言って目の前の彼女が微笑んだので、つい気が緩んだのがいけなかった。つられて同じように顔を緩めたその刹那、彼女の次のことばに一撃を食らわされた。だけどひるこは許さない、ひるこを捨てたいざなきといざなみを、そしてその子孫のこの国の神々を。彼女は両手にあふれるひるを灰色の空に高くぶちまけた。粘液の糸をひいて彼女の手から離れるひる、ひる、ひる。それを素早く察知して、空中で奪い合う鳥、鳥、鳥。鳥の激しい羽音に気をとられているうちに、少女と思えた女の子の姿は消えていた。まるで鳥に運び去られたかのように。そして女の子がいた場所のちょうど延長線上に巨大なモニュメントがそびえたっていた。いつの間にか、こんなにも近くまで歩いて来ていたのか。ふと、白い塔をみてこんな考えが頭をよぎる。もしかするとこの塔はひるこのメタファーなのか。しかし、その考えをすぐに打ち消す。そんなはずがあるものか。このモニュメントはこんなにも生命力をみなぎらせている。それにひきかえ、ひるこはどちらかというと死に近い場所にいる生き物じゃないか。彼女が言っていたえびすとひるこの共通性なんて、信じられるものか。なんでもかんでも何かのメタファーじゃないかと思うなんて、よくない癖だ。気を付けないと。そんなことをひとり考えていると、ぽつりぽつりと雨がからだにあたる感覚がある。降り出したか。と思うと急に、雨脚が強くなりだした。あわててひとまず塔に向かう。雨を避けられそうな建物は、このあたりでは駅とこの塔だけだ。塔の方が近い。


 塔には入口があった。あたりにひとは誰もいない。扉を開けて中に入る。扉を閉めると激しい雨の音が遮断されてしんとする。内部は明るい光で照らされていて、それが白い壁に反射している。眩しいくらいだ。扉を入ってすぐに上へ昇る階段があった。階段の三段目に古びた看板が立っている。展望レストラン。そういえばそろそろ昼食時だ。朝食を自宅と喫茶店であわせて二回も食べたのでさほど空腹なわけでもないが、塔の内部に興味がわいたので階段を上がることにする。らせん状に塔を昇っていくようだ。ここの階段に限らず、らせん階段を昇ったり降りたりするときには、いつもDNAを思い出す。デオキシリボ核酸。生物の遺伝情報が詰まっているというその物質。しかし思い出すのはその性質ではなく、二重らせんのかたちだ。不思議なうつくしさを感じる。そして異界へとつながるような気配も。たとえば、いま昇っているらせん階段のほかにそれと対称の知られざるもうひとつのらせん階段があって、こちら側のらせん階段を昇っていくと、そちら側では降りていくことになり、どこかの一点でふたりの自分が出会うというような。五分ほど階段を昇ったが、まだレストランには着かない。思ったよりも長い階段だ。レストランまであと何段、などの表示があればいいのだが。窓もないので、どこまで上がったのかもわからない。照明の明るい光に照らされた白い壁と白い階段。頭上には数十秒後に歩くことになる階段の裏の面が斜めの天井になっている。もしかするとこの階段は非常階段か何かで、階段を昇りはじめる前によく見ていたらどこかに展望レストラン行きのエレベーターがあったのかもしれない。いっそ入口に戻ってエレベーターを探したほうが早いような気もするし、もしかしたら半分以上昇っているのかもしれないのでこのまま昇った方が早いのかもしれないし、判断に迷う。人間は二通りにわかれる。こういう場面で戻るタイプと、そのまま進むタイプ。迷っている間にも足は階段を昇っている。あと五分歩いても着かなかったら引き返そう。そう思って何段か上がると、らせん階段の内側の壁に水槽が埋め込まれていた。水槽は淡いグリーンの光を放ってさらに上まで続いている。まるで水族館に迷い込んだようだ。ただし淡水の。けれどもなにか魚が泳いでいるというふうでもない。気になるので水槽の中を、目を凝らしてよくみてみたが、メダカのような小さい魚がいるわけでもなかった。なんだ、何もいないじゃないか。もしかすると、最初はいたのかもしれないが、予算不足で手入れがおろそかになり、いつの間にか水槽だけが残ってしまったのかもしれないな。そういうことはよくあることだ。ひとまずそう合点しておく。気にしてもしようがない。水だけが入った水槽が壁に埋め込まれたらせん階段を引き続き昇る。進むか戻るか思案した場所からちょうど五分ほど歩いたところで階段は終わり、踊り場のような広いスペースに出た。その向こうにはレストランの入口が見える。展望レストラン。味もそっけもないその店の看板。店名らしきものは見あたらない。とりあえず透明のガラス扉を押して店内に入る。塔の上にあるわりには思ったよりも店内は広かった。外から見たときには気付かなかったが、小さな透明の丸窓が壁の周囲にしつらえられている。外の雨のせいで、光はほとんど射し込んでいない。店内の照明の明るさも落ち着いていて階段ほど眩しくもない。店内はほぼ満席だった。ざっと40人はいるだろうか。階段を昇っているときには誰ともすれ違わなかったが、やはりエレベーターがどこかにあったのだろうか。レストランの入口周辺にはエレベーターは見あたらなかったように思うが。テーブルは余裕のある間隔で10卓ほど並んでいた。騒がしいというほどではないが、それぞれのテーブルでは穏やかに談笑している気配がある。平日の昼間にこんなところで食事をたのしむのはどういうひとたちだろう。店の制服を着た青年が近づいてきた。おひとりさまですか? うなずくと、青年はカウンターの席に案内してくれた。カウンターの席からは厨房のなかの様子がよくみえる。厨房の中には料理人がひとりいるだけだ。ひとりでこれだけの人数の客に料理をつくるというのは、たいへんだろう。かなりの腕に違いない。手際の良いきびきびとした動き。しばらく料理人の動きに見とれていると、先ほどの青年がグラスに注いだ水とおしぼり、それからメニューを持ってきた。らせん階段を昇ってきたせいで喉が渇いている。水を一息で飲み干す。おしぼりはやはりタオル生地で熱々だった。心地よい熱さに包まれて手を拭いながらメニューを見る。本日のランチ。一種類のみ。他の選択肢はないようだ。スープ、サラダ、パスタ、エスプレッソ。じゃあこれでお願いします。かしこまりました。必要なのか、このやりとり。すぐにスープとサラダが運ばれてきた。オニオンスープとシーザーサラダ。なんということもないありふれた見かけだ。しかしその考えは誤りだとわかる。スープをスプーンで口に運ぶと熱すぎずにほどよい温度で舌に触れる。そして味覚が驚く。おいしい。さっぱりとした上品な味付けながら、しっかりとたまねぎの旨みをひきだしている。サラダはどうか。フォークでレタスをすくいとり口に入れる。これもおいしい。瑞々しい香りがかすかな苦みとともに口に広がる。パスタの登場を待ちきれずにあっという間にスープとサラダをたいらげてしまった。パンが運ばれてきた。今度はさきほどの青年ではなく女性の店員だった。制服がかわいい。かごの中に5種類ほどのパンが入っている。お好きなものをお選びください、パンはいくつでもおとりいただけます。じゃあこれとこれで。かしこまりました。パンをふた切れ、皿に移してくれる。こういうとき、食べられる分よりも多く欲しがるひともいるが、そういうのは好きじゃない。食べ過ぎたり残したりするのは趣味が悪いと思う。おなかはいつも腹八分目が心地よい。香ばしくて温かい焼きたての小麦の匂いが空気を通して直接味覚に触れてくる。匂いにも味がある。すぐにも味を試してみたいがさすがにパンをかじりながらパスタを待つのもどうかと思い、それはどうにか我慢する。店内を見渡す。客の層もまちまちだ。スーツを着た会社員風のグループ、家族連れ、カップル。どの客も品がよく、顔つきも美しい。座っているので確かなことはよくわからないが、スタイルも均整がとれているように思われる。声の大きな客もいない。レストラン全体を適度に落ち着いた空気が満たしている。いい店だ。ここで気付いたのだが、店内に音楽は流れていない。BGMには頼らないということか。パスタが運ばれてきた。運んできたのは料理人だ。お待たせいたしました、本日のパスタでございます。深めの皿に盛られたそれはチーズソースが絡まったペンネ、ショートパスタである。真っ白な皿に真っ白なソース、そこに真っ白なペンネ。濃厚なチーズの香りが食欲をそそる。フォークでペンネをすくい、口に運ぶ。芳醇。チーズの複雑な旨みが味覚をよろこばせる。歯ごたえにも独特のものがある。ちょうどよい弾力。ふと横をみると料理人がまだその場に立ったままこちらを見つめている。感想でも確かめようというのだろうか。とてもおいしいですね。気を利かせて言ってみる。お客様、こちらへお越しになる途中の階段で水槽はご覧になりましたか? 料理人が訊く。唐突な問いに戸惑いながらも答える。ええ、空っぽの水槽ですよね、もともとは何かが飼われていたのでしょうか? お客様はプラナリアという生物をご存知ですか? 聴いたことはありますが、よくは知りません、そのプラナリアという生物は魚か何かですか? いいえ、プラナリアは魚ではなくひるによく似た生物で、からだの部分が再生することで知られています、たとえばからだの真ん中で前と後ろに分割すると、分割された前の部分からは後ろが、後ろの部分からは前が再生するのです、脳や目などの器官も完全に、ちなみに前と真ん中と後ろの3つに分割した場合、真ん中の部分からは前と後ろが再生します、これは条件さえ揃えばいくつに分割してもどのように分割しても同じことが起こるそうです。そう言いながら、隣の椅子に腰かけてきた。そして引き続き語る。どういうことかおわかりになりますか? なんとなくそういう話をどこかで聴いたことはありますが、それがプラナリアのことだとは知りませんでした、すごい生物ですね。そうなんです、つまりですよ、もともと1体だったプラナリアは、2つに分割されるとそれぞれに再生して2体に、3つに分割されると3体に、とどんどん増えていくんです。なぜこの料理人はいまこんな話をしているのだろう。そのまま黙って聴いていなければならないのだろうか。目の前のおいしいパスタが冷めていくじゃないか。早くパスタを食べたいのだというように皿をじっと見てみる。しかし料理人はそんなことには気づかないようだ。お客様、ところでプラナリアにはこんな話もあるのです、でもその前に人間の話をしなければなりません、人間は何かを記憶するときに、どこに記憶していると思われますか? とうとう我慢ができなくなったので、率直に料理人に向かって言ってみた。すみません、その話はあとにしていただけませんか、せっかくの料理が冷めてしまいますので。ああ、これはたいへん失礼いたしました、私の話よりも料理を先にお召しあがりになりたいということですね、気がつかず申し訳ございませんでした、それでは話はまた後ほどということで。料理人は立ちあがり、すたすたと厨房に戻っていった。店内の落ち着いた照明の明るさで気づかなかったが、壁の丸窓の外は先ほどよりもさらに暗くなっていた。まるで夜のようだ。おそらく雨はもっとひどくなっているのだろう。ふと思い出す。中学生の頃、友人たちと連れ立って山の中でキャンプをしたときのことだ。何人かで食料の買い出しのためにテントから少し離れた場所にある商店に向かった。歩いて行ったのだが、買い出しを終えてキャンプ場に向かう途中で急に激しい夕立に見舞われた。たまたま近くに廃寺のような建物があったのでみんなでそこで雨宿りすることにした。廃寺の外側に縁側だか廊下だか木の板が敷き詰められたところがあり、そこに腰かけ、足をぶらぶらさせながら雨を眺めていた。ほかのみんなは誰もいない寺の中に入って探検気分ではしゃぎながら、あちらこちらの部屋を動き回っている。けれどもひとりだけ、同じように外に面した板のうえに座って雨を眺めながら足をぶらぶらとさせている子がいた。前から少し気になっていた子だ。これまでにふたりで話す機会はなかったので妙に意識してしまう。しばらく黙っていたが、話しかけたい気持ちが勝って声をかけてみる。ひどい雨だね。当然何らかの反応があると期待していたのだが、返事がない。雨の音にかき消されて聴こえなかったのか。同じことをいうのはつまらないと思ったので言い方を変えてみる。いつごろやむかな? すると顔の向きを変えることなくこう返してきた。静かにして。そのことばには理由を聴き返すことを許さないきっぱりとした響きがあった。黙るしかない。再び沈黙があたりを包み込む。雨が寺の屋根や庭の樹木の緑の葉を打つ音が聞こえるだけだ。ぶらぶらさせていた足もいつしか止まり、静寂の時が流れる。あるいは時が止まったかのようにふたりは景色の一部になる。絵のなかに入り込んでしまったのではないかと感じる。確かにいま、雨は激しく降っている。けれどもその音はどこかに吸い込まれて消えてしまった。止まってしまった世界のなかで、ただことばだけが頭の中にぼんやりと浮かんでは消えていく。このことばはだれのことばなのか。まるで自分のことばではなく、この瞬間そのものがことばを発しているような感覚。自分と世界の境目がわからなくなる。目を閉じる。目を開ける。目の前にはパスタが置かれている。そうか、ここは塔のうえのレストランだった。チーズソースをからめながらペンネをいただく。やはりおいしい。あっというまにたいらげる。そのあともしばらく口の中には濃厚な味わいが残っている。紙のナプキンで口のまわりをていねいに拭く。性格の問題か、いろいろな味が口の中で混ざるのが好きではない。パスタを食べ終えたのを見計らって再び料理人が厨房から出てきた。カップとソーサーをカウンターに置く。一瞬、エスプレッソの香りがチーズソースの味わいに混ざる気がする。けれどもひとくち飲めば口の中はエスプレッソの苦みで上書きされる。この濃い苦さがおいしい。隣、よろしいでしょうか? そう言いながら料理人は再び隣に座った。もう食後なので断りはせず、料理人のおしゃべりに付き合うことにした。先ほどの話の続きなんですが、人間はどこに記憶をしていると思われますか? そりゃあ脳でしょう。そう思われますよね、普通は。違うんですか? プラナリアについてこんな実験があるんです、プラナリアは光を嫌うんですが、訓練して光のある場所に餌があることをプラナリアに覚えさせて、その後にそのプラナリアを前と後ろに分割するんです、するとそれぞれが失った部分を再生するのは先ほどご説明した通りなんですが、再生したそれぞれのプラナリアを光のある場所に餌があるという環境におくとどうなると思いますか? 難しい質問ですね、そもそもプラナリアには脳はあるんですか? ええあります、頭の部分、つまり前の部分にあります。それなら前の部分から再生したプラナリアなら脳が残っているので餌のある場所を覚えているかもしれませんね。そうお答えになると思っていましたよ、ところが前の部分から再生したプラナリアも後ろの部分から再生したプラナリアも、どちらも覚えていたんです。そうなんですか? そうなんです、つまりプラナリアが記憶するのは必ずしも脳とは限らない、たとえば脳以外のどこかの部分で記憶しているのかもしれない、あるいは脳を再生するときに後天的に獲得した記憶を含めて再生できるかもしれないということなんです。それは興味深い実験結果ですね、つまりプラナリアの実験から想像を膨らませると、人間の記憶も脳だけで記憶しているとは限らないのかもしれないということですね。その通りです、たとえば習慣として繰り返し行っている動作などは、そのからだの部分そのものが記憶しているのかもしれません。なるほど、スポーツ選手や楽器の演奏者なんかはそういうことを経験的に感じているかもしれませんね、頭で考えるよりも先にからだが動いているみたいな、でもあれもやっぱり脳が考えていることには違いなくて、ただその脳の考える過程が訓練によって通常のひとよりも効果的にショートカットされているだけなんじゃないですか。そうでしょうか、私はときどき考えるんです、たとえば臓器の移植なんかがありますよね、あれなんかでいうと、臓器に含まれるドナーの記憶がその臓器ごとレシピエントに移る、なんてことがあるんじゃないでしょうか? たとえば角膜を移植されたひとが元の持ち主が生前に見た光景を記憶のなかで見てしまうとかいう話はありますよね、でもそれはドナーの記憶が臓器ごとレシピエントに移ったというのではなく、単にレシピエントの想像の産物でしょう、SFやホラーならおもしろい発想かもしれませんが、現実的ではありませんね。では、あなたは信じないのですね。信じるも何もそんな荒唐無稽な話。そうですか、それなら仕方がありません、私があなたにお話しできることはここまでです。はあ。ところで先ほどあなたが召し上がったチーズソースの絡まったパスタのお味はいかがでしたか? ああ、とてもおいしかったですよ、あのペンネは歯ごたえが珍しかったですが。あれはペンネではありません。あれっ、あのパスタのかたちはペンネっていうんだと思ってたんですが違いますか? そうそう、あなたがこの店に来られる途中で通ったらせん階段のところの水槽ではプラナリアを飼育していましてね、こちらでは食材としてお客さまにご提供しているんですよ、歯ごたえが独特だといって評判で…

