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弥勒奇譚

作者: 四国三郎

「またあの夢だ」

弥勒は同じ夢を繰り返し見るようになり、ここ数年は三日と開けず頻繁に見るようになっていた。

弥勒は京に住む仏師で、中堅どころとなった現在いくつかの仕事を任せられるようになっている。考えてみればこの夢を見るようになったのは師匠の不空に弟子入りした頃からであった。

不空は明るい性格の男で弟子も多く老境となりつつある今も精力的に仕事を受けこなしていた。弥勒は中堅とは言え口数の少ない物静かな性格で、どちらかと言うと弟子の中でも目立たず、新たな造像より修理の仕事をあてがわれる事が多かった。


「夢」とはこうである。

いずこか山深い地の寺院か神社の御堂に一人いて、仕事の依頼を受けたのか仏像を彫っている。半丈六の坐像で尊名はよく分からないが如来像のようだ。

夢だからと言ってしまえばそれまでだが結末はいつも同じで、仕上げの段階で手の印相を彫っている場面だ。今ではいつもやっているどうと言う事もない作業なのだが、妙に緊張して手元が覚束ない。そうこうしている内に鑿が深く入り指先を切り落としてしまう。短い叫び声をあげ目を覚ますのだった。

夢を見始めた仏師になりたての頃も、いくらか腕に自信もついてきた今も夢の内容に変わりが無いのは不思議と言えば不思議だった。

夢で見る景色は見たことも行ったこともない場所だし、如来のような尊格の高い造像は実はまだ経験が無かった。新規の重要な造像を手掛けてみたい気持ちとは裏腹に引っ込み思案の性格が災いしてか師匠からの声は掛からなかった。

平安京への遷都から数十年が経過しており藤原氏の台頭も手伝って造仏の仕事はいくらでもあった。

夢のことも気にはなったが日々の仕事に追われていた。

仏像の造立は大寺であれば寺院専属の仏師が携わるのが普通である。仏師を抱えられないような小寺院では弥勒のいるような仏師集団が依頼主から造仏の仕事を請け負うようになりつつあった。

いまは山科の安祥寺で小仏師として兄弟子の元であまり重要とも思えない作業を任されていた。贔屓目に見てもやり甲斐のある仕事ではなかった。


年の暮れも近づき仕事も大詰めとなっていた小雪の舞う寒い日に、師匠の不空がふらりと現れた。不空は仕事場を頻繁に訪れるのが常であったが、ここにはあまり足が向かなかったようで随分と久しぶりの事であった。

「「弥勒はおるか」相変わらずの張りのある声で呼ばれたのは意外にも自分の名前だった。「はいただいま」何事かと思いながら急いで不空の前に座った。

「お前、私のところに来て何年になった」

「今年で十五年になりました」

「そうか、ところで最近でもいつか話していた夢は見るのか」

弥勒はこれには少し驚いた。随分と前に一度だけ話しただけなのになぜ覚えていたのだろう。何で今になって急にそんな話を持ち出したのか訝しく思った。

「最近は三日と開けず見るようになっています」

「いやなに仕事の依頼を受けたのだが、その話を聞いてふとおまえの夢の話を思い出したのだ」

「どう言う事でしょう」

「この仕事の依頼を聞いた時にふとお前の夢の話を思い出したのだよ」

不空は思いもよらない話を始めたのだった。

「おまえも知っておるだろう道隆さまを通して薬師如来の造立依頼があったのだ」

「道隆さまと言いますといくつも阿弥陀堂を建立されている」

「今度は薬師如来ですか」

「本人ではなく頼まれごとのようなのだ」

「場所は大和の室生の里だ」

「室生と言いますと室生寺の金堂に奉る仏像の造立が始まるように聞いております。やはり室生寺での仕事でしょうか」

不空は「ふん」と少し不機嫌そうに鼻を鳴らすと「室生寺の仏像は官営造仏所の連中がやることになっておるわ」と吐き捨てるように答えた。

「この件は鎮守の本地仏の造立依頼だ」

「おまえの夢のように室生は大和でも最も山奥で、鎮守の龍穴社は室生寺よりさらに奥だと聞いておる。そこの社での仕事だ」

「どうだ、おまえこの仕事頼まれてくれるか。一躯のみなので一人で行ってもらうことになるがな」

「うちに依頼が来たのも何かの縁だ。もしかするとおまえの夢と何か関係があるのではないかとそんな気がするのだ」

たしかに気になる話だし任される仕事となるとやって見たい気はする。しかしながら行ったこともない地の果てのような場所に行くと思うと多少迷うところだ。だが現実には師匠の命令に逆らえる訳もない。

「開眼供養までにはどのくらい時間を頂けるのでしょうか」

「室生寺の方も遅々として進んでいないようで来年の秋頃までで良いそうだ」

「それはまたゆっくりですね」

「時間は余るほどあるから道すがら大和の寺院でも参詣して天平の仏でも拝してくれば良い。見ることも修行だ」

師匠にそうまで言われると断れない。このまま今までの仕事を引きずっていても何も変わりそうにも無いし思い切って行ってみようと、いつもの弥勒では意外なほど簡単に決心がついた。

「やらせてもらいます。道隆さまからは造像に際してのご要望はお有りでしょうか」

「木造、半丈六の薬師如来坐像と言うことだけだ。後は自分の思う通りに腕をふるってみなさい。私も一度は室生に顔を出すつもりだ」

「ありがとうございます。大した用意もありませんので年明け早々にも出立したいと思います」

 

その日は帰宅して早く床に着いたがなかなか寝付かれなかった。

弥勒は自身が大仏師となって造像の中心となった時に、理想とすべき仏のお姿を追い求めてきた。残念ながら未だにそのお姿は暗闇の底に深く沈んで光も射さないままであった。こんなにも早くその機会が訪れようとは思っても見ず、やってみたい気持ちと易く引き受けてしまった事を後悔する気持ちとが相克するのであった。

ようやくうとうとしかけたところで「あの夢」を見た。今夜の夢はいつもとは違っていた。彫損なってしまうところまでは同じだったがそこでは終わらず、呆然としていると何処からともなく十六七歳の少女が現れ落とした指を拾い上げてかすかに微笑むと指は元通りになっていた。それにしても今まで会ったことも無い少女の透き通るような美しさは、この世のものとは思えない神々しさまで感じる鮮烈な印象であった。

これまで何年も変化の無かった夢に続きがあろうとは思ってもいなかった。こうなると今回師匠から話のあった仕事と何か関係があるのではないかとも思うのであった。

大した用意もないとは言ったものの仕事道具や身の回りの物やらで結構な荷物になった。

出立の前日に新年の挨拶も兼ねて不空を訪ねた。

「明日出立しますので暇乞いに参りました」

「どこに寄って行くことにしたのだ」

「はい木津川沿いに下りまして大御堂、加波多寺などを巡りまして平城京に二三日留まって見ようと思っています」

「そのあと大御輪寺から長谷寺を参拝して行こうと思います」

「そうか、道中くれぐれも間違いの無いように特に生水には気を付けるようにな。これは少ないが路銀の足しにしなさい」

と言って餞別を渡すのだった。

「傷み入ります。では行ってまいります」

「気を付けてな」

親の顔も知らぬ弥勒にとって不空は親代わりとも言える存在で入門当初から分け隔てなく愛情を注いでくれた。しかしながらそれは多くの中の一人であり不空が自分に対して格別に気遣ってくれていると実感できたのは今回がはじめてであった。