 急に吐き気を催したのでトイレに駆け込む。胃の中をすっかり吐き出してトイレの個室から出るとどういうわけかそこには女性の店員が立っていた。パンを運んできた店員だ。体調を気遣って様子を見に来てくれたのか。大丈夫ですか? 声を掛けてくれる。うんざりしながら答える。ええ、なんとか、それにしてもとんでもないものを客に出すんですね、この店は。誠に申し訳ございません、けっしてそういうわけではないんですよ、あれはお客様のおっしゃった通り紛れもないペンネです。意外なことばが返ってきた。そうなんですか、ならどうして料理人の方はさっきあんなことを。彼女はすまなさそうな顔で言う。シェフは悪い冗談が好きで、ほんとうに申し訳ございません。こんなに謝られたら怒る気力が失せる。機先を制せられたようだ。もういいです、けれどももうここにはいたくありませんので、会計をお願いします。彼女は慌てて首を振る。あわせて両手も振っている。いえいえそんな、お代なんてめっそうもございません、結構です。えっ、そうなの、それじゃあ。ここはあっさり引き下がることにする。さてここにはもう用はない。しかし帰りもあのらせん階段を使わなければいけないのかな。きっとエレベーターがあるに違いない。エレベーターはどこにあるの? 申し訳ございません、当店にはエレベーターはございません、お帰りの際はらせん階段をご利用ください。嘘でしょ、あんなにたくさんのお客さんがみんなあのらせん階段で上がってきたなんて信じられない。そういうと彼女は、何かに気づいたような表情でこう言った。ああそういうことでしたらこちらへどうぞ。なんだ、やっぱりあるんじゃないか。そう心のなかで思いながら彼女に着いて行く。


 着いて行った先には白い扉があった。彼女が扉を開けるとそこは屋外だった。つまり塔の上層部から外への扉。どうやらモニュメントから突き出した腕の部分につながる扉のようだ。白く照らされた明るい壁から長方形の扉のかたちに区切られた濃い灰色の空。雨が激しく降っているのが見える。あっけにとられる。これはいったい? はい、いまご来店のお客様はみなさんこちらから当店にお越しいただいている方々です。すぐには意味がわからない。しばらく考えてみる。けれどもやはりわからない。店員はからかっているふうでもなく澄ました顔で立っている。こちらからっていったいどうやって? 尋ねてはみたもののこの問いにまともな答えが返ってくるとは到底思えない。この扉から出られたらすぐにわかりますよ。こともなげに彼女が言う。出るってここは何メートルの高さなの? 30メートルですので、ちょうどふつうのビルの8階くらいの高さです。会話の間にも激しい雨が扉の向こうから吹き込んでくる。戸惑いながら吹き込む雨を見ていると、背後からひとが現れた。店員に会釈して扉から出ていこうとする。先ほどテーブルで食事をしていた客のなかに見かけたひとのような気がする。50代くらいの紳士だ。彼女が見送りながら言う。ありがとうございました、またのご来店をお待ちしております。紳士は扉から激しい雨の降る屋外へ一歩踏み出した。踏み出した? ここはどこだ? モニュメントの腕の部分だ。大丈夫なのか? しかも傘も差さずに。紳士はいつもそうしているというようにモニュメントの腕の部分を先の方に向かって歩いていく。とはいえ外は激しい雨。かなり歩きにくそうだ。特に滑りやすいというわけではなさそうだが、そうかといって滑りにくく加工されているわけでもなさそうだ。というより、歩いて行った先にいったい何があるというのか。まさかそこから飛び降りるというわけでもないだろう。いや、待てよ、モニュメントの腕と思っていた場所は実は翼なのかもしれない、それならばその翼がひとに影響して空に飛び立てるようになるなんてことがあるのかも。どうやら疲れで判断力が鈍ってきているようだ。ありえないことが脳裏に浮かぶ。やはり紳士に翼が生えてくる気配も空に飛び立つ気配もなく、覚束ない足取りで濡れて滑るモニュメントの腕を先に向かって歩いていく。よろよろと危なっかしい歩き方だ。無理もない。ここは30メートルの高さであり、落下防止の柵などもない。それに平坦ではなく進行方向、腕の先端に向かってはわずかに反りあがっており、また左右は中央部分を峰にして丸みを帯びながら下がっている。少しでも油断すると、足を滑らせて真っ逆さまに落ちてしまうだろう。しかもこの激しい雨だ。それでも紳士は進んでいく。いったいこの先に何があるというのか。見ず知らずの紳士がどうなろうとも構わないはずなのだが、反射的に心配な気持ちになってしまう。しばらく様子を見続けていると、ようやく紳士がモニュメントの腕の先端にたどり着いた。そのままそこでじっと立っている。すると通路の背後に気配を感じ、振り返るとそこにまたひとが現れた。今度はひとりではない。たくさんのひとが列になって扉を抜けていく。激しい雨の降るなかを、足を滑らせないように注意深く歩いていく。やはりレストランのなかで見かけた客たちのようだ。間隔を空けず、ほとんどくっつくように連なっているので歩きにくそうなうえ、だれかひとりでも滑って転べば、連鎖的に全員が道連れになるだろう。奇妙な光景だと思いながらも同時に、こういうこともあるのかもしれないという気持ちにもなっている。慣れてきたとでもいうのだろうか。それにしても次から次へとひとが現れる。店内にこれほどたくさんの客が入っていたとは思えない。モニュメントの腕の上にひとがひしめきあっている。急に誰かに背中を押された。そのまま扉から押し出される。雨が顔に振り付ける。誰に押されたか振り返ろうにも、前後にひとが密着しているせいで横を向くのがやっとだ。首をひねって横を向くとはるか下に地面が見えるはずだが、雨にかすんでいて視界が悪い。ここがビルの8階の高さだということを考えると足がすくむ。しかしそれでもどんどん先に押されていく。もはや自分で歩いているわけではない。やがて前が詰まり切り、もうどうにも先に進めなくなったとき、ようやく後ろを振り返ることができた。後ろには例の女性の店員がいた。怒りがこみあげてくる。なぜ押したんですか、こんなところには来たくなかったのに。雨のせいで声が吸い取られるのか自分の耳にすら声が届かない。少し声量を上げて繰り返す。こんなところには来たくなかったのに、どうして押したんですか? 申し訳ございません、お客様、私にもどうすることもできなかったのです、なにしろ後ろから一度にこれだけの人数に押されてしまったのですから。同じように大声で彼女が答える。そんな言い訳はききたくありません、いったいこれからどうしてくれるんですか、この危ない状況はふつうじゃありませんよ。怒鳴るように抗議をすると店員はわりと平然とした顔でこちらに顔を近づけて言った。いえ、別に危ない状況ではありません、間もなくここに迎えが参りますので、それまで雨に濡れますが、どうかご辛抱願います。こちらも彼女の耳元に口を近づけて言う。迎えが来るってどういうこと、こんなところに何が迎えに来るっていうの? この塔の腕の部分がひとでいっぱいになると迎えが来ることになっているんです、ところでお客様は無についてどのように考えてらっしゃいますか? な、なんなんだこの質問は? 突拍子もないとはまさにこのことだ。いま彼女が口にしたことばの意味は1パーセントも理解できなかった。しかもこんな状況でこんな質問をしてくるなんてどうかしている。怒りを通り越して戸惑いの感情が湧いてくる。しかしこんなところで取り乱しては冷静な判断ができなくなり、より危険が増すだろう。イチ、ニー、サン、シー、ゴー、ロク。6秒、心のなかでカウントする。怒りが鎮まり冷静さを取り戻す。そして彼女とは反対側、前を歩いていたひとたちの様子をうかがう。足元の不安定さにはかなり注意しながらも恐怖を感じているふうでもなく、慣れた感じにも見える。背後の彼女のさらに後ろのひとたちの方を振り返っても同じような表情で立っている。もしかすると自分がたまたま知らないだけで、こういう状況は特異でも何でもないのではないのか? そんな気がしてくる。しばらく無言でいるのが気になったのか、彼女は心配そうな表情で顔を覗き込むようにこちらを見た。そして安心したように微笑むと、ふたたびこう言った。無についてどのように考えてらっしゃいますか? いいだろう。答えてあげよう。落ち着きを取り戻したのでそんな気分になり、やはり彼女の耳元に口を近づけてあまりにも当然のことをそのまま口にした。無っていうのは何もないってことでしょ。彼女はその答えを予想していたかのようににこりと笑い、顔をさらに至近距離にまで近づけて、そしてこちらの目をしっかりと見つめながら言った。いいえ、無は何もないということではありません、そもそも何もない状態というのはこの世界ではありえないのです。彼女の吐くあたたかい息が雨に混ざりながら顔にあたる。意味はわからないがこちらを見つめる彼女の目には少しの迷いも冗談の気配も見当たらない。厄介なことになった。またこういうよくわからない問答に付き合わされることになってしまったようだ。今日はほんとうについていない。激しい雨の中、足元も覚束ない地上30メートルのこんな場所で、いったい何をやっているのだろう。もちろん自分に問うても答えなど見つからない。自分の意志でここに来たのではないのだ。黙っている理由を忖度するふうでもなく彼女は勝手に話の続きを始める。互いの顔はすでに鼻と鼻とが触れ合うほどに近い。この世界は、ある、ことが前提の世界なのです、ない、ということはこの世界にはありえません。それはおかしいんじゃないかな、無っていうのはゼロっていうことでしょ、ゼロっていうのはつまり、ない、っていうことじゃないの。ついつい真面目に応答している自分が馬鹿らしく思えて苦笑する。確かにゼロは無ですが、ゼロは、ない、ではありません、ゼロはプラスとマイナスが均衡している状態、つまりプラスマイナスイコールゼロの状態です、この世界はかつて、正のある、と、反のある、がそれぞれきっかり同じ量だけ存在し、正確にバランスを保っていたのです、つまりこの世界はかつて無でした。頭のあたりに熱を感じ始めた。からだじゅうが火照ってきたような気もする。これだけ長い時間、激しい雨にさらされていれば、熱が出るのは当然のことだろう。目の前がくらくらしてくる。話し続ける彼女の目にも焦点が合わなくなってきた。焦点の合わない目を彼女の目から外し、前後に並ぶひとたちを見る。咄嗟に気づく。後ろにいたはずの彼女が前にいる。いや後ろにもやはりいる。それだけではない。前の彼女と後ろの彼女のそれぞれ向こう側にいるひとは、とても似ている。似ているというより鏡に映った同じひとのようだ。さらにその前後にも同じひとたちが対称に並んでいる。不意に料理人の話を思い出す。プラナリアの再生。2つに分割された人間もプラナリアのようにふたりに再生するのだろうか。視界が不安定になるにつれ、聴覚が研ぎ澄まされてくる。雨の音が過剰なくらい鮮明に聴こえてくる。うるさい。足元がふらついてくる。そのとき、先頭の紳士があまりにもあっけなく滑って転んだ。そして当然のようにそれは後ろのひとに影響し、ドミノ倒しのように次々と転んでいく。ここは地上30メートルのモニュメントの腕の上。雨で滑る。あっと思う間もなくばらばらと転落していく。転落の順番は迫ってくる。5人前、4人前、3人前、2人前、1人前の店員、そして。バランスを保とうと必死に踏ん張る両足も空しく滑る。何の抵抗も受けることなく身体が宙に滑り出される。転落。なるほど身体は頭が重くできているようだ。やがて頭が下になる。首を曲げて落ちていく方向を見る。雨にかすんで見えなかった地面がようやく見えた。見覚えがある。今朝、喫茶店で渡された茶封筒のなかのパンフレットにあったジャングルの写真。まさかこんなところにジャングルがあるはずがない。いや、それともあのパンフレットはここを示していたということか。ジャングルのように設計された公園というのはあり得る。そういえばあのパンフレットが入った茶封筒はレストランに置きっぱなしだ。もう取りに戻って確かめることもできないだろう。なぜならばこれでもう終わりだから。走馬灯のように記憶が巡るわけでもなくそんなことを思い、諦めの境地に至る時間も与えられぬまま地面に追突かと思ったそのとき、何かが体に触れる。柔らかくも弾力のある枝とそこに付く大きな葉。それは次から次へと体を迎える。落下の速度が弱まる。そして最後に水面にぶつかる軽い衝撃。そこで意識を失った。