翌朝、夜も明けやらぬうちに家を出た。寒風が松飾りを揺らしている。寒さが身に応える。

大和街道に出て冬枯れの木津川を左に見ながら真っ直ぐ南に向かう。川幅に似合わぬ広々とした河原を埋めた薄の穂は北風に揺れ荒涼とした光景を見せていた。

風もいくらか治まり普賢寺大御堂には昼頃到着した。いくつもの堂宇が立ち並ぶ大伽藍である。境内に足を踏み入れると出迎えてくれるように参道の両脇で椿の花が咲き始めていた。

普賢寺大御堂の本尊十一面観音菩薩立像は以前から是非拝観したいと思っていたが、街道から少し逸れるので京に近いものの今まで訪れる機会が無かった。

京の仏師であることを伝えて許しを請うと直ぐ大御堂の本尊前に案内された。

ひとしきり読経を終え薄暗い内陣に目をこらすと、いくらか目も慣れてきて灯明の中にお姿が浮かび上がってきた。 広い堂内に似合わぬ小さな円筒状の厨子に奉られた菩薩は、優しく微笑みかけているように見えた。

「噂には聞いていたがなんと美しい仏様だろう」百年以上経ているとは思えない活き活きとした体躯と、疑うことを知らぬ少年のように明るく朗らかな表情は弥勒に取っては衝撃だった。「やはり天平仏はすばらしい。この柔らかさは漆を大量に使わないとなかなか出せないだろう」天平時代の高価な漆を使った仏像に代わり、造仏の数が飛躍的に増えたこの頃は木彫が主流となっていた。

しかしこの十一面観音の曇りのない美しさは弥勒にとっては眩しすぎた。

「わたしにはとても真似できないかもしれないな」

丁寧にお礼をして大御堂を出ると元来た道を戻り加波多寺に向かう。


加波多寺に着くころには陽は西に傾き生駒の山並みが夕焼けに赤く染まっていた。

普賢寺に比べるとこぢんまりとしている。訪れる人も多くは無さそうで静まりかえっていた。一夜の宿と本尊の拝観を請うと小さな庫裏に通された。

本尊は明朝の勤めに出てから拝観されるようにとの事で、その日は夕食を済ませて早めに床についた。寒さでなかなか寝付かれなかったが旅の疲れも手伝って眠りについた。

翌朝は末席で勤めに加わった後本尊に向かった。

丈六の銅で鋳造された釈迦如来坐像は狭い本堂の中で屋根裏に届きそうなくらい窮屈そうに奉られていた。以前拝観した薬師寺の薬師如来像は良く似ているがもっと洗練された感じであった。釈迦如来の威厳があり厳しい表情の中にも静寂な湖の景色を彷彿とさせるお顔は、弥勒にとってこれから造像にあたる薬師如来により近いものを感じるのだった。許しを請い釈迦如来のお姿を描き写し正面や左右から十数枚も写したところでもう昼近くになっていた。

急ぎ加波多寺を辞して平城京へ向かう。


平城京へは朱雀門から入ったが以前来た時より人通りも少なく、寒気も手伝い何となく寂れたように感じる。左手に遠く見える大仏殿の大屋根はさすがに変わらぬ威容を誇っているが、行きかう人々は何となく生気に欠け野犬が跋扈し街全躯が荒んだ様子である。

西大寺の五重塔を右手にみて薬師寺へ向かう。薬師寺は以前訪れたことはあったがもう一度本尊の薬師如来を拝観しておこうと思ったからだ。南側の中門を通り美しい東西の三重塔を左右に見て本堂に向かう。

久しぶりに会った薬師三尊はやはり素晴らしい仏だった。加波多寺の釈迦如来像を拝観した後では、人間が造ったとはとても思えないほど洗練され、その上なぜか万人を包み込む優しさを合わせ持つその美しさは際立っていた。

しかし弥勒にとってはその洗練された美しさがかえって近づき難いものを感じさせた。

わざわざ足を運んでは来たものの、この薬師三尊は技術的にも感覚的にも弥勒が抱いている今回の仕事の構想とは掛け離れたものであることを痛感させられただけであった。


翌朝、薬師寺を出立しそのまま山の辺の道を南に向かう事とした。

数日間平城京に滞在する予定にしていたが先を急ぐ気になった。と言うのも弥勒には珍しく早く仕事に取り掛かりたい焦りにも似た感覚が湧きあがってくるのであった。

この二日間仏像や仕事の事で頭の中は一杯だったが不思議なことに夢は見なかった。

街道沿いに並ぶ山茶花のほのかな香りに旅の疲れを癒されつつ山の辺の道を下る。三輪山の姿が大きくなってきた頃には陽は西に傾きつつあった。今日の目的地である大御輪寺に着いた時分には辺りは薄暗くなっていた。もう日も暮れかかっていると言うのに門前は多くの人で賑わっていて平城京よりもむしろ活気があった。

それより驚かされたのは大御輪寺の壮大さであった。寺と言うよりは一つの街と言った方が良いのではないかと思われるほどの広大な境内に、おびただしい数の堂宇が立ち並んでいた。もっとも大御輪寺は大神神社の神宮寺なので人も堂宇もほとんどが大神神社に関係しているのであるが。

その日は三輪で宿を取り翌朝大御輪寺を訪ねる事とした。

翌日も早くから朝市の呼び声で大賑わいの街を抜け、少し奥まった大御輪寺まで来ると人もまばらになり先ほどまでの雑踏が嘘のようであった。

すでに朝の勤めは終わったらしくすぐに本堂に通された。誰も居なくなり底冷えのする本堂を内陣まで進むと、巨大な本堂には似つかわしくない小ぶりの厨子が奉られていた。   

案内の僧が灯明を点けると厨子の見事な装飾の中に本尊が照らし出された。

本尊は天平の十一面観音菩薩立像で脇侍に地蔵菩薩と不動明王が配されたとても珍しい三尊となっていた。噂ではここの十一面観音像は普賢寺大御堂の観音像にとても良く似ていると言われていてそれも足を運んだ理由の一つであった。

灯明に浮かんだお姿を見ると確かに法量や衣文の流れなどは普賢寺像と瓜二つと言えそうだが、全躯から受ける印象は全く違っていた。明るく溌剌とした普賢寺像と比べて大御輪寺像は陰鬱かつ重厚な印象でやはり神の山に相応しい存在感がある。

そのお顔やお姿は仏像と言うより、何事も見通し過ちを一切許さない威厳と崇高さまで兼ね備えた神の化身のようであった。

弥勒にとっては今回の仕事の手本になるとすれば大御輪寺像の方がしっくり来るように感じていた。手本とすべく許しを請うてお姿を描き写した。


大神神社の参道を抜けまた山の辺の道を南に下る。

少し遠回りとなるが風もなく暖かな陽気にも誘われ飛鳥の山田寺に寄ることにした。加波多寺、薬師寺と来たからにはやはり山田寺に寄ってこの二躯の先駆けとなった薬師如来像を拝観したくなったのである。

左に行けば伊勢松坂への道だが真っ直ぐ飛鳥の方へ進み、右手に天香久山を眺めつつしばらくすると山田寺の五重塔が見えてきた。

中門をくぐるといきなり正面に五重塔が聳えていて金堂は塔の裏にある。

金堂内陣の薬師三尊は薬師寺と全く同じ形式で中尊は坐像で脇侍は立像である。

加波多寺像、薬師寺像、山田寺像とも金銅で鋳造した坐像で法量もほぼ同じだ。その中でも山田寺像が一番古い時代に造像されている。にもかかわらず山田寺像が最も若々しく溌剌としたお顔をされていた。

赤子のようなはちきれんばかりの頬とは対照的に、高僧のように知性までも感じさせる涼しげな目元や眉弓が違和感なく表現されているのに弥勒は驚きを隠せなかった。でもやはり明るいのだ、弥勒が見たかったのは威厳と重みがあり見ていて息の詰まるような存在感のある表現なのである。


山田寺を辞すと来た道を戻り松阪方面に曲がり初瀬街道に入る。

このまま行けば夜遅くには室生に着けそうだが不案内な山道を夜中に一人歩くのは気が進まなかった。まだ日暮れまでには少しあったが初瀬で一泊する事にした。

明日の今頃は室生の里にいるのかと思うとなかなか寝付けなかった。

あの夢の景色を見ることになるのだろうかそれとも全く関係の無い話なのだろうか。

翌朝は山道もあるので足ごしらえを十分にして出発した。まずは長谷寺に参拝することにして街道を挟んで南側の山に向かった。

さすがに観音霊場として多くの参拝者を集めるだけあって活気で溢れていた。椿の花が両脇を埋める長い回廊を巡礼者達が登って行く。弥勒もその人達に混ざって登っていくと大きな本堂の屋根が見えてきた。

長谷寺の本尊は十一面観音だが巨像であり地蔵菩薩のように錫杖と数珠を持つその独特のお姿で知られている。

弥勒は仏像としてはここの本尊にそれほど興味があった訳ではなかった。ただ観音様のご利益にあやかろうと本堂に上がった。巡礼者の焚く香に咽かえりながら本尊を拝観し造仏の成就を祈念した。

仏像と言うより本堂の柱や壁の一部と化したような十一面観音像の巨大さには驚かされたが、思っていたような違和感もなく三十尺に余る巨像を造り上げた仏師の力量に感心するのだった。


初瀬街道を下り大野の集落で右に入り山道に差し掛かるころには、折悪く小雪も舞出した。殺風景な谷川沿いの道を足元を気にしながらゆっくりと登って行く。あまり人通りもないのか笹の葉が覆いかぶさって人一人がようやく通れそうな道を掻き分けながら進む。寒さも一段と増してきたように感じる。この先に本当に人が住んでいるのかと疑いたくなるようなほど心細い道であった。

疲れも頂点に達した頃ようやく室生の里に入った。室生寺の入り口はすぐに分かった。造営中とは聞いていたがあたりに人影はなく、小さな橋を渡って足を踏み入れた境内は静まりかえっていた。

咎めだてもされず長い石段を登って行くと右手に懸崖造りの御堂があり中では仏像を制作中のようである。是非覗いて見たい衝動に駆られつつも中にいるのは造仏所の仏師達だと思うと気後れして素通りした。

突き当りの瀟洒な五重塔を参拝し早々に引き返し境内を出た。道に戻りまた山道を登って行く。龍穴社はもうすぐそこのはずだ。鼓動の高まりを感じつつ一歩進むごとに辺りの景色を眺めては見るがどれも夢で見た景色ではなかった。焦りとも何とも言いようのない感覚を覚え、単なる夢で見た光景の謎解きをこれ程までに期待していた自分にも驚き呆れた。

ようやく龍穴社に到着した頃には山道の疲れも手伝って今にも座り込みそうであった。

注連縄が張られた結界で一礼しゆっくりと足を踏み入れた。境内は鬱蒼とした大木に囲まれ木々を揺らす風の音が遠雷のように響き深山の趣を一層増していた。

 参道の先には質素な本殿が建ち、右手には社務所らしき建物があった。

薄らと雪化粧した境内の参道を抜けて本殿の前で手を合わせた後、社務所らしき建物の前に立った。

「京より参りました仏師の弥勒と申します。どなたかおいでになりませんか」

声を掛けてみたが返事がない。あたりに人気もなく致し方なく社殿の回廊に腰を下ろして待つことにする。

雪は止んだが、だんだんと冷え込みが厳しくなってきた。しばらくすると一人の老人が訝しげに近づいてきた。老人は七十歳くらいの小柄な男で身なりからすると神職であることは容易に想像できた。

「旅のお方かな」

「京より参りました仏師の弥勒と申しますがこちらのお方でしょうか」

「おお、あなたが。お待ちしておりました」

「このような鄙の地へ遠路はるばる良くお越しくださいました。なんのもてなしも出来ませんがまずは休まれよ」

「遅れましたが宮司の不動と申します。ここは私一人ですのでどうかお気使いなく」

社務所の中に通されて腰を下ろすとようやく囲炉裏の火の暖かさで人心地がついた。

「お一人では何かと大変でしょう」

「なに、里の衆があれやこれやと手伝ってくれるのでな。しかし私も歳なのでいつまで持つやら、ここまではなかなか来てくれる物好きもいないのでな」

「今回のご本地様の造立も引き受け手がなく弱っておりました」

「どのような方が来てくださるのか心配しておりましたが、京より腕利きの仏師が来られると聞いて楽しみにしておりました」

「腕利きなどと言われると恥ずかしい限りです。まだまだ若輩者です」

「ところで弥勒殿は御幾つになられる」

「三十歳になります」

「お若く見えますな。京のお生まれかな」

「私は物心つく前に京で寺に預けられて生まれも両親も定かでは無いのです」

弥勒は自分の生い立ちを話すのがあまり好きではなかった。それは生まれ育ちが理由だと言うことはよく分かっていた。不動の話を振り切るように仕事の話を切り出した。

「ところで仕事場を拝見したいのですが」

「そうじゃ、仕事場はここから三町ばかり上がったところに今は空き家となった家があるのでそこを使ってもらおうと思っておる。明日にでも案内するので今日はこちらで休まれよ」

その晩は旅の疲れも手伝ってすぐに眠りに落ち夢も見なかった。 


翌朝、不動に連れられ仕事場に向かった。龍穴社を出て川沿いに上って行くと道の右側の少し高くなった場所にその家はあった。

敷地の道側に家が建っていて奥には広くは無いが庭があった。庭に出て左手に水場があり水場から山側に向かって山櫻が数本植わっていた。

空き家だと言っていたが良く手入れされていた。一歩入ると広い土間になっていてすぐの右手には炊事場があった。左手の手前には広い部屋があり作業場として使えそうである。左手奥は小上がりの座敷になっていて寝泊りはここで十分であった。

「いかがかな、里の衆が顔を出すので用事は言いつけてくだされ。私も顔は出すが」

「ありがとうございますここならば十二分に腕が揮えそうです。一人暮らしは慣れておりますのでお心遣いはご無用に願います」

家の庭に出て水場を確認し何気なく龍穴社の方を振り返った。

快晴の冬空に稜線が際立っている。 

弥勒は思わず驚きの声を上げた「これだ。ここだったのだ」そこには夢と寸分違わぬ景色が広がっていた。

弥勒はめまいを感じその場に座り込んでしまった。

「弥勒殿どうされた」

不動が心配そうにのぞきこんでいるが返事をしようにもうまく言葉が出ない。ようやく気を取り直して立ち上がり不動に夢の話をした。

「それはまた不思議な話じゃな。この家には私のところで禰宜をしておった男とその妻と

若い娘が住んでおったのだがその娘が事故で亡くなってな。落胆したんじゃろう、夫婦は間もなく行方知れずになってしもうた」

「事故とはどのような」

「もう十年も前になるか、龍穴社で雨乞いの祭礼をとり行っている最中に突然落雷があり、その折に雷に打たれて亡くなったのじゃ。雷に打たれたと言うのに傷一つ無くまるで生きているかのような様子であった」