 ずぶずぶと何かが沈む音が聴こえる。意識が少しずつ鮮明になっていく。雨粒が顔に降りかかる。皮膚は生温かいゲル状のもので覆われているように感じる。ようやく目を開くとそこは沼だった。どうやら生きているようだ。しかし危機を回避したわけではなさそうである。ずぶずぶという音は自分の身体が沼に沈んでいく音だった。沼はドロドロとしている。身体がすぐに沈んでいかないのはこの沼の粘度の高さのせいか。それは幸運でもあり不運でもある。残念ながら身体の自由が利かず容易には抜け出せそうにない。身体の向きを変えるのもままならない。手足を動かそうとすればするほど沈むのが速まるようだ。焦ってもがいてはいけない。こういうときには落ち着いて対処法を考えるべきだ。危機の時ほど落ち着きが必要だ。それは知っている。ふと右手が何かに触れているのを感じる。なんとかそちらに目を向けるとそれは何か太い蔓のようなものである。試しに引いてみると手ごたえがあった。どうにか両手でそれを掴み、力を入れて引っ張ると、身体が引き上げられる感覚があった。この蔓は沼の岸に立つ巨木から伸びている。降りつける雨のなか蔓を手繰り岸に向かう。やがて岸にたどり着いた。力を振り絞り両手で地面を押して沼から這い出す。助かった。どさり。うつぶせに倒れる。ようやく視界が広がる。鬱蒼と生い茂る樹々の葉。濃い緑。灰色の空。ここはまさにジャングル。落下してから岸に上がるまでの視界の狭さを思い出す。何かに集中しているときには視野が狭くなる。それは生き延びるための身体機能なのだろう。目に雨粒が入ってくる。まばたきを繰り返す。意識とは裏腹に身体の力が抜けてくる。ほっとしたのがいけなかったのか。まだ安全が確保されたわけではないだろう。それでも身体の疲労につられるように意識も遠のいていく。耳を打つ雨の音だけがやけに騒がしい。


 強い光が眼を射る。完全なる静寂。静寂が聴こえる。静寂には音がある。無音という音。ときに静寂は喧噪よりも騒がしい。人間は無音には耐えられない生き物である。なぜか。自らの位置を見失うからである。だから、なんとか音を聴こうとして自らの細胞が騒いでいるというのもあながち妄言ではないだろう。ところで、皮膚の上に何かねっとりとしたものが貼りついているような気がする。吸いついているといってもよい。もぞもぞと這っているようにも感じる。思い出して目を開く。灰色の空。灰色の雨。右手を見る。手の甲に何か白いものが貼りついている。1~2センチくらいの細長い物体。目を凝らしてよく見るとそれはひるのようだった。慌てて払いのけようとするが力が出ない。身体が思うように動かない。身体を起こすこともできない。塔の腕から落下したときの衝撃でやはり全身を痛めているのか。けれどもほとんど痛みを感じないのはアドレナリンのせいか。よろよろと左手を右手の甲に重ね、ひるのようなものに触れる。それは粘膜で覆われており、吸盤のようなものできつく皮膚に吸いついていた。容易には払いのけられない。爪を立てて剥がしにかかる。うっかり手が滑り、ひるのようなものの腹のあたりに爪をひっかけてしまった。ぷちっ。体液が飛び出すかと思ったが何も出てこなかった。そのかわりに腹のあたりで分かれたそれぞれの部分から、失われた部分がにょきにょきと再生し始めた。なんだこれは。プラナリアの再生? そんな馬鹿な。プラナリアに吸盤はない。仮にこれがプラナリアだとしてもこんなに速く再生しないのではないか。再生を終えたそれらは、きれいに並んでふたたび右手の甲に吸いついている。脇に転がっていた小枝を左手で拾い上げ、右手の甲に吸いつく白い物体をこそぎ落とそうと試みる。ところが、今度は爪をひっかけたわけでもないのに枝が触れただけであっさりと2つの物体がそれぞれさらに2つずつに分かれ、やはり先ほどと同じように再生を始めた。これで都合、4つの物体になってしまった。これはまずい。うかつに手を出せば、倍倍に増えていく。今のところ気味が悪いだけで実害は何もないのだから、このまま放置しておく方がよいのだろうか。ところが、次の瞬間には、何もしていないのにその4つの物体はそれぞれまた2つずつに分かれ、再生を始めた。これで8つ。と思うと瞬く間に16個に。すでに右手の甲を覆いつくし、袖の中にまで侵入してきている。何とかしなくてはならない。気は焦るが、やはり身体は動かない。なすすべもないまま、白い物体が全身に広がっていくのを感じる。衣服の内側でもわかる。ねっとりとしたものが吸いついているのが全身の皮膚を通じて感じられるからだ。それは胸のあたりを通過し、襟からもはみ出してきた。首に、あごに、頬に額に。そして、どうしてそうなるのかわからないが口と鼻とをふさがれた。呼吸ができなくなる。それだけでなく、ねっとりとした粘膜が不快感を増す。とうとう眼球にまで吸いついてきた。反射的にまぶたを閉じると、そのせいでまたその物体は2つに分かれて。


 強い光が眼を射る。明るすぎる蛍光灯と白すぎる天井。室内のようだ。慌てて全身を見る。ひるだかプラナリアだか、そんなものはどこにもいなかった。なぜか着ていた服が変わっていることに気づいた。まるで部屋着のようなリラックスしたものを身に着けている。白すぎるシーツを敷いたパイプ式のベッドの上で寝ていることもわかった。全身がとてつもなく痛い。それでも起き上がろうとすると声がして誰かに制止された。まだ起きない方がいい。声の方を見る。そこには上司がいた。これはいったいどういうことか。なぜ? 素直にそう口にする。ここは事務所の医務室だ、公園で気を失って倒れていたきみをここまで運んできたのだ、気分はどうかね? その質問に答える替わりに、また上司に問いかける。なぜ居場所がわかったんですか? レストランのシェフから連絡があったのだ。どうしてシェフがこちらに連絡をしたのですか、私がこの事務所に属していることがなぜわかったのですか、そもそも救急車を手配して病院に運ばれるとかそういうことになるのでは? 頭が整理できないまま矢継ぎ早に質問する。いや、質問というよりもほとんどひとりごとのように。それはまたあとで説明する、ところでこんなときになんなのだが所長がきみと話をしたいそうだ。所長? これまでに所長の姿を見たことはない。名前はもちろん性別も年齢も知らない。それは仕事に直接関係がなかったからだ。いままで気づかなかったのだが、部屋の隅にひとが立っているのがわかった。見覚えがある。今朝、喫茶店で見た女性だった。まさか彼女が所長だったなんて。何をそんなに驚いた顔をしているの、私が所長であることがそんなに意外だったのかしら、まあいいわ、今日はほんとうにいろいろとあったようね、お疲れさま。さらりと言うが、うまく事態を呑み込めない。混乱して何もことばを返すことができない。しばらく考えたがことばをひねり出すのは諦めた。所長から視線を外し白すぎる天井を見る。けれども白すぎる天井は距離感をつかみにくいため焦点がどこにも合わず、視線が虚空をさまよう。眠気が襲ってくる。理解しがたいこの状態からの逃避を身体が求めているのかもしれない。まぶたを閉じる。

 すると右足の爪先に何かが触れた。ひとの手のようだ。少し冷たい。その手が右足の指の腹をきつく押し始める。痛い。思わず声をあげる。大丈夫。所長の声が言う。目を開けると、右足の指を押しているのは所長の手だった。疲れているでしょうから目は瞑っていてもいいわよ、でも眠ってはだめ。おとなしく言われたとおりに目を瞑る。しばらくそのまま足の指の腹を押されていると、痛いのは痛いのだがその痛さがだんだん気持ちよくなってきた。これは指圧? 所長がなぜ? 次に所長の指は足裏の指の付け根のふくらみに移る。両手で包み込み、親指で押している。足の甲に触れる4本の指の細さがわかる。けっして強い力ではないのだが、弱すぎるというわけでもない。ちょうどいい強さ。そう表現するしかない。そして所長の指は少しずつ土踏まずに移り、やがてかかとに到達する。この不可解な状況にもかかわらず、意志とは無関係に痛さと気持ちよさの入り混じった快感の波がふくらはぎからふとももへと下半身を伝ってくる。指圧とはこんなに気持ちのいいものだったのか。それとも所長の腕が良いのか。すごく気持ちいい。単純にそう思う。そしてその気持ちよさを拒否することができない。あっさりと受け入れてしまう。この状況のなかそれでいいのかと一瞬は自問するが、長続きはしない。肉体は自動的に刺激に反応する。そして肉体への刺激はそのまま意識に反映する。つまり意識は肉体に支配されている。快感を呼ぶ刺激の前で理性はあまりにも無力だ。とろけそうになる。眠ってはだめ。所長の声がまた聴こえる。