「里の衆は龍神様に招かれたのだと噂しておったがな」

「夢に出てきた少女なのだろうか。でもなぜ私の夢に出てくるのだろう。一つ謎が解けたと思ったのだがまた謎が増えてしまった」


その夜久しぶりに夢を見た。

さらに続きがあり少女が弥勒に語りかけるのだった。口元は喋っているようには見えないのだが、この世のものとは思えないような清らかな声が直接心の底に響いて来るように感じた。

「ここから龍穴社を背にして山を登ると立ち枯れた榧の大木があるからそれを使って仏を彫りなさい」

まさに夢のお告げだった。

目を醒ました弥勒は居ても立ってもいられずまだ暗い中を裏山に行ってみた。まだ薄暗いうえに狭い急な斜面を何度も足を滑らせながら登った。すると平らな場所に出て夢で少女が語った通り榧の大木があった。月明かりに照らされたその木は幹回りが三十尺はあろう大木で、枯れてから随分と時が経っているようだった。しかし外から見る限りでは腐った様子もなく、大きさと言い今回の仕事にはうってつけの材と見えた。

弥勒は夜が明けるのも待ちきれず不動のもとへ走り下りて今朝の出来事を話した。

「いくつか材は用意しておったがそう言う事ならば後ほど里の衆もつれて見に行くとしよ

う。それにしても不思議なことだ、その夢の中の娘は龍神様のお使い姫なのかの」

不動と里の衆数人と連れ立って現地へ行くと、明るくなったこともありその見事さは里の衆をも驚かせた。

「こんなところにこのような大木があるとは全く知らなんだ。良い日を決めて祭礼をとり

行い切り出す事としよう。寸法は里の衆に伝えてくれれば良いようにしてくれるでな」

榧の大木は八尺ほどの高さに切られ仕事場に運び込まれた。切り口からはほのかに榧の良い香りがし年月を経た枯木とは思えないほどであった。


弥勒は仕事に取り掛かる際はまず初めに図面を描いて彫始めるのが常であった。今回もまず京から持参したものや加波多寺や大御輪寺などで書き溜めたものを参考にして図面を書き始めた。

加波多寺の釈迦如来や大御輪寺の十一面観音のように重厚で威厳のある仏にしたいと図面を描いてみるのだが厳しさの表現に納得がいかず、幾日も書いては破り書いては破りの繰り返しで一向に仕事が進まないのだった。

「水垢離でもして龍神様に祈願してみるか」

いつもはしたことも無いが、水垢離をして身を清め初めからやり直してみようと言う気持ちになった。

何でもいいからきっかけが欲しかった。

「不動殿、こちらには水垢離が出来るような場所はありますか」

「ここは以前修験者も良く来ていたので本殿の裏に小さな滝があって滝行が出来ます。なんなら私も祈祷して進ぜよう」

「ありがとうございます。仏様のお顔が思ったように描けませんので」

「弥勒殿の夢では仏のお顔は見えないのかな」

「はあ、彫っているのはいつも他のところでお顔ははっきりとしないのです」

翌朝滝に打たれてはみたものの筆は遅々として進まず、最近では何もせずにぼんやりと過ごす時間が増えてきた。


ある日気分を変えようと里の衆に聞いた少し山を上った所にある古い社の跡へ行ってみた。

かなり以前から人の手が入っていないらしく社も朽ち果てていた。境内の大きな石に腰を下ろしていると疲れが出たのかついうとうとしてしまった。ほんの一瞬だったような気がしたが「あの夢」を見た。今回はいきなり仏に鑿を入れている場面から始まった。そしてはっきりと仏のお顔を見ることが出来るのだった。そのお顔は加波多寺の釈迦如来のように重厚で秀麗な、大御輪寺の十一面観音のように威厳に満ち崇高ささえ感じさせる表情であった。

「これだ」弥勒は飛び起きると走るように家に帰り、今見たばかりの仏のお顔を写し取り細かいところまで書き加えた。今までの事が嘘のようにあっと言う間に図面は完成した。

弥勒は気になって不動に聞いてみた。

「山の上の社の跡は何か由緒があるのですか」

「あそこは元々この龍穴社があった場所じゃよ。私が来た時にはすでにここに遷座しておったので詳しくは知らんが先代の話ではなんでも水場が枯れてしまったので仕方なくこちらに移ったと言う事じゃ。雨乞いの神が水枯れでは示しがつかんかったんじゃろうよ」

不動は自嘲気味に短く笑った。

「実は昨日社の跡でうたた寝をしておりましたら例の夢を見ました。今回はじめて仏のお顔を見ることが出来たのです」

「弥勒殿の夢は何らかの神仏の啓示としか思えんな。あそこは言い伝えでは龍神が天から

降り立った場所だと言われておるので、もしかするとそなたは龍神さまと因縁があるやも知れんな」

「前世からの因縁なのでしょうか」

「分からんが弥勒殿の夢はただの夢ではなく、神仏の意思を縁のあるそなたを通して世に伝えようとしていると思えるな」

「神仏のご意思となれば逆らうこともなりませんし思い描く仏のお姿とも相違ありません。神仏のご加護を得てこの仕事を成就させたいと思います」


そしていよいよ弥勒は造像にとりかかった。まずは大まかな木取りである、墨で榧材に仏の輪郭を描き余分なところを削り取っていく。すでに乾燥が進んでいるので難なく鑿が入って行き二三日もすると早くもおぼろげに輪郭が分かるようになってきた。

ここで一旦手を止めて余分な箇所に墨を塗って行く。これからは塗った墨を削り取って行くことの繰り返しである。削り過ぎれば元には戻せないので神経を使う作業が多くなる。

一か月も過ぎ輪郭もはっきりしてくる頃には疲れも頂点に達していた。

朝晩はまだ冷え込むとは言え外では山桜の蕾が今にもほころびそうになっていた。

いつもの弥勒ならここで二三日休むところだが今回は気力も充実していて休むことなく荒仕上げに入っていった。

忘れないようにと図面を描いたものの夢で見た仏の表情は頭にこびり付いて剥がれるようなものではなかった。意識の中にこれから造る薬師如来像がすでに出来上がっているような感覚で、その通りに余分なところを取り除いて行けば良かった。いつもは手の遅い弥勒だったが鑿を入れるにも迷いが無く自分でも信じられない早さで進んで行った。

夢の場面はその都度大きく変化していくのであった。弥勒にとっては夢で見た事の後を追って彫って行くようになってしまっていた。

「これでは誰が彫っているのか分からないな」

仕事がはかどりお姿が現れてくるのは誠に嬉しいのだが、心の片隅に自分で彫っているのではなく彫らされているのではないかと言う不満でもなくわだかまりのようなものがふっと湧き出るのだ。苦笑いするしかなかった。

しかしながら夢で見る仕事はどれも納得の行く内容で文句の付けどころは無かった。

二三日続けて夢を見ない日もあり、これは休めと言う事かと思い休みを取る事とした。

気が付けば輪郭はほぼ出来上がっていたがこのところの昼間の暑さもあって疲労も限界に近づいていた。


仕事場の裏の山櫻はいつの間にか満開となり心を和ませてくれた。季節は知らぬ間に春へと移っていた。

麗らかな陽射しにものんびりと過ごす気にならず一日だけで再び取り掛かった。

まず体躯の仕上げに入った。手先の印相を彫り始めたが夢で失敗する場面がどうしても頭から離れず指先に鑿を入れることが出来ない。何回やろうとしてもあの指を切り落とす「夢」の場面が彷彿として思い切ることが出来なかった。

思い悩んだ末、「恐らく印相は別材で造れと言っているのだろう」と呟くと、弥勒は何を思ったか鉈を手に取ると手首から先を一気に切り落とした。自身でやっておきながら一瞬鼓動が止まったかと思った。

手先を別材で造ることで気が楽になったのか、一度も失敗することなく両手の印相を彫り上げる事が出来た。腕の先に臍穴を掘り両手を差し込んでみると全く違和感がなく自身でも驚くほど出来栄えであった。


次に衣の彫だが弥勒は衣文の彫りがあまり得意ではなかった。全躯の調和を取るのが苦手なのである。少し彫っては像から離れて全躯を見る、少し彫っては全躯を見るの繰り返しでいつもの何倍もの時間と手間を掛けて衣文を彫りあげた。

お顔の彫りに取り掛かろうとするのだが最初の一手を入れるのに逡巡する日が続いた。

仕方なく気分を変えようと頭髪を先にすることにした。

螺髪は掘り出さずに全て別に彫って頭に貼り付けようと考えていたので一つ一つ丁寧に作って行く。細かい作業で意外に手間取り百八個すべてを彫りあげるのに数日かかってしまった。

それでもなお弥勒にはお顔に鑿を入れる勇気が出ない。

加波多寺で書き写した絵を見直したり夢を書き取った図面をながめたりしてみてもなかなか手につかなかった。


庭先の山藤の花も今にも咲きそうなまでに伸び、季節は初夏を迎えようとしていた。随分と先に思えていた約束の時期も残すところ百日を切ろうとしていた。

「このままでは約束通りに仕上げられないのでは」今まで感じていなかった焦りが湧いて

くるのであった。

不動は時たまやってきて雑談などして気づかってくれる。

「随分とはかどりましたな」

「いやどうしてもお顔を彫り始められなくて少々焦ってきました」

「なにそう焦りなさるな。もう時間が無いではなくまだ何日も十分余裕があると思う事じゃよ」

不動とのたわいのない話でいくらか気のまぎれる弥勒であった。

「ときに弥勒殿の数珠はあまり見かけないものだがどちらのご宗旨かな」

「この数珠は以前お話しましたが、寺に預けられた折に私が持っていたそうです。出自の手がかりになるのではないかと肌身離さず持っておりますがどこの物かはいまだに良く分からないのです」

「前から気にはなっておってどこかで同じものを見た記憶があるのじゃがどうしても思い出せんのだ。まったく歳は取りたくないものじゃて」

「数珠のほかには何か手がかりはないのですかな」

「ほかには何もありません。ただ住職の話では私には随分と年の離れた兄がいて、預けられたときにも母親と一緒に来ていたそうです。それと兄の名は文殊と言っていたそうです」

そのとき不動の顔色が俄かに変わった。

「文殊ですと、そうかそうでしたわ」

「不動殿どうされました」

「弥勒殿があの夢を見る訳が分かりかけてきましたぞ。いつぞやお話した禰宜の事はご記

憶か」

「娘子を亡くされたと言う」

「そうじゃその禰宜の名前が文殊だったのよ。それで思い出したのじゃが文殊は弥勒殿がお持ちの数珠と同じものを確かに持っていたのじゃ。どこかで見た事があるはずじゃ」

「兄がここに居たと言うのですか」

あまりに急な話で呆然としている弥勒に不動は確信に満ちた顔で語った。

「名前だけでは同じこともあろうが数珠が何よりの証拠じゃ。間違いあるまい」

「では亡くなった娘はわたしの姪になると言うことですか」

「恐らく間違いあるまい。それで夢の中で導いてくれておるのだろう」

なんと言うことであろう、いまの今まで全く手掛かりらしい手掛かりも無かった出自も夢の謎も一瞬にして解決したかのように思えた。

「しかし、世の中にこのように不可思議なことが本当にあるのだろうか」

弥勒は力が抜けてその場に座り込んでしまった。

「しっかりなされ。そなたはここに来て仏像を彫る運命だったのじゃよ。そうとしか考えられん。死んだ姪御の魂がここまでそなたを導いて来たのじゃ」

「姪の名はなんと言いました」

「普賢と言うてな、それは美しい娘じゃった」

弥勒の眼からはなぜか涙があふれ出て止まらなかった。


その日はひどく疲れて早く床に着いてはみたものの、会うことも無いであろう兄や姪の事を考えるとますます眼は冴えるのだった。ようやくうとうとと少しばかり眠れたのは朝方になってからだった。ほとんど寝ていないにも関わらず不思議と爽快な気分で、気力も復活して来るのを感じた。

食事も早々に済ませお顔の仕上げに取り掛かった。 鑿の刃先、槌の一振りも全く迷いが無く数日前までの不調が嘘のように進んで行く。眼、鼻、口と見る間にお顔の表情が現れてきた。今までにこれほど思い通りに彫れた経験は無いと言ってもよかった。

仕事を面白いと思ったことはそれほど無かったが今度ばかりは一時でも長くこの仏像を彫っていたいような感覚にとらわれた。しかし思いとは裏腹に見る見るお顔が仕上がって行くのだった。

驚くべき早さでお顔を彫り上げた弥勒はじっくりとお顔を見直した。

「これを私が彫ったのか」

まさに思い通りに彫りあげられたその出来栄えに弥勒は我ながら驚くのだった。手直しが必要と思われるところは無かった。

彫りの作業の最後は背繰りである。

材の乾燥に伴う干割れを防ぐために背中から大きくえぐり取って空洞を作り蓋をするのである。今回は内繰りも丁寧に彫りたいと思い時間をかけて綺麗に仕上げた。そして取ってあった別の材で蓋を作り隙間なくはめ込んだ。

翌日からは表面の仕上げに取り掛かった。削り残しや細かな凸凹を小さな刀で整えて行く。弥勒はいつもその上に木賊の乾燥したもので表面を削ることにしていた。


この作業も終わろうとしていたある日龍穴社より使いが来た。客人が来ているので下りてきてもらいたいとの事だった。こんな所に客が来るはずはないので恐らく師匠の不空が来たのだろうと想像はついた。来るとは言っていたがまさか本当にここまで来るとは思っていなかったので、これには少しばかり驚いた。

弥勒が急いで下って行くと不空は汗を拭きながら待っていた。

「少しやつれたようだが仕事の進み具合はどうだ」

「はい、ほぼ彫り終わっていま表面の仕上げをしているところです」

「もうそこまで出来ているのか。早いな」

「例の夢がここぞと言うところで手助けをしてくれているようで、行き詰ることもそれほどなくできた次第です」

「まだあの夢を見ているのか」

「そう言えばこのところ見なくなりました。もう必要がないと言う事でしょうか」

「そんなこともあるまい」

弥勒はここに来る道すがら拝観した仏像の話や夢の続きなど息せき切ったように一気に話したのだった。

「なるほど確かに普通の夢では無いな。誰かがおまえに夢を見せているように感じるのも無理は無いな」

「話の続きは道すがら聞かせてもらうとして早く見たいな」

弥勒はそろそろ日も暮れかかってきたので作業場へは明朝案内しようと思っていたのだが、不空は話を聞いて早く見たくなったらしく弥勒を急き立てるように道を登って行った。

作業場についたころにはあたりは薄暗くなり始めていた。

「すまんが灯りを」

弥勒は急いで作業部屋の灯りを点けた。揺れる灯りに浮かび上がった薬師如来像はたった今彫りあがったとはとても思われないほどの重厚さと威厳を自然と身に纏っているように見えた。一瞬、鳥肌が立つのを覚えた。