 私たちの組織はこの世界のアンバランスを維持することを目的として活動しています、それはあなたもわかっていますね? ええ、もちろんです。では、なぜそうするのか、その理由はわかっていますか? いえ、組織では理由を問うことは禁じられているのではありませんでしたか? そうですね、けれどもあなたが望むなら理由を説明しましょう、もちろん私もすべてを知っているわけではありませんが、でも、その前にあなたの見解をきかせてもらえるかしら。足の裏に刺激を与え続けながら所長が問う。答えるべきかどうか迷う。なぜいまこのタイミングでこの問いが所長から投げかけられたのか。知らぬ間に何かをしでかしてしまったのだろうか。そうだ、あのモノレールで出会った二人組。彼らの情報をまだ組織には伝えていなかった。なにしろそれどころではなかったのだから。おそるおそる所長に話しかける。今日、敵対する組織の二人組に出くわしました、彼らはコーネルのカシオペア#1を運んでいるところでした。そうらしいわね。予想に反して所長はたいして興味もなさそうにそう言った。足の裏を押す指の力にも何の変化もなかった。わずかな力でありながらあいかわらず異常な強度の快感が走り続けている。ほどよい痛みの混じった気持ちよさ。その話はまたあとで訊かせてもらいます、でもいまは私の質問に答えてください。所長が言う。少し集中してみる。確かになにも考えを持っていないわけではない。はっきりとしているわけではないが、それでもなんとなくは自分のなかに自分なりの理由らしきもののイメージがあることはある。何のイメージもなくてもただ組織から出される指示に従えるタイプの人間ではあるが、実際に行動する際には何らかのストーリーをあてはめた方がやりやすいからだ。単におもしろみが増すから、と言ってもいい。ただしそのストーリーの正当性あるいは善悪というものにはほとんど興味はない。ふだんの仕事におもしろみを持たせるために便宜的に想定している組織の活動理由はこうだ。世の中はすべてが公平にできているわけではない。むしろほとんどが不公平であるといってもいい。そしてひとは不公平に対して不満を抱く。不満を抱くひとが増えれば世の中が乱れる。世の中が乱れないようにするために不公平を公平に近づけていこうとする動きが起こる。敵対する組織もそのひとつ。しかしほんとうに不公平はいけないことなのか。不公平によって世の中に動きが起こるのではないのか。たとえば経済的な格差があるからこそ経済は動くのではないか。不公平をなくすことはむしろ世の中の動きを止めることになるのではないか。わが組織が世の中のアンバランスを維持しようとするのはそういう動機である。そんなストーリーである。アンバランスでなければ世界がつまらないからではないですか? そう答えてみる。そうね、たしかに世の中がすべて公平になってしまったらつまらないと感じるひともいるかもしれないわね、あなたの考えも正解ではあるけれども、それは価値観の問題に過ぎないともいえるの、だからそれはひとそれぞれで構わないんだけど、実はそれよりももっと根源的な理由もあるのよ。ここで所長は、そっと足の裏から手を離した。快感の波が余韻も残さずににわかに去っていく。肉体に静寂が訪れる。さっきまでの気持ちのいい肉体の喧騒が懐かしい。所長のあの少し濡れたような細くしなやかな指の感触も。すると所長がベッドの足元にある小さな操作盤のスイッチに触れた。ベッドの上体部分がゆっくりと起き上がる。と同時に上司がキャスター付きの事務用椅子を転がしてきた。ベッドに横付けする。さあこれに座りなさい。上司が言う。所長の顔をうかがうと、どうぞという表情だ。言われるがままにベッドから起き上がり、キャスター付きの事務用椅子へ移ろうと試みる。驚いたことに身体の痛みはかなり和らいでいた。所長の指圧の効果か。足裏のツボへの刺激というものはこれほどまでに全身の痛みを癒すものなのか。とはいえ元の痛みが激しかっただけにそれでもまだところどころに痛みは残っていたので、注意しながら恐る恐るベッドから降り、どうにか椅子に座る。するとその椅子を上司が押し始めた。不思議な感覚ではあるのだがたしかに無理をして歩くよりもこうして押される方が都合がよい。どこかに連れて行かれるのならこの方が楽だし速くもあるだろう。所長が前を歩きドアを開ける。医務室を出るとそこは廊下だったが、いつも通っている事務所の廊下ではないようだ。ここは事務所ではないのですか? 上司に尋ねる。ああそうかきみはここを我々の事務所だと思っていたのだな、いやさすがにあれほどの衝撃を身体に受けたきみをここから遠い我々の事務所までは運べないよ、ちょうどここには我々の事務所の分室があってね。上司がそう答えている間に廊下を抜けて屋外に出るとそこは深い緑に覆われたジャングルだった。振り返って見上げるとそこには塔が夜の空に白く浮かび上がっていた。


 思いがけないほど多くの星が瞬いている。空が迫ってくるような感覚。あれほど激しかった雨があがったあとの空は澄んでいて、月のない夜空には星の光を邪魔するものはない。結局、塔から落下して運び込まれたのは、塔のなかにある事務所の分室だった。この塔のなかに事務所の分室なんてものがあるとは知らなかった。もっとも、自分の通う事務所以外にどこに組織の関係先があるのかなんて知らないのだが。どうやら気の向くままにこの塔にたどり着いたつもりが、なぜかこの塔に引き寄せられていたようだ。この塔のなかに分室があるということで、上司や所長がここにいる理由もなんとなく想像できた。たまたま打ち合わせか何かの用事でこの分室に所長か上司がやってきていて、そこでこの出来事を知ったということなのだろう。あるいは所長や上司はこの場所でこういう出来事が起こるということを予見していたとか。まさかとは思うが、このような状況ではあながちあり得ない話でもないような気がする。ここは星がきれいでしょ、私はここがとても好きなの、天の川がくっきりと見えるでしょ、私たちの太陽もこの天の川を流れる砂の一粒だって知ってる? 塔から出たあと、ひどくぬかるんだジャングルの道を通り抜け、しばらくすると舗装された道に出た。さらに進み見晴らしのよい場所に出たところで、所長が立ち止まって話しかけてくる。どこに向かっているのかはわからなかったのだが、ここがその目的地ということか。それともただ立ち止まってみただけ? たしかにきれいですね、身近にこんなに星の見える場所があるとは知りませんでした。上司が押してくれるキャスター付きの事務用椅子に座ったまま言う。ジャングルのぬかるんだ道はあまりにもキャスター付きの事務用椅子が進むには不向きであり、上司はかなり苦労していたようだ。それに、座っていただけとはいえお尻や腰もずいぶん痛くなっていた。あなたが今夜この公園にいるのはたまたまというわけではないのよ。それはどういうことですか? 誰かにこの場所に来るように指示されたわけでも、自分であらかじめこの場所に来ようと思ったわけでもない。やはり先ほど思い浮かべたように、所長や上司はこのことを予見していたのだろうか? しかし所長はこの問いかけには答えずに空を見上げたまま言う。この世界のはじまりは無でした、私たちはそれを信じています。この世界のはじまりは無。つい最近、どこかできいたことのあるフレーズだ。どこで耳にしたのだったか。そうだ、あの塔の腕の部分のうえでレストランの店員が言っていたのだった。そんなことを思い出しながら黙っていると、所長はかまわず一人で話を続ける。無とは何か、いろいろな考え方があるけれど、私たちの組織が考える無は何もないということではないの、何もかもがありながらすべてが完全に均衡のとれた状態だという考え方なの、時代時代でその都度変わるのであまりこの数字に意味はないけれど138億年前、この宇宙がはじまる瞬間、といっても私たちにはけっして知覚できない、時間ともいえない何か、そこには現在の宇宙に存在するすべてのもの、つまり私たちのような生物も、この空に広がる星も、星と星とのあいだの空間にあるものも、それからダークマターやダークエネルギーと呼ばれるものも、それらすべてのもののもととなるもの、それは素粒子かもしれないし、やはり私たちではけっして知覚できない何かかもしれないけれど、すでにそれで満たされており、そしてそれは完全なバランスで、いわばプラスマイナスゼロの状態だったの、想像できるかしら? ここでようやく所長はこちらを振り返った。上司はいつの間にか足音もなくいなくなっており、ここには所長とふたりだけしかいない。所長の言ったことは塔の腕の上で店員が言っていたこととよく似ている。所長の話の方がより詳しいのではあるが。ということはあの店員も組織のメンバーだということなのだろうか。ここに分室があるのならその可能性もあるだろう。しかしなぜ彼女が組織の目的を知っているのだろう。彼女の方が所長に近い立場ということなのだろうか。そんなことに思いを巡らし、さらに少し考えてからこう口にする。漠然とですが、無っていうのは何もないということだとずっと思ってきました、けれどもそういう考え方もあるんですね、でもそれなら無ということばは誤解のもとになるんじゃないでしょうか、だからといってほかにいい表現は思い浮かびませんが。ことばにとげがあるようにきこえはしなかっただろうかと少し心配になる。けれども、無がすべてある状態だというのはそもそも定義が矛盾しているんじゃないかとか、すべてあるならそれは無とはいえないんじゃないかとか、あえてそんなふうには言わなかった。ほんとうのところ、なぜいま所長がここでこんな話をしているのかわからなかったし、むしろ上司がいなくなったいま、このキャスター付きの事務用椅子は誰が押してくれるのだろうということの方が気がかりでしようがない。いいえ、ことばとしてはほんとうはこれで正しいの、かつて無は私たちの組織が考えるようにすべてがあって完全にバランスがとれている状態をあらわしていたの、それが時を重ねていくうちに、現在のような何もないというイメージに変わってしまったのよ、そもそも私たちの世界はあることが前提条件として成り立っている世界なので、いかなる場合もないという状態にはなりえないの。所長はこちらに向かってゆっくりと歩きながらそう話す。これもレストランの店員が言っていたことと同じだ。近づいてくる所長の顔は少し上気しているようにみえる。そういえば今朝、喫茶店で熱いおしぼりを握りしめしばらくじっとしていたときの快適そうな表情もこんな感じだったような気がする。もしかして所長は話しながら自分のことばに気持ちよくなっているのか? いやこの場所を包み込む地上の完全な暗さと星々のまばゆい明るさとの極端なギャップがそう感じさせるだけなのかもしれない。そもそも所長の口調には興奮の色は少しも感じられない。ごく落ち着いた語り口。やはり気のせいか。これは余談だけど、無に対する誤解は、ゼロに対する誤解と似ているのよ、ゼロは何もないということではないの、とにかくまず何かがあって、その何かにきっちりと対応する反対側の何かが加わってゼロになるの、わかりやすいように数字であらわしてみるけれど、まあ数字なんてものごとの本質を矮小化するだけの数字遊びになりがちなんだけど、たとえば10-10=0というのは、ほんとうはまず10があってその10にきっちり対応する反対側の10、これを-10とあらわすわけだけどそれらを重ね合わせて0になるの、これを数式にあらわすと10+(-10)=0となるんだけど、これはつまり10と-10の均衡がとれた状態なの、それからプラスとマイナスの分量が異なる場合、たとえば10-3=7というのは、10が3減って7になったということではなくて、10は10のままで、そこに反対側の3つまり-3というものを重ね合わせて、見かけ上7になったというだけで、10も-3もそのままそこにはあるということになるの。できるだけ頑張って理解しようと努めたが、やはり無理だった。所長自身が言っていたように、ただの数字遊びにしか聞こえない。そういえばちょうどプラトンの書いたソクラテスの話にこういうのがあったような気がする。ところで所長の輪郭の向こうに広がる星空に、さっきから何度か流れ星があらわれた。流れ星というのはこんなに頻繁に見られるものなのだろうか。それともいまは年に何回かある流星群の時期なのか。とにかく近くにこんなにきれいに星が見える場所があるのなら、これからはここに星を見に来よう。いや待てよ。なんだかおかしい。都市の近くでこんなに鮮やかに星が見える場所だというのに、ほかにひとが誰もいないというのは変ではないか。たしかに今日は平日で、しかも昼間は大雨だったが、それでもこんなに星空観察に適した場所に誰もひとがいないなんてことがあるのだろうか。そんなことを考えているとふたたび所長の声が聞こえてきた。少し余談が過ぎたようね、つまり無もゼロも何もないということではなくてプラスとマイナスのバランスのとれた状態ということ、もちろん単純な二項対立ではなくて、無数の要素が組み合わさってできているバランスで、それからプラスとマイナスの概念もどちらが良くてどちらが悪いということではなくて、この世界の私たちがたまたまプラスをプラスと呼び、マイナスをマイナスと呼んでいるだけのことで、これらは簡単に反転するというか、ただの立場の違いというか、価値判断の対象にはならないの、ところであなたは現在のこの世界はなぜあるが前提条件になっているかわかるかしら。突然難しい質問が飛んできた。どう答えればいいのだろう。そもそもどうしてこの質問に答えなければならないのだろうか。いまのこの状況はいったい何なのだろう。すみません、正直なところ所長のおっしゃる話の意味がよくわかりません、あるとかないとか、プラスとかマイナスとか、バランスとか、なぜいまここでそんな話をされているのですか? とうとう我慢しきれずに尋ねてしまった。所長は少しはっとしたような表情を浮かべ、けれどもすぐに何かを考えるように沈黙した。流れる静寂の時間。あるいは時間はほとんど経っていなかったのかもしれない。この場所では時間の感覚がいつもと違う。ある一点を中心にして夜空が回転している。地軸の果てのある一点。ごめんなさい、あなたには伝わると思っていたんだけどやっぱりちょっと唐突だったかしら。所長がつぶやく。しかたがないわね、でもとてもたいせつなことなのでこれだけは言わせてもらうわ、完全にバランスのとれた状態では、あなたも私も、この星もこの宇宙も存在しなかったということなのよ。それこそいよいよ唐突だ。所長はここにきて大胆に説明を省略し、大急ぎで核心に迫ろうとしているようだ。まあどのみち興味はないので構わないのだが。所長は続ける。あるとき何かの弾みでその無のバランスがほんの少しだけ崩れたの、もうほんとうにほんとうに微細なバランスの崩れ、けれども完全なバランスにとってはそんなわずかな崩れでさえ、大きな変化につながるきっかけとしては十分だったのよ、何者も知覚できないほんのわずかなバランスの崩れは静かな水面に起こった波紋のように次から次へと広がっていき、それはやがて質的にも量的にも爆発的にバランスを崩していったの、そしてそのバランスが崩れる経過の途中にいまの世界もあるということなの、つまりこの世界はバランスが崩れているからこそ成り立っているということ、見方を変えれば、もしも再び完全にバランスがとれた状態になればこの世界は無になるということなの、だから私たちの組織はこの世界を守るために世界の前提条件であるアンバランスな状態を維持しようとしているのよ。なるほど。所長はこれが言いたかったということか。あまりにも荒唐無稽であまりにも強引な物語だ。これこそまさにことば遊び。物質の問題と状況の問題がごちゃごちゃに混ざっている。この世界の前提条件なるものも、あるということだったり、アンバランスな状態であるということだったり、整理がついておらず、まったくもって説得力がない。が、そもそも説得力のある説明が聴きたかったわけでもないので、所長の妄言に付き合うことにする。その方がなんだかおもしろそうだ。つまりこれは宇宙を含む世界の創世の神話なんですね。そう言ってみると所長の顔に喜びの光が広がった。どれだけことばを尽くしても他人には滅多に伝わらないことに共感を得られたときの喜びはこんな感じなのだろう。そう、そのとおり、やっぱりあなたには伝わったのね、あなたはわかるひとだと思っていたのよ。ひとりで勝手に合点している。ここで否定はしない。所長はさらに言う。私たちの組織が世界のバランスの崩れを維持しようとしているのは、この考えをもとにしているとはいえ象徴的なものに過ぎないの、けれども世界は象徴的なものがないと本質を見失ってしまうものなのよ、敵対する組織はまさにそれを見失ってしまって、人間のみの視点でもって世界の不均衡を無くそうとしているわけ、もちろん人間の世界で完全にバランスがとれたところで、世界全体が無になるというわけではないけれども、その考え方自体がこの世界の成り立ちの前提条件であるバランスの崩れというものに逆らっている以上、私たちはそれを阻止しなければならないの。なるほど。そう呟いてみる。なるほどなどという返答にはいかほどの意味もなく、むしろ伝えようとしていることがまったく伝わっていないことのあらわれであるのだが、所長はそれを肯定的に受け止めたようだ。あなたにこれを伝えたのは、あなたのこれまでの働きを観察してきた結果、あなたはこれを知るにふさわしい人物だと私が判断したからなの、これからはこれまで以上に難しい仕事をあなたにお願いすることになるけれども、いま伝えたことの意味を忘れずにどうぞよろしくお願いします。所長は真剣なまなざしをこちらに向けて言った。光栄です。ひとことそう答えた。所長の背後に広がる星空と地平線との境すれすれに流れ星が流れた。と思っていると、その流れ星は流れて消えることなく向きを変えてこちらに向かってきた。ゆっくりと近づいてくる。光が大きくなるにしたがって、それが大気圏にぶつかって燃えている星屑ではないことがわかった。ヘッドライトがこちらを照らす。乗用車が静かに滑り込んできてすぐそばで停まった。