不空は息を飲んだ。

「これをお前が一人で彫ったのか」

しばらく後に続く言葉が出なかった。

長い沈黙のあと不空は大きく息をつくとようやく口を開いた。

「おまえにこれ程の腕があろうとは思ってもいなかった。今ここまで彫れるのは私のところには居ないだろう。私でも出来るかどうか」

不空は振り返って弥勒の顔を見た。

「これも夢のおかげだと言うのか」

「やはり私の力だけではここまでは出来なかったと思います。夢に導かれて来たと言うの

が実感です」

「そう謙遜するな。夢の助けがあったとしてもおまえの腕で彫ったのだ。仏師としての力量が上がったことは間違いない。これからはもっと重要な造像に携わってもらうことになろう」

「そうだな、遠路はるばる来たのだからしばらく留まってこの仏像の台座と光背を作らせ

てもらおう」

その日は不空も作業場で寝ることにして夜が更けるまで二人で今までの事など話をした。今まで師匠とこれほど長い時間話をしたことは無かった。

弥勒はこの自分とは全く違う性格の師匠が好きだったがなぜか気後れして話せなかった。弥勒はふと自分が不空に認められた思いがして何か師匠と話をしている時間がとても楽しい時間となっていた。


弥勒はその夜久しぶりにあの夢を見た。

場所は龍穴社のようだが見慣れない建物から普賢が出てきてやさしく微笑みながら手招きをする。何であろうとその建物に入るといま作っている薬師如来が奉られている。普賢が灯明を上げるとパッと明るくなり浮かび出た薬師如来を見るとなんと彩色が施されていてしかも息を飲むほどの美しさであった。

弥勒は夜も明けやらぬ内から起きだして夢で見た薬師如来の彩色を写し取った。写し取ったと言っても高価な顔料を持っている訳も無く、色の名称を細かく書いていくのが精一杯であった。

「どうしたこんな早くから仕事か」

「起こしてしまいましたか申し訳ありません、先ほどまた夢を見まして」

「今度はどのような」

「彩色も済んで完成したお姿でした。お姿を忘れないように書き写しているところです」

不空は弥勒の手元を覗き込むと顔料の無いことに気が付いた。ゆっくり立ち上がると自分の荷から何かを取り出して弥勒の前に置いた。

「顔料だ。あまり色数は無いが使いなさい」

「ありがとうございます。やはり実際の色付けがあると無いのでは随分違います」

「しかし色付けは絵師に頼んであるのでそのうち来るだろう。絵師がおまえの書いたこの

図面を使うかどうかは分からんぞ」

「はあ、それについては今思いついたのですが、私に色付けまでさせてもらうことは出来

ないでしょうか」

不空は少し困った顔をした。

「うちのところではお前も知っての通り彫る者と色付けする者は明確に分けてあるからな」

「もちろん良く分かっています無理なのは。しかし今回だけはお許し願えないでしょうか。

どうしてもこの仕事は最後まで自分の手でやり遂げたいのです。やれる自信もあります」

不空はいつもとは違う弥勒の様子に驚いた。いつもは間違っても自分の要求を押し通そうとするような言動はしない男だった。

「色付けはやったことがあるのか」

「はい、像本躯にしたことはありませんが修理の手伝いで台座や板絵の色付けはかなりや

りました。顔料の配合も一通りは理解しているつもりです」

不空は暫し考え込んだ末に小さく溜め息をついた。

「お前がそこまで言うのなら好きにしてみなさい。この仕事はお前の言う通り最後までお前の手でやった方が良いのかも知れんな」

「ありがとうございます」

「絵師には私から話はしておく。顔料はここでは手に入らないが京から送らせるか」

「そうすると時間が掛かりますので山を下りて買い求めて来たいと思います。初瀬まで行けばあると思いますので」

「では帰りがてら初瀬まで一緒に行くことにするか」

不空が京に戻るまでの数日間、台座と光背を師匠と二人で造ることは弥勒にとっては自分でも不思議なほど嬉しい時間であった。今までさほど気に留めてもらっていなかったと思っていただけに、本躯の制作ではないこの仕事が貴重に思えるのだった。

蓮華座と七仏薬師の光背が完成して不空と弥勒は連れ立って山を下った。

初瀬の街で必要な物を買い揃えて不空は京へ、弥勒はまた室生の里へと別れて行った。

「開眼供養にはまた来るつもりだから身躯に気を付けて励めよ」

「はい、師匠も道中お気を付けて」


仕事場に戻った弥勒はすぐにでも彩色に取り掛かりたかったがなかなか筆を手に取ることが出来ないでいた。

「やらせてくれ」と言ってはみたもののさほど経験があるわけでもなく思い悩んでいた。

「そうだ、あれから室生寺造仏も進んだろうから一度見せてもらいに行こう。何か参考に

なるかも知れない」

ここに来る時は気後れしていた弥勒だったが薬師如来を彫り上げたと言う自信も手伝って室生寺を訪ねる気になった。

事前に不動を通して頼んでもらっていたので直接作業場を訪れた。

「仏師の弥勒と申します。仏像を拝見したいのですが」

蝉しぐれにかき消されてか、なかなか返事が返ってこない。二三度声を掛けると男が顔を出した。

「ああ、聞いておりますどうぞ中で見て頂いて結構です」

棟梁と思しきその男が弥勒を招き入れてくれ説明してくれた。まさに、薬師如来立像、地蔵菩薩立像が完成間近となっていてこれから彩色に取り掛かるところであった。

弥勒の眼を引いたのは仏像ではなく見事な板絵の光背であった。最近、増えていると噂には聞いていたが見るのは初めてで、光背と言えば彫刻と思っていた弥勒にとっては全く新鮮だった。

光背に色付けをしている男の手の空いた頃合いを見計らって声を掛けてみた。

「この光背の艶やかなそれでいて柔らかい色使いは何か特別な方法があるのでしょうか」

男は一瞬驚いたような顔をして弥勒の顔を見たががすぐに話をしてくれた。

「これはちょっとした工夫があります。目的の色と色の間にぼかしを入れるのです、こう

するととても柔らかな印象になります」

「なるほど、そう言えば色の境界がはっきりしませんね。こういう手法があるのですね」


弥勒は挨拶もそこそこに室生寺を後にして自分の作業場に戻ると、木端を使って今見てきた色付けの技法を見よう見まねでやってみた。

弥勒は今まで見てきた仏像への色付けにはどこか違和感があった。原色をそのまま使い鮮やかな色彩を身にまとって行く仏像を見るのがどうしても好きになれなかった。

色彩に圧倒されて彫刻としての存在感が感じられなくなってしまうのがどうしようもなく

嫌だったのである。しかし自分の仕事ではないので口出しすることもないし、ましてや今までは自分の中でもどのようにしたいか分からなかったのである。

「この手法が今までの違和感を一掃してくれるかもしれない」

弥勒は今回の薬師如来の色付けはこの手法でやってみようと思った。そうとなれば色付けは今まで思い悩んでいたことが嘘のように捗って行った。色付けは重ね塗りをしないと聞いていたが、弥勒はまず全躯に薄く白を塗って下地とし良く乾かした後で上から目的の色を載せていった。この方が色彩に柔らかさが出せるのではないかと思ったからだ。