 ずいぶん早かったわね。運転席から降りてきた上司に所長が声をかけた。ええ、少し走りました、お急ぎかと思いましたので、で椅子はどうしますか? 上司が後部座席のドアを開けながら所長にきいた。もう必要ないとは思うけど、ここに置いたままにしておくのもどうかと思うし、念のためにトランクに積めるかしら、さあ、あなたは後ろの席に乗って。そう促されて立ち上がる。キャスター付きの事務用椅子から車の後部座席に移るのはそれほどたいへんなことではなかった。全身の痛みはいつの間にかほとんど消えていた。所長は後部座席の反対側のドアを自分で開けて横に座った。トランクの開く音がした。振り返ると上司が椅子をトランクに積もうとしていた。脚の部分がうまく収まらないようで、縦にしたり斜めにしたりとしばらく置き方を工夫しようとしていたようだが、最後にはトランクを完全に閉じることは諦めたようで、車に積んでいた荷造り用のひもでトランクの蓋の部分と車体とを括りつけた。結局10センチくらいの隙間が開いているようだ。上司の運転で車が走り出す。誰もことばを発しない。まるで最初に口を開いた者にひどいペナルティでも科されるかのような落ち着かない沈黙の時間が流れる。我慢比べか。車内の静けさとは対照的に、後ろの半開きのトランクがカタカタと不安定な音を立てる。前後にはほかの車はなく、対向車ともすれ違わない。この車のヘッドライトのほかには周囲を照らすものがない。やがて暗い道路を抜け、市街地に出る。市街地はやはり明るい。光があふれている。赤信号で車が停まる。運転席の上司がカーオーディオを操作し、ラジオを点けた。…と世間では話題になってるけど、これまで人類が一度でも格差のない社会を経験したことがあるとでも思ってるのかな。えっ、どういうこと? 程度の差こそあれいつの時代にもどの社会にも格差はあったってことだよ。ああそういうことか、たしかにそうだけど、現在世界的な問題っていわれているのは行き過ぎた格差っていうことじゃないの? なるほどね、広がりすぎた格差が問題っていうことで、格差そのものは別に問題じゃないっていうか、常に存在するものだっていうことはぼくらの共通認識っていうことでいいのかな? うん、いいよ。いやね、何かにつけて平等平等ってお題目のように唱えてる連中がいるでしょ、あのひとたちは平等であるっていうことが無条件に善であるかのように主張しているように感じるんだけど、あれって自分たちでも本気でそう思ってるのかな、もしも平等なんてものが全部実現したらとんでもないことになっちゃうと思うんだけどね。どんなふうになるの? わかんないかな、起伏がなくてのっぺりとした世界になっちゃうんだよ、そんなのつまらないと思わない? ちょっと抽象的すぎるから具体的に例を挙げてくれない? いいよ、そうだなあ、まあいちばんわかりやすいのはやっぱり金の話だな、たとえば仕事の報酬とか、やっぱり能力の高さに応じて差がないと誰も頑張ろうと思わないじゃない、で高い報酬を得るために頑張るっていうエネルギーが社会全体の活力にもつながるんでしょ。まあそういう面はあるだろうね、頑張っても頑張らなくても報酬が同じだったら頑張っているひとのモチベーションも続かなくなってくるだろうし、低いところに落ち着いていくっていうのはよくある話だね。そう、たぶんそこは平等主義者にも共通認識としてあると思うんだけど、いくら頑張っても報酬が高くならないひとたちっていうのが増えてきてそれが社会のイライラの原因になってると思うんだよ、たとえば会社に雇われて同じ仕事をしていても正規雇用か非正規雇用かで報酬は全然違うじゃない。たしかにね、最初の就職活動で成功したか失敗したかとか、最初の就職先でそのまま続けられたかどうかでその後の報酬が全然違うもんね、じゃあやっぱり行き過ぎた格差は是正しなくちゃますます社会への不満は膨らみそうだね。そう、それはそうなんだけど気に入らないことがあるんだよね、ちょっと長くなるけどきいてくれるかな。どうぞ。平等平等って言ってるけど実は自分を除いてね、っていうパターンがすごく多いんじゃないかな、自分が平等な状態よりも悪い位置にいる場合は自分も含んでいるけど、自分が平等な状態よりも良い位置にいる場合は自分を含まない、たとえばさっきの正規雇用と非正規雇用の話だけど、非正規雇用にも平等な報酬をって正規雇用のひとが言う場合には、でもそのために自分の報酬を引き下げられたら困るけどね、っていうのが前提にあると思うんだよ、報酬の原資には限りがあるんだから、非正規雇用の報酬を上げたら正規雇用の報酬を下げなきゃいけないのはあたりまえなのにね、平等を求めておきながら都合の悪い現実からは目を背けてる、もちろん全体の生産性を上げて報酬の原資を増やすっていう方法もあるけど、そんな考えもないんじゃないかな、だって平等を求めてる自分に気持ちよくなっちゃってるだけなんだから、平等っていうのは本当は無慈悲なもので、自分に対しても平等を課すっていうのにはかなりの覚悟がいるんだよ、自分の報酬を下げてでも平等を実現するっていう覚悟がさ、でも自分はどうにか納得できたとしても、家族の生活水準がそれで下がるとなったらさらに強い覚悟がいるっていうか家族に対して無責任な感じにもなるじゃない、いったいどうするの、って思うよ、ほかにもこんなのはどうかな、災害が起こったときにまわりは食べ物がなくて困っているのにたまたま自分は何かのツテで家族がどうにか数日しのげるだけの食べ物が手に入ったとするよね、普通は家族のなかで分け合うでしょ、すると家族は喜ぶに違いないよ、でも自分が食べ物を手に入れたのは果たして平等なのかって考えると、けっしてそうとはいえないだろう、だってツテなんだから、少なくとも食べ物に困っているひとからは不当に思えるだろう、だからって家族以外のみんなにも平等に分け合うなんてことができるかな、家族のことを思うとそんなことはできないだろう、これって強烈なジレンマだよ、でも平等主義者のなかにはこれをジレンマとは感じないで、現実の問題と理想の問題をきっちりと分けて考えられるひとがいるんだよ、信じられないけどね、ほかにもまだ例は思い浮かぶよ、たとえば戦争が始まって徴兵制が復活したとして、たまたま自分は自分の息子を徴兵の対象から外せる権限を持つ立場にいたとしたらさ、どうすると思う、ほかのひとの息子たちを戦場に送り込んでおきながら自分の息子を徴兵の対象から外すっていうのは果たして平等っていえるかな、いいや、けっして平等じゃないよ、でも平等じゃないからといってそうする権限があるのにもかかわらずむざむざ自分の息子を徴兵の対象にできるかっていうと、やっぱりそんなことはできないだろう、これは公のために自分の息子を差し出せるかって話じゃないよ、平等という理想の問題だよ、自分のことも含めて平等に物事を判断する、平等っていうのはなんて厳しくて困難なことなのかって思うよ、さて、それではここで1曲、バッハ、平均律クラヴィーア曲集、前奏曲とフーガ第1巻から第1番ハ長調バッハ作品番号846、グレン・グールドのピアノでお聴きください。馴染みのある曲が流れてくる。シンプルでいて揺るぎないその調べ。が、突然ノイズに覆われた。窓の外は暗く、オレンジ色の照明が単調なリズムで過ぎていく。どうやらトンネルに入ったらしい。せっかくいい曲だったのに。車に乗ってから初めて口を開いたのは所長だった。そういえばこの車にさっきの曲のCDを積んでいなかったかしら。ありますよ。上司がそう答え、助手席の方をごそごそした後、CDをオーディオに差し込んだ。ラジオの音が途絶え、ふたたび最初からグールドのピアノの音が繊細に響き始める。