下地が乾くのももどかしく肉身、衣、螺髪と塗り進めていく。色の境目の部分は徐々にぼかすように塗っていくが実際の仏像になるとむらができてなかなかうまくいかないのだった。

悪戦苦闘の末ようやく色付けが終わり後は開眼供養を残すのみとなった。


山里にはいつの間にか秋風が吹き始めていた。

「師匠は何と言ってくれるだろう。それより普賢は満足してくれるだろうか」

弥勒は夢を待ち望んでいる自分が居ることに苦笑いするのだった。

不動に会うため久しぶりに龍穴社を訪れたが生憎不在だった。

本殿では薬師如来像を奉るための厨子を造っている最中で宮大工が二人で忙しそうに働いていた。

本地仏は寺の仏像と違い一度厨子に納められるとよほどのことが無い限り厨子の扉が開かれることは無い。開眼供養の後はおそらく再び見ることは無いのだろう。そう思うと完成した喜びとは裏腹に寂寥感にも似た感慨がこみ上げてくるのだった。

「弥勒殿疲れた顔をされておるの。御用ですかな」

背後で相変わらず元気な不動の声がした。

「これは失礼しました。薬師如来が完成しましたのでこれからの事を相談に参りました」

「それはめでたい。厨子もあのように数日後には完成しよう。開眼供養の日取りはお伺い

を立てるのでお待ちくだされ」

「それより是非、薬師様を拝見したいものですな」

「明日にはここまで下ろしても構いませんが」

「それでは明日、里の衆に頼んでお運びいたそう」


翌日、朝から里人が六名ほど仕事場にきて薬師如来像を運ぶ準備をしていた。里人たちは作業場の薬師如来に手を合わせては口々に「見事なもんだ」「ありがたいことだ」と驚きとも感嘆とも取れぬ声を上げるのだった。

里人たちはいとも簡単に木組みの御輿を造り、再び手を合わせたのち慎重に像を載せて龍穴社へと下って行った。そして、社務所の一室に安置された。不動は待ち兼ねたように薬師如来像に対するとひとしきり祝詞をあげしばらくの間見入っていた。

「まさに瑠璃光浄土の主に相応しいお姿ですな。彫りあがった時のお姿も見事でしたがこのように色付けが済んだお姿は一段と美しいですな」

「しかしこの色付けは今まで見た仏様とはだいぶ違うようですが」

「先日、室生寺に行った折に絵師から新しい手法を聞きましたもので見様見まねでこのように色付けしてみました」

「さようか。何かこうお姿が浮かび上がるように見えますな。何とも美しい」

「正直、本格的な彩色ははじめてなもので自信はありませんが不動殿にそう言ってもらって安心しました」

数日後、ようやく厨子も完成し薬師如来像は再び里人の手で社務所から出て厨子に安置された。不空の造った台座に座し光背を背負うお姿はまばゆいばかりであった。

開眼供養が済んで秘仏となればもうお目にかかれないとあって、どこから聞きつけてきたのかひっきりなしに人が訪れて手を合わせていった。中には室生寺の仏師も何人か訪れた。彼らははじめはからかい半分のつもりで来ていたようであったが、弥勒の像を見ると一様に厳しい顔つきになり押し黙ったまま帰って行った。

弥勒は長い間の緊張から解放されたこともあり仕事場の片づけもやる気が起きず無為な日々を過ごしていた。

そうこうしている内に不動が嬉しそうな顔をして仕事場にやってきた。

「開眼供養の日取りが来月の八日と決まりましたぞ。供養の導師は室生寺の虚空上人が引き受けてくれました」

「よく引き受けてくれましたね。早速、師匠にも知らせます」

「どうも、そなたの薬師如来像の出来が見事な事を仏師達から聞き及んで引き受ける気に

なったらしいのじゃ」

不動は自分の事のように嬉しそうな顔で言った。


開眼供養も数日後に迫り準備もほぼ終わろうとしていたある日、龍穴社を一人の男が訪ねてきた。

弥勒と不動が社務所の前で立ち話をしていると旅人らしき格好のその男はきまり悪そうに頭を下げながら近づいてきた。

「不動殿お久しゅうございます」

不動はしばらく男の顔をぼんやりと見ていたが急に顔色が変わった。

「そなたは文殊、文殊ではないか」

「五年まえに無断で出奔いたしました文殊でございます。誠に申し訳ありませんでした」

不動は弥勒の顔を見たり文殊の顔をみたりしながらも、おろおろするばかりでどうしても次の言葉が出ない。

「不動殿どうされました」

「弥勒殿この男が依然話した文殊じゃ。そなたの兄じゃ」

不動はそれだけ言うとその場に座り込んでしまった。

弥勒もしばらく訳が分からず呆然としていたがふと思い出したように数珠を取り出して文殊の前に差し出した。

「私は弥勒と申します。この数珠に見覚えはありませんか」

文殊は怪訝な表情で数珠を手に取ると自分も懐から数珠を取り出した。

「まさか弥勒とは幼いころ京の寺で別れた弟の弥勒か」

「やはり兄上。これもあの夢の導きか」

「夢の導き。実は私も夢の導きでここへ来たのだ」

「ここではなんですから社務所の中で話をなされ」

不動は二人を社務所の中へ招き入れた。

弥勒は寺に預けられてからその後仏師になった事、夢の導きによって室生へ来て薬師如来像を造ったことを一気に話した。

文殊は静かに聞いていたが顔を上げると自分がここに戻ってきた経緯をゆっくりと話出した。

「数か月前から亡くなった娘の夢を見るようになりました。それまでは娘が夢に出てきた

ことなど滅多に無かったのです。初めは気にもしませんでしたが娘はしきりに一刻も早く龍穴社に行くよう申します」

「動揺していたとは言え恩義のある不動殿へ一言もなく出奔した身としてはどうしてもここに戻る気持ちにはならなかったのです。しかし娘の申し様は尋常ではなく、夢に根負けしたと言うのは誠に妙な言いようですが重い腰を上げた次第です」

「途中、何度も戻ろうと思ったのですがその都度娘が夢に出てきて早く行くように申すの

です」

「私の夢と同じです。まるでどこかで見ているかのように都度ごとに夢をみるのです」

「これはもう娘が開眼供養に合わせ我々兄弟を引き合わせたとしか思えません」

不動もようやく気を取り直し二人の顔をまじまじと見比べた。

「こうしてみると目元の辺りやおだやかな物腰も良く似ておる」

その夜は兄弟水入らずで夜が更けるまで語り合った。母親は弥勒を預けた後、数年で病がもとで亡くなり文殊も寺に預けられ住職の勧めで龍穴社に来たこと、妻と二人で出奔後各地を転々としたが今は美濃の寺で寺男として働いていることなどを聞いた。

「二日後には私が造った薬師如来像の開眼供養がありますので兄上も是非参列して下さい」「そうしよう。普賢の導きとあればなおのこと参列しない訳にはいくまい。それはそうと薬師如来像を私も見たいのだが」

弥勒は文殊を厨子の前まで連れて行き扉を開いた。

「これが娘が望んだ仏なのか」

文殊は低く呟くと感極まった様子でしばらく像の前を離れることが出来なかった。

「弥勒よありがとう。このような見事な仏は見た事が無い。娘もさぞかし喜んでいることだろう」

「この薬師如来像は自分でも出来過ぎでたくさんの褒め言葉をもらいましたが、兄上の言葉が何より一番嬉しいものです。普賢もどこからか見ていてくれている気がします」


開眼供養の日は朝から快晴で龍穴社にはこの山里のどこにこれだけの人がいるのかと思われるくらいの人が集まってきた。室生寺の僧や仏師、里人は言うに及ばず多くの人たちで本殿の前は溢れた。不空も昨日の夜に到着していた。

「それにしてもすごい人の数だな。麓の村でもおまえの造った薬師如来の噂で持ちきりだったからな」

不空はまるで自分の事のように嬉しそうに言うのだった。弥勒もそんな師匠の様子を見て今まで感じなかった達成感がじわじわと湧いてくるのだった。

「師匠、そろそろ始まりますのでこちらへどうぞお越しください」

弥勒に促されて不空が席に着くのと同時に虚空上人の読経が始まった。隣には不動が、その向こうには文殊も参列していた。

大寺での開眼供養とは違い導師の読経と参列者の祈念だけの簡単なもので粛々と進んで行った。

弥勒も手を合わせ最後に願主である不動が祈りを終えると虚空上人が筆をとり薬師如来に眼を書き入れた。眼を入れられた薬師如来は文字通り命を吹き込まれた如く生気を発したように弥勒には感じられた。弥勒は普通の仏像には感じられないような何か命を持つもののような生々しいものを感じ、戸惑いを覚えながらも作者である自分の手を離れ仏としてまさに成仏したのだと確信した。


朝から快晴だった空模様は開眼供養が始まるころから次第に怪しくなり雨も降りだしてきた。終わるころには昼間とは思えないほど暗くなり猛烈な雷鳴と共に稲光が空を走った。

雷鳴と稲光は次第に近づき遂には境内の杉の木にものすごい音とともに雷が落ちた。参列者たちは悲鳴とも取れない叫び声とともに逃げまどい、中には「龍神様のお怒りに触れたのでは」などと言い出すものまでいて騒然とした有様となった。

そんななか不動は落ち着いた様子で参列者を御堂に導き入れた。

「皆の衆よこの良き日に龍神様がお怒りになるはずがないではないか。これは逆に喜ばれ

ておるのじゃ。薬師如来が龍穴社をお守りくださるために成仏なされたのを喜んでおられ

るのじゃ」

人々が不動の話を聞き落ち着きを取り戻した頃には先程までの雷雨が嘘のように雨は止み雲は晴れ陽の光が戻った。東の空には見事な虹が現れた。

「ご覧くだされ見事な虹じゃ。唐の国では虹と龍は同躯であるとか化身であると言われて

おる。間違いなく龍神様は開眼供養を喜ばれておるのじゃ」

「これで龍穴社も末永く安泰じゃて」

不動は嬉しそうに笑い声をあげるのだった。


その夜、弥勒は夢を見た。それは今までと違い短いものだった。

龍穴社の薬師如来が収められた厨子の前で普賢が一心不乱に祈りを捧げている。こちらに気が付いたのか振り向くと一言「ありがとう」と言い微笑みながら天を指して昇って行く。そしていつの間にかその姿は龍となり、名残惜しそうに何回も旋回したかと思うと一気に空を駆け上り消えて行った。夢はそこまでだった。

外はまだ真っ暗で夜が明ける気配は無かった。

ふと隣で寝ていたはずの文殊の姿が無いのに気が付いた。そのまま寝ていたがなかなか戻らないので外に出てみると文殊がぼんやりと星空を眺めて立っていた。

「どうしました」

「つい今しがた夢をみて目が覚めてしまってな」

「そうですか私もいま普賢の夢を見て目が覚めました」

「普賢が龍となって天に昇って行くのです」

「そうか、もっと詳しく話してみてくれないか」

文殊は少し驚いたような顔をして弥勒の顔を見た。

弥勒が初めから詳しく夢の内容を話すと文殊はなぜか安心したような表情をした。

「私の見た夢も全く同じだったよ」

「私も兄上が夢を見たと聞いたときにそうではないかと思いました」

二人は中に戻って床に入ったがもう寝付けそうも無かった。

「弥勒よ起きているか」

「はい、眼が冴えてしまいました」

文殊は何か吹っ切れたように口を開いた。

「弥勒には話していなかったが普賢はわしら夫婦の子供ではなかったのだ。そこの水場の

ほとりに捨てられていたのを拾ってわしらの娘としたのだよ」

「このような里だからどこかで子供が生まれればすぐに分かるし。と言って子連れの旅人

がいた訳でもなく全く不思議だった」

「わしらには子がなかったのでその子を引き取って育てたのだ」

「すると私と普賢には血の繋がりは無いのですか」

「弥勒とどころか私とも血の繋がりはないのだ」

「今までこのような夢を見るのも血の繋がり故と思ってきましたがそうではなかったので

すね」

「思うに普賢は龍神の化身だったのではないか。今から考えるとそう思える事が幾つかあった」

「普賢は小さい時分から天気を良く言い当て、雨乞い神事に巫女として努めるようになってからは過たずに雨が降るようになった」

「それも、我々の見る夢もすべて龍神の神威の成せる業なのでしょうか」

「そうとしか考えられない」

二人はそれ以上言葉を交わすことなく天井を見上げていたのだった。


弥勒の中にはこのまま仏師を続けて行っても良いのかどうかと言う迷いが急に頭をもたげて来ていた。今までは仏師を続けることなど疑ったこともない当たり前のことだし、ましてや師匠にも絶賛されるほどの仏像を彫ることが出来たと言うのにである。

弥勒自身は仏師としての才能は全く凡庸で、今回造った薬師如来は普賢の導きにより出来た実力以上の仏像であることは痛いほどよく分かっていた。この薬師如来像を超えるどころかもう一度同じように彫れと言われても出来る自信は無かった。それより夢で見たこの地で暮らしたい気持ちが大きくなるのだった。


夜も明け弥勒は厨子の扉を封印する神事に出るため龍穴社に下って行った。

式はあっけないほど簡単に終り、名残を惜しむ間もなく厨子の扉は閉じられ重々しく鍵が掛けられた。自分の造った薬師如来像とも二度と会うことは出来なくなった。あっけない別れであった。

不空はすでに帰り支度を整えて社務所で不動と話をしていた。

「弥勒よ、わしはこれで帰るがお前はどうする」

「師匠、そのことで相談したいことがあるのですが」

不空は怪訝な顔をして弥勒を見た。

「実は、私は京には戻らずここに残りたいのですが」

「ここに残る。いつまでだ」

「いえその、仏師をやめてここで暮らそうと思うのです」

弥勒は振り絞るように言った。膝が震えるのを感じた。不空の顔色がさっと変わるのが弥勒にも分かった。

「なんだと。仏師をやめるだと。なにを馬鹿なことを言い出すのだ。第一ここで何をするつもりなのだ」

「不動殿にはまだお願いしていませんが、龍穴社で不動殿の手伝いをしながら暮らしたいと思います」

「そんなことを許すわけにはいかん。あれほどの仏を彫ったのではないか。お前の仏師としての本領発揮はまさにこれからではないか。京に戻ったら重要な仕事もやってもらおうと思っているのだぞ」

いつになく声を荒げる不空の怒りは治まりそうもなかった。

「何を言い出すかと思えば。また夢のお告げでもあったと言うのか」

「いえ、そうではありません。自身の才能や腕はよく分かっています。今回の仕事は私の実力ではありません