 あいかわらず背後のトランクのふたはカタカタと不安定なリズムを刻んでいるが、なぜかピアノの繊細な音楽と調和しているようで妙に落ち着く。さっきの話をどう思う? 所長が問いかけてきた。さっきのとおっしゃいますと? わかっているがわざと問い返してみる。ラジオの話よ、バランスの話をしていたでしょ。ええ、そうですね、まあ特に珍しい話とも思いませんでしたので、あまり何も思わなかったのですが。少しそっけない調子でそう答えると、所長は物足りなさそうにことばをつないだ。何もないということはないでしょう、じゃあ順番にきいていくからあなたの意見をきかせてちょうだい、格差のない時代なんてこれまでに一度もないっていうのはどう思う? まあだいたいそうなんじゃないですか、といっても確認しようがありませんけど、それにラジオでも言っていたように格差の程度の問題はあると思いますけど。そう、そもそもバランスの崩れを前提としてこの世界が成り立っているという私たちの考え方からいっても、格差はあるのが当然よね、では、平等を求めているひとたちへの評価についてはどう思う? 所長がさっきのラジオの話に興味を抱いたのは組織の活動と通じる部分があったからだというのはわかるのだが、そんなにおもしろい話だったとも思えない。むしろ、せっかくグールドのバッハをかけているのだから、静かに音楽に耳を傾けていたい。トランクのふたがカタカタとなる音や車がトンネル内の空気を裂く音、タイヤがアスファルトを掴む音さえ心地いい。そういえば、所長の声の質。いままで気づかなかったのが不思議なのだがあらためて考えてみるととても耳にやさしいような気がする。少しあまく少し空気を多く含んだおだやかな声。もっとよく所長の話す声を聴いてみたくなってきた。急いで短く答えてみる。ラジオのひとが言っていたように、自分の立場を危うくしない範囲でだけ平等を求めていると思います。これはきっと所長が欲しがっている答えに違いない。そうね、平等平等と口では言いながら自分の生活水準は下げたくないのよ、平均より下のひとたちが平均まで上がることを求めて平等を求めるのはわかりやすいんだけど、平均より上のひとたちが平等を求めるっていうのはその動機がわかりにくいのよ、それもそのはずで、ことばと行動がちぐはぐなのよね、もしかしたら自分がいま求めている何かを実際に平等にすると自分の生活水準が下がるかもしれないとは想像できないのかもしれないし、わかっているうえで現実には平等になんてならないから自分の生活水準も下がらないなんて高を括っているのかもしれないけど。所長が自分の感想を語るあいだ、所長の声にばかり意識を集中していたせいで内容がまるで頭に入ってこなかった。それにしてもやはりおだやかであたたかみのあるやさしい声だ。それに少しあまさが混じっているのがさらにいい。聴いていると気持ちよくなってくる。なぜいままで気づかなかったのだろう。まあようやく落ち着いてきたということなのだろう。なにしろ今朝からほんとうに奇妙なできごとに遭遇し続けている。もっともいまもそれは続いているのだが。そうだ、声の話の途中だった。声というものはひととひととの関係においてとてもたいせつなものだと思う。けれどもそれを意識しているひとは少ない。特に他人の声は好きだとか嫌いだとか気にしても、自分の声を気にするひとは少ない。せいぜい自分の声は嫌いだと思っているくらいで、どうにかしようなどとは思っていないのではないか。俳優やアナウンサーのように声を使って仕事をしているひとだけでなく、対面や電話でひととコミュニケーションをとる機会があるひと、つまりほとんどすべてのひとはもっと自分の声を意識したらいいのにと思う。何も考えないで出す声が自分の自然な声だとはいえない。そうと気づかずに自分の身体の条件に合わない不自然な声を出している場合がある。それに、毎日聴く自分の声が自分の精神に与える影響も大きいだろう。どうせならいい声を自分に聴かせた方がいい。できることなら相手や場所に合わせて洋服を変えるように声だって変えた方がいい。声のドレス・コード。実際にそれを意識的にやっているひともいるだろう。しかし所長の声の心地よさはそういう計算されたものではないような気がする。意識すればもっといい声になるかもしれない。けれどもいまはこの声が気持ちいいということに満足しておく。どうしたの? 所長に問いかけられてふと我に返る。所長の声があまりに素敵なので聞き惚れていました。そんなふうに言ってみたい衝動にも駆られたが、なんとか踏みとどまる。いくら褒めことばとはいえ、なんでも思った通り言えばいいということではない。このタイミングで声を褒めるのはやはり不自然だ。ところで何の話をしていたのだったか。そうだ、平等を求めるひとの評価についてだった。災害時の食べ物のシェアのことや徴兵の権限の行使のことについて例を挙げていましたがそれらはそんなに単純な話ではないと思います、けれどもそもそもアンバランスによって成り立ちそれが前提条件となっているこの世界で平等を求めることがいかに困難なことなのかということには共感しますし、ある意味では平等を求めること自体が前提条件を無視したことなのだとも思います。あわててそう答えてみたが、なかなか要点を衝いたいい答えだと思う。予期していた通り所長はうれしそうに笑顔を浮かべ、さらに抱き着いてきた。ありがとう、ほんとうにあなたは私たちの組織の考え方をよく理解してくれたわ。まさか抱き着かれるとは思っていなかったので少し驚きはしたが、抱き着いてきた所長の髪や首筋からは、やはり今朝と変わらぬあまくてさわやかな香りが漂ってきたのだった。いい香りといい声。車内の薄暗がりのなかでは、それらが特に官能を刺激してくる。その快感にうっとりと浸っていると車が静かに停止した。着きました。上司が言う。所長はあたりを確認してこう言った。ここからはあなたに任せるわ、あなたならひとりで大丈夫。


 この街はかつて広大な湿地帯であったのを、最近、といっても何百年も前だが、造成してひとが住めるようにしたのだと聞いたことがある。そのために他の都市と比べて古くからある緑が少なく、また平坦な場所が多いらしい。唯一の例外がいまいるこの場所で、ここはこの街の現在の中心部をやや東に逸れた位置を南北に貫いた台地なのである。この台地は太古の昔からひとびとの営みの舞台となっていた。いまはアスファルトに覆われ、またビルが建ち並んでいるせいでひとめでは気づかないのだが、上司が車を停めたこの場所はちょうどかつての湿地帯と台地との境となる崖を下りた部分にあたる。ここからは台地の上に向かって急な坂を登らなければならない。このあたりには名前のついた坂が7つある。いま登っている坂はそのひとつで、蛇のように細長くのびているのだが素直に蛇坂とはいわずにくちにゃあ坂と呼ばれている。蛇のことを口のある縄というのだがさらにこのあたりには昔から猫が居ついていたことからそのように言い換えたらしい。少しわかりにくいが味のある言い換えだと思う。なんでもわかりやすくすればいいというものではない。わかりやすく説明するわね。車が止まったあと、所長はそう切り出して任務を告げた。この坂を登って少し北に上がったところにある雑居ビルのなかに今日あなたがモノレールのなかで見かけたという敵対する組織の二人組がいます、彼らが持っているというコーネルのカシオペア#1もそこにあります、あの箱は彼らの組織の手には絶対に渡ってはいけないものだったの、彼らはあの箱の本当の使い方を知らないわ、あの箱を使うと彼らの目的が実現に近づくと彼らは思っているけれども、逆に実現が不可能になるのよ、私たちの組織にとってそれは好都合なことなんだけど、残念なことにそれだけでは済まなくて私たちの組織にとっても不都合なことが起こるのよ、だからいまからあなたにあの箱の奪取をお願いします、場所はこの地図に書いてあります、あなたならひとりで大丈夫。そう言って所長は新聞の折り込み広告を手で破ったような小さな紙片を手渡してくれた。その白い面にはこどものいたずら書きのようなものが手書きで記されている。道路や建物を示すのであろう直線も歪み、少ない文字も下手なこどもの字のようだ。これは所長が書いたのだろうか。いや、あの聡明そうな容姿からこの幼く拙い地図はつながらなさすぎる。きっと他の誰かが書いたのだろう。まあそれほど難しい場所というわけではないのでこの地図でも十分に目的地にはたどり着ける。というよりもう覚えたのでこの地図はいらない。けれどもいちおうポケットにしまっておく。それにしても所長の説明はちっともわかりやすいものではなかった。そもそも所長は知っていたのだ。モノレールで二人組と遭遇していたことや彼らがコーネルのカシオペア#1を手に入れていたことを。どうやって知ったのだろう。考えても仕方がない。所長には所長の力と権限があり、それは想像さえできないものかもしれないからだ。とはいえ、あの箱が結局どういうものなのかは所長の説明ではまったくわからなかった。わかったのは、使い方を誤ると敵対する組織にとってもこちらの組織にとっても不都合なことが起こるということだけだ。どう使うのが正解で、どう使うと誤りなのか、また不都合なことが起こるとはどういうことなのか。もっともわからないからといってそれが問題ということでもない。組織の活動について質問することは許されていないし、そうしたいとも思わない。とにかく任務を遂行する。それが仕事だ。それでは行ってきます。淡々とあいさつをして車を降りる。ドアを閉じると、所長も上司も振り返ることもなく車を発進させて去っていった。後ろのトランクの蓋をかたかたと鳴らしながら遠ざかる車を見送ったあと、坂を登りはじめた。所長の指圧の効果がさらにあらわれてきたのか、全身の痛みはとれ、疲れも癒えていた。足裏への指圧が全身に効果があるというのは実に不思議だが、痛みや疲れがなくなったのは事実なのでその事実だけを享受しておく。坂の上を見上げる。坂と両脇の建物を抜けた向こうに狭い空がのぞいている。街の夜には星は瞬かない。こどもの頃から坂道が好きだった。登っているときの空の狭さと登り切ったときの空の広さとのギャップ。ほんの一歩進むだけで急に視界が広がる体験は、それが通り慣れた同じ坂であったとしてもいつも爽快だった。晴れの日には晴れの日の、曇りの日には曇りの日の、そして雨の日には雨の日の良さがそこにはある。いまは夜だが、夜の暗さによって視覚が及ばないという不安感にも味わいがある。想像力が膨らむ。もちろん現実には特に何も起こらない。けれども想像のなかでは、幽霊や妖怪だって出てくる。ひとの気配の少ない夜の坂道で黒い猫なんかに遭遇するとどきりとする。と思っていると、目の前を何か小さなものが素早く横切った。目で追うと小さなふたつの光がこちらを見ている。闇に浮かぶ黒い猫のふたつの瞳か。触ってみたい。触って癒されたい。猫を見るとどういうわけかそんな気持ちになる。まだ猫だとはっきりしたわけではないのだが。近寄って触ろうとすると、急にその猫らしきものはしゃあっと唸って飛びかかってきた。あっ。ふともものあたりに軽い痛みが走る。爪で引っかかれたのか。いま気づいたのだが、事務所の分室の医務室にいるときに部屋着のようなリラックスしたものに着替えさせられていたのだった。脚も腕もむき出しである。とうてい街を歩くような格好ではない。所長と上司は車から降ろす前にどうしてほかの服に着替えさせてくれなかったのだろう。こんな格好で敵対する組織の二人組のいる雑居ビルに出向いたら、仕事を十分にはこなせないのではないかとは思わなかったのだろうか。猫らしきものの姿は消えてしまった。痛みの走ったふともものあたりに触れてみる。ほんの少しだけ血が出ているようだが、擦り傷程度のようだ。いまはもう痛みもない。大きな傷でなくて良かった。仕事に戻ろう。服装が気になって落ち着かないのだが、この時間だともう服を売っている店は開いていそうにないし、またそんな買い物をしている場合でもないと判断する。引き続き坂を登る。おとなになってからは坂に別の魅力を見出すようになった。よもつひらさかがそうであるように、坂には生者の国と死者の国の境目のようなイメージがあるという。古代からひとは坂に、ここではないどこか、に通じるイメージを抱いたのだ。そういう考え方を知ってから坂をさらに好きになった。さらに、坂に限らずなにかとなにかの境目を好きになった。境目は際どくうつくしい。そういう美のあることを知った。以来、意識的に境目ばかりに目を向けるようになった。そういう意味ではいまの仕事も均衡と不均衡の境目を常に意識するという点で坂の魅力の延長にあるのかもしれない。そんなことを考えている間に坂を登り切り、視界が開けた。台地の上に立つ。振り返ると坂の向こうに広がる平野には夜の街が光っている。地上の星と天上の星とは趣が異なる。地上の星にはひとびとの暮らしの生々しさが投影されるからだろうか。ひとの生々しさは苦手だ。そんな思いを振り払うつもりで前を向く。そして道路を渡った先にある目的の雑居ビルに視線を向けた。車の往来がないことを確認して道路を渡る。渡る途中でふと真っすぐに伸びる道路の先を見ると、そこには城がうすぼんやりと浮かび上がっていた。そうか、この台地の先端には城があったんだな。さっきまではこの城のさらに向こう側の丘陵地帯にある塔のなかにいたんだっけ。塔と城とこの雑居ビル。一直線に並んでいることに何か意味があるのかな。いや、きっとないだろう。何にでも意味を持たせようとするなんて、不安な気持ちの表れかもしれない。よくない兆候だ。心理的な不安を抱えたまま仕事を進めるとひやりとすることがある。まずは落ち着くこと。冷静になること。大丈夫。やれる。


 目的の雑居ビルの前に来た。歩道の街灯に薄く照らされたそれは周囲に完全に溶け込んでいる。古くも新しくもないその雑居ビルは3階建てで、1階には古書店があるようだが店は開いていない。2階と3階には窓がそれぞれ6つずつある。道路側には特に看板もないようだが、所長がくれた地図にはこの雑居ビルから線をのばして3階と書かれていた。3階に上がるためには建物の端にある外階段を使わなければならない。外階段の手前に集合ポストがあったが、どの部屋のポストにも名称などは書かれていなかった。ぶーん。階段を登りはじめると、どこからか音が聞こえてきた。蚊の羽音のようである。無視して上がろうとすると、すぐ目の前を何か小さな虫が横切ってきた。やはり蚊である。煩わしいので手で追い払おうとする。叩きはしない。蚊に限らず虫を殺すのは好きではない。できるだけ避けたい。殺生がいやだというわけではなく、単につぶした後の汚れた感じが嫌いなのだ。いちどはずみで蚊とんぼをつぶしてしまい、ものすごく後味の悪い思いをしたことがある。あれはもうものすごく不快だった。思い出しただけでも眉間にしわが寄ってくる。あのことは忘れない。ほんとうに忘れない。そんなことを思い出している間にも蚊は目の前をふらふらと飛び続けている。手で払いのけただけではどこかへは行ってくれないようだ。と、先ほどからの蚊とはまた別の蚊があらわれた。ぶーん。二匹が交互に目の前のかなり近くを横切る。ぶーんぶーん。ぶーんぶーん。あまりにも鬱陶しい。やむを得ない。ここは不本意ではあるが叩くことにする。一匹にねらいを定める。ぱん。素早く手を叩く。仕留めたか。ぶーんぶーん。失敗。二匹の蚊は前方1メートルあたりにいったん後退し、こちらの様子をうかがうように空中で停止している。少し近づくために階段を上がろうとすると、1段目に足をかけるよりも前に二匹の蚊は再び目の前に距離を詰めてきた。そちらが向かってくるなら都合がいい。もういちど一匹を狙って素早く手を叩く。ぱん。しかし蚊はするりと身をかわし、また1メートルほど後退し、ホバリングしている。そうか。そういうことか。もういい。お前たちの相手をしている場合ではない。そう思い、身を屈めて階段を駆け上がろうとする。1階と2階の間の踊り場まで駆け上がったが、二匹の蚊はしぶとくついてきて、頭の周りをうるさく飛び回る。ぶーんぶーん。ぶーんぶーん。気になる。ほんとうに気になる。二匹の蚊の羽が起こす風が耳の皮膚にあたるような気さえする。もう許さない。狙いも定めずにそこらじゅうを手で叩く。ぱん。ぱん。ぱん。ぱん。しかし無闇に叩いたところで仕留められるわけもなく、二匹の蚊はまたもや1メートルほど向こう側でこちらの様子をうかがいながらホバリングしている。不思議なことに蚊は射しては来ない。目の前や耳の周囲を飛び回るだけだ。それならば、ということで、目をつぶり耳を両手でふさいで大急ぎで階段を駆け上がった。2階を過ぎ、2階と3階の間の踊り場を過ぎ、ようやく3階にたどり着いた。たどり着いて目を開き耳をふさいでいた両手を外してみると、もう二匹の蚊はいなくなっていた。逃げ切れたようだ。そう思った数秒後、またもや蚊の羽音が聞こえてきた。ぶーんぶーん。ぶーんぶーん。あたりを見回す。いない。もういちどよく見る。それでもいない。けれども音は聞こえる。念のため耳をもういちどふさいでみる。するとおかしなことに頭のなかで二匹の蚊の羽音がなっているような気がする。ぶーんぶーん。ぶーんぶーん。そうか。気になりすぎたせいで頭のなかに残響があるということか。ぶーんぶーん。ぶーんぶーん。そのうちこの音は消えるだろう。気にしすぎると消えにくくなるかもしれない。そう考えて気にしないことにする。とにかく3階には来た。さてどの部屋か。3階にはドアが6つ並んでいた。さっき見た窓の数と同じだ。さて、敵対する組織の二人組はこの6つのドアのうちどのドアの向こうにいるのか。まず6つのドアそれぞれの周囲を確認する。どのドアにも表札はもちろん手掛かりになるようなものは見当たらなかった。もっとも、表札が掲げられていたところで彼らがここで何と名乗っているのかはわからないのだが。さあどうする。シンプルだが順番にノックでもしてみるか。ほかに良い方法も思い浮かばないし、それにもしも部屋を間違えたところで次の部屋をあたればいいだけなので順番にノックしていくことにする。そういえば先ほど道路側から見上げたときに3階の窓は奥から順番に2つしか明かりが灯っていなかった。とはいえそれでわかるのは窓側の部屋の明かりでしかないのだが。そういうわけでまず外階段から最も離れているいちばん奥の部屋をノックしよう。こういう場合は手前から奥よりも奥から手前の方がなんとなく合理的な気がする。こんこんこん。ノックする。反応がない。もういちどドアを叩く。こんこんこん。やはり何も起こらない。明かりが灯っていたはずなのに誰もいないのだろうか。仕方がないのでこの部屋は後に回すことにし、ひとつ手前の部屋のドアをノックする。とんとんとん。どたどたどた。ひとの走る気配がする。しばらくするといきなりドアが開いた。危ない。反射的に後ろに飛び退く。危うくドアに顔を打ちつけるところだった。いらっしゃーい。幼児が飛び出してきた。いらっしゃーい。同じようにもうひとり出てきた。だれー? 続いて三人目の幼児も出てきた。そして三人そろって珍しいものでも見るかのように取り囲んできた。三人の幼児のいる部屋。つまりこの部屋ではないようだ。こんばんは、おうちのひとは誰かいますか? もうこの部屋に用はないのだが、不審がられないように努めてにこやかに幼児たちに尋ねる。いなーい。いないよ。しらなーい。あどけなく答える幼児たち。ほんとうにいないのだろうか。あらためて考えてみれば夜のこんな時間にひとが訪ねてくるなんてそもそも怪しくないわけがない。それなのにこんな幼児が自分たちだけでドアを開けるなんて不用心にもほどがある。保護者はいったいどうしたんだろう。というよりもこんな雑居ビルにどうしてこんな幼児がいるのか。まったく予想外だった。気になるので開いたドアから部屋のなかを覗いてみる。ちょっとあなたたち、勝手に出ちゃだめでしょ。女の子が部屋の奥から慌てて出てくる。はっと息を呑む。見覚えがある。女の子も少しびっくりした表情を浮かべる。あなた昼間の。お互いの声が重なる。そう、彼女は塔のある公園で鳥に餌をやっていた不思議な女の子だった。どうしてこんなところに? またもやお互いの声が重なる。いえ、たまたまこちらに用事があったもので。咄嗟に不自然な答えが口をついて出てきた。もう少しほかにうまい言いようがなかったものか。彼女の方は答える代わりに質問を返してきた。用事ってどんな? そうだ、この際、ずばりと訊いてみてもいいかもしれない。その方が話が早い。この階に二人組の男性のいる部屋があるのを知りませんか。彼女はにこりとして答えた。ええ、最近、入って来られましたよ、隣の部屋です。そう言って、先ほどノックしたいちばん奥の部屋をきれいな手で指し示す。欲しかった情報がこんなふうに入ってくるとは。ああ、そうなんですか、ちょっとそのひとたちに用があるんですよ、でもさっきノックしてみたんですが誰も出て来なくて、留守なのかな。そう当たりさわりのないことばを選んで探りをいれてみる。そうかもしれませんね、なんだかいつも不規則な時間に出ていったり帰ってきたりされてるようなので、あっ、もしよかったらうちの部屋で少し待たれますか? ここで予想外の提案がくる。さてどうする? 昼間の公園での異様な光景を思い出す。鳥とひるこ。不可思議な神話。突如の消滅。けれどもいま目の前にいる彼女に昼間の印象はなく、幼児たちのやさしいお姉さんという感じだ。それにこの部屋で待っていれば確実に二人組の動きがわかるだろう。ここは警戒しつつも飛び込むことにする。じゃあご厚意にあまえさせていただいて、少し待たせていただいてもよろしいですか? 遠慮がちに尋ねてみる。ええもちろん、さあどうぞ。不自然なくらいに自然な流れで部屋に招き入れられた。三人の幼児もあとから続いて部屋に入ってくる。わーいわーい。おきゃくさんおきゃくさん。なにするなにする? 通された部屋は居住用というよりも託児所のようであった。小さなジャングルジムに滑り台、それからぶらんこまである。少し離れた場所にテーブルがあり、そこに椅子が向かい合わせに三脚ずつ、あわせて六脚置かれている。壁側の端の椅子を勧められ腰をかける。紅茶でいいかしら、少しお待ちくださいね、あっ、あなたたちはおじゃましちゃだめよ、向こうの部屋でさっきの続きをやってなさい。そう言って幼児三人を連れて隣の部屋に向かっていく。隣の部屋へ通じるドアを開けると、それまでのおっとりした動きから一転して意外なくらいの敏捷さで三人の幼児を連れて中に入り、素早くドアを閉めた。そのせいで部屋の中の様子は何も見えなかった。少し間をおいてかちゃかちゃという陶器のぶつかりあうような音がきこえはじめてきた。紅茶を用意してくれているのだろう。廊下の気配に意識を向ける。ここからなら廊下をだれかが通れば足音や気配でわかるだろう。そう確認して、あらためて部屋の中を見まわす。ベージュの素地にうすく植物の模様が入った布を張りつけた壁と天井、床にはコルクの素材のようなものが敷き詰められている。部屋の照明は特に明るすぎも暗すぎもせずちょうど気持ちが落ち着く明るさ。気温や湿度も外に比べて過ごしやすい。ひととおり部屋の観察が済んだところで隣の部屋のドアが開いて女の子が戻ってきた。ドアの開け閉めはやはり素早い。手にはティーカップをふたつ載せたトレーを抱えている。どうぞ。そう言ってティーカップをテーブルの上に置く。少しあまさの混ざったさわやかな香りが漂ってくる。なかなかいい香りだ。女の子はテーブルの対角線にあたる位置の椅子に座る。微妙な距離感がある。いきなりお邪魔してすみません、そのうえ紅茶までいただいてしまって。警戒していることを悟られないように注意しながら礼を言う。いいえ、こちらこそいきなり部屋へどうぞなんて怪しいと思われたでしょうね、でも実はお昼にあの公園でお会いしたときに、きっともういちどお会いするだろうなと思っていたんですよ。意外なことばが返ってきた。と一瞬は思ったが、今日はこういうことばかりなのでほんとうはあまり意外でもないのだと思いなおす。ああ、そうだったんですか、でもどうして? 尋ねるべきか聴き流すべきか迷いながらも尋ねることにした。だってあなたはこの箱を探しているんでしょ? そう言って彼女はテーブルの下からコーネルのカシオペア#1を取り出した。あっ。思わず声をあげる。さっき思ったことは撤回する。まだまだ意外なできごとには慣れられない。どうしてここに? ふふ。彼女が笑った。口元にいたずらっぽい波が微かに揺れた。慌てないで、紅茶が冷めちゃうわよ。そう言って紅茶を飲むよう促してくる。けれどもとても紅茶に口をつける気持ちにはならない。あら残念ね、せっかくうちでいちばんいいお茶をお出ししたのに。彼女はすねたように少し唇を尖らせたあと、カップに口をつける。ああほんとうにおいしい。ほとんど官能的ともいえる表情を浮かべ、こころからの満足げな声を漏らす。どうしてここにこれが? それでもとにかく尋ねずにはいられない。彼女はこちらをじっと見つめ、わずかに焦らすように目を逸らしたあと、ふたたび目を合わせながら愉快そうに答える。そんなに気になるなら教えてあげる、あなたが来るほんの少し前にあなたが探している二人組が隣の部屋に帰ってきたの、たまたまあたしがそれに気がついて廊下に出てみたら、二人組がこの箱を抱えていたの、であんまりにもこの箱をたいせつそうに運んでいたものだから、それは何ってきいてみたのね、それなのに二人組は無視して部屋に入ろうとするのよ、あたしが尋ねているっていうのによ、だからあたし、ちょっとぷんぷんしてやったの、そしたら二人組はあわてて箱を廊下に置いてぶうーんぶうーんって飛んでいっちゃったのよ、おかしいでしょ、それでね、そのままこの箱を廊下に置いておくわけにもいかないだろうと思ってあたしがうちに持って帰ってきたってわけなの、ところであなたはここにくるときに二人組に会わなかった? 返事ができなかった。彼女が話したことをすぐには理解できそうにない。これは何かの冗談なのか。からかわれている? しかし目の前にあるのはたしかにコーネルのカシオペア#1だ。もうひとつの宇宙そのものを封じ込めた箱。これを手に入れるのがいまの任務である。とにかくまずは交渉してみることにする。この箱を渡してくれないかな? あら、どうしてあなたに渡すことになるのかしら、これはあの二人組が運んでいたもので、あなたのものじゃないでしょ? まるですべてを見通しているとでもいうような余裕のある落ち着いた微笑を浮かべ彼女が言う。あらためてよく見ると彼女はうつくしい顔立ちをしている。滑らかで透明感のある白い肌と愛らしい瞳。実はこの箱をあの二人組から引き取るためにここへ訪ねてきたんですよ、残念ながらあの二人組には会えませんでしたが偶然あなたが預かっていてくれて助かりました。咄嗟にそういう設定を描いて話を進めてみる。しかし彼女はまったくそれにはとりあわず、あいかわらず何もかもをわかっているかのような表情のままこちらをおだやかに見つめている。そしてしばらくの間をあけたあと、なぜか突然このやりとりに興味を失ったかのようにふうっとおおきなため息を吐き、無表情な顔になってこう言った。まああなたたちの事情なんてどうでもいいわ、でもこの箱は渡さない、どうせあなたたちにはこの箱は使いこなせないもの。使いこなす? どういうことだ。彼女はこの箱がどういうものか知っているのだろうか。さらにこの箱の使い方までも。この箱を使いこなす? 動揺を悟られないように落ち着いたそぶりで彼女に尋ねてみる。知りたいなら教えてあげてもいいけど、その前にいくつか言っておきたいことがあるの、あなたたちの組織の考え方、この世界はバランスの崩れを前提として成り立っているのだから世の中が公平になることなんてありえない、つまり不公平なのは自然の摂理だからむしろ真っ当、っていうのはあまりにも怠惰な思考停止で、無責任な態度だと思うの、仮にあなたたちの組織がいうように宇宙のはじまりがバランスの崩れからだったとしても目の前に不公平な社会の仕組みのせいで苦しんでいるひとがいるのならなんとかしないといけないんじゃないかしら、それが人間らしさっていうものなんじゃないの。急にめまいがしはじめる。なぜ彼女が組織の考え方を知っているのか。彼女は無表情になってむしろ魅力を増した透明感のある白い肌のうつくしい顔をこちらに向けて話し続ける。もっともあなたは組織の考え方なんてどうでもいいと思っているようだけどね、でもそういうのもどうかしら、ニヒルを気取って気持ちよくなってるだけなんじゃないの、虚無主義っていうのも結局のところ怠惰な思考停止だって思わないの、すべては無意味だ、なんてかっこつけてないでとにかくなんでもやってみた方がよっぽどいいと思うんだけど。めまいに加えて頭もくらくらしてきた。平衡感覚が崩れ始める。誰にも話したことのない内面のことまでどうして彼女が知っているのか。ここで彼女はそれまでの無表情から一転して急に上気したように頬のあたりを紅潮させながらことばを継いだ。それからことばよ、ことばについての考え方にもひとこと言っておくわ、ことばにしたら本質が痩せていくとか、ことばには限界があるとか、ことばは信頼できないとか、そんなのただの愚痴よ、まあ愚痴くらい言わせてあげてもいいけどその考え方がかっこいいと思ってるのならむしろそれは恥ずかしいことよ、はしたない、って教えてあげるわ、たしかにことばに限界はあるわよ、あるとしてもとにかくことばにしないと何も始まらないのよ、ことばはひとを傷つけるし、あざむいたり裏切ったり誤解させたりするのもことばだし、それにことばで絶望が広がったりすることもあるけれど、やっぱりひとはひとのことばに癒されたり励まされたり希望を感じさせられたりするものなのよ、なんでも否定するのがかっこいいみたいな考え方はやめたほうがいいわよ。もはや何のことを話しているのかすらわからない。ついていけない。いったい彼女は何者なのか。そしてどうしていまこんな説教めいたことを話しているのか。次々と疑問が浮かんでくる。頭のなかにあふれだす思考の流れを止められない。コントロールできない。平衡感覚が崩れているところへさらに視界もぼやけ、色彩が淡くなってくる。ぶうーんぶうーん。いつの間にか消えていた蚊の羽音もふたたびどこからかきこえてきたような気がする。いや、どこかではなくやはり頭のなかからきこえてくる。もしやこの紅茶に何かを入れられていたのか? 咄嗟に勘繰る。いや、紅茶には口をつけていなかった。どうかしたの、目の焦点が合っていないみたいよ。彼女がしずかに問いかけてくる。ああうう。何か答えようとするが舌が痺れてうまくことばを発することができない。そもそも何を答えればいいのかもわからない。だいじょうぶなの、ちょっと横になる? そう言って彼女が身体を支えてくれようとする。その手がふともものあたりに触れたときに彼女が何かに気づく。あらっ、この傷は? 彼女が驚いたように声をあげる。そしてふともものあたりに視線を向けて言う。もしかしてこの下の坂で何かにひっかかれたりしなかった? 明瞭さを失っていく意識のなかでかすかにうなずく。やっぱりね、あの坂には毒を持った生き物がいるのよ、早く毒を吸い出さないとあぶないわ。そう言うと彼女は素早く椅子の前にひざまずき、ためらいもなくふとももの傷に唇をあてた。彼女のやわらかい唇の感触でふともものあたりにあまい痺れが広がってくる。身体の反応はこんなときでも単純だ。そして彼女はふとももの傷をきつく吸い始めた。あまい痺れはさらに強さを増す。しかしそれとはうらはらに意識は朦朧の度を増していく。ぶうーんぶうーん。頭のなかでは蚊の羽音が響きつづけている。すると、隣の部屋から三人の幼児たちが、小さなバケツと筆を持って現れた。もういい? もういいよ。よーいどーん。そう言うと、幼児たちはいきなり壁に向かってバケツのなかの液体をぶちまけはじめた。青、黄、赤の三色の液体が壁にぶつかり、床や天井にまで飛び散っている。不思議なことにバケツのなかの液体は尽きることがなく、ぶちまけてもぶちまけてもバケツのなかからあふれだすようだ。幼児たちは大はしゃぎでバケツを壁に向かって振り回している。そして壁にぶちまけられた三つの色は混ざり合っていく。壁や天井にひととおり三色の液体がいきわたると、幼児たちは筆を使って壁に模様を描きはじめた。ふともものあたりにあまい痺れを感じながら、混濁する意識のなかでその様子を眺める。最初はただ無秩序に混ざり合っていた色彩の混沌が、しばらくすると何らかの意図を持った抽象画のように見え始め、やがて壁や天井を覆うベージュの布から植物が浮かび上がってくるように見えた。それはまるで密林。ジャングルだ。この光景には見覚えがある。塔の腕から落ちたあのとき沼から見えた光景。やはりいまは幻覚を見ているのか。これは毒が見せるまぼろしなのか。ジャングルの上空を吹き抜ける強い風の音がきこえてきた。顔に何かがあたる。雨だ。ぽつりときたと思ったらすぐさまざあっと激しい雨に変わった。強い風と激しい雨。そして湿気が絡みつくように皮膚を覆いはじめる。むっと鼻をつく熱帯の匂いがあたりから押し寄せてくる。深い緑が暗闇を埋めている。ぶうーんぶうーん。あいかわらず頭のなかでは蚊の羽音が鳴っている。ここで、ふともものあたりにまだあまい痺れが続いていることに気がつく。彼女はどうしている? しかしそこに彼女はいなかった。ではこのあまい痺れは? ふともものあたりを手で探ると、何かねっとりとしたものに触れた。よく見る。何かいる。ああ。ひる。一体の巨大な白いひるがふとももの傷のあたりに吸いついている。どうしたの、なにを驚いているの? なぜかふともものあたりから彼女の声がきこえる。けれども彼女の姿は見えない。だいじょうぶよ、毒はあたしが吸い出してあげるから、心配しないで。まさか。これは彼女ではなくひるの声だとでもいうのか。そしてこれはひるによるあまい痺れだとでもいうのか。あたしが吸い出してあげる。ふたたびふともものあたりから彼女の声が聴こえるが、やはりそこにいるのは一体の巨大な白いひるだけだ。ひるがじっと吸いついている。いったい彼女はどこにいるのだろう。さっきからここにいるじゃない。どういうわけかまるで頭のなかで思っただけのことが伝わったかのように彼女が答えた。きみはひるなのか。うろたえながら、頭のなかで問いかけてみると、少し怒ったような彼女の声が聴こえてきた。何を言っているの、あたしがひるのはずがないじゃない、ひるなんてどこにいるのよ、あたしが見えないの? ああ、まいった。もう何もわからなくなってきた。この状況についていまは何も考えられそうにない。ふともものあたりのあまい痺れにこのまま身を委ねていたい。眠い。眠りたい。眠ってしまいたい。朦朧とする意識のなかで、眠りに落ちかけたそのとき、目の前の闇がきらりと鋭く光った。目を凝らす。ナイフ。ナイフがぶら下がっている。いったいこの闇のなかで何の光を反射しているのだろう。それに、どこからぶらさがっているのかもよくわからない。ただ目の前にナイフがある。それだけだ。ふと思い出す。そういえば昔の映画に、密林の沼地で戦士が大量のひるに吸いつかれ、それをナイフでめりめりと剥がしていくシーンがあったっけ。いま目の前のこの光景はあの映画の場面と同じだな。吸い寄せられるようにナイフに手を伸ばす。ちょっと、どうしたの、何をしようというの? 彼女の怯えたような声が聴こえてくる。けれども彼女なんていないのだ。すべてはまぼろしだ。空中のナイフを掴み、ひるとふともものあいだにナイフを滑り込ませようとする。すると突然、ひるがふとももの傷を離れ、飛び上がった。それと同時にふともものあたりのあまい痺れも消えてしまった。ところでひるは毒を吸い出してくれたのだろうか。まあいい。もうひるをふとももから剥がす必要はなくなった。ほんの少し残念な気持ちになってしまうのが不思議だ。物騒なナイフもいらなくなったのだが、念のため脇に挟む。なんてことをするの、危ないじゃない。落ち着きを取り戻したような彼女の声が少し離れたところから聴こえてきた。声の方を見ると、ひるが空中に浮かび上がっている。そしてそのすぐ下のあたりにやや小さめのひるが三体浮かび上がっている。不思議な光景だ。さらに不思議なことに、巨大なひると小さめのひるたちとのあいだにコーネルのカシオペア#1までが浮かび上がっているではないか。どういうことだろう。まったく理解が追いつかない。手遅れだったようね、あなたはもう終わりみたい。突き放すような彼女の声が聴こえたあと、ひるたちとカシオペア#1は遠ざかっていった。あわてて追いかけ、繁みをかきわけるとまるでドアが開いたような音がして、繁みの向こうに祭壇のようなものが現れた。いや、これは葦船だ。こ、これは。思わず声に出してつぶやく。姿の見えない彼女が答える。そう、ここはひるこのいる場所、いざなきといざなみに捨てられたひるこが、葦船に入れられて流れ着いた場所、いざなきといざなみ、そしてその子孫のこの国の神々への復讐の機会をここでじっと待ちわびていたの、そして今夜ついにこの箱を手に入れたわ。思いつめたような彼女の声が聴こえて、コーネルのカシオペア#1が静かに葦船のうえに置かれた。それを合図にしたかのように、いきなりあたりがうすぼんやりとした光に包まれた。光と箱と葦船の祭壇。ほかにはもう何も見えない。ジャングルの樹々も闇も消えてしまった。それでも目的は見失わず、箱に向かって歩いていく。葦船の祭壇の前に立ち、箱を抱え上げようとした。するとどういうわけかそこには箱はなく、一体の巨大な白いひるがいた。驚いて脇にはさんでいたナイフを落としてしまった。巨大なひるにナイフが突き刺さる。痛い。なぜか背中に激痛が走った。背中を触るとそこにはまさにいまひるに落としたナイフが突き刺さっていた。目の前の巨大なひるとシンクロしているとでもいうのか。ひるとともにナイフで貫かれる。そしてお腹のあたりでまっぷたつに割かれてしまった。が、その刹那、ナイフが貫いたのは巨大なひるではなくコーネルのカシオペア#1だったということがわかったような気がした。といってもそれは時間にしておそらく十の一兆乗分の一秒未満の間のことだ。そしてその同じ刹那に、割かれた上半身からは下半身が、下半身からは上半身が再生し、さらに、この宇宙と箱の中の宇宙が混じり合った。


 朝。水を張ったばかりの田んぼの傍らを走る灰色のアスファルトの道路の上に、ちいさな網と青いバケツが置かれている。既視感のあるこの光景。この記憶は誰のものか。上半身から再生した私のものか。あるいは下半身から再生した私のものか。いずれにせよ、再生したかもしれない私の再生したかもしれない朝がこうして始まる。別乾坤。

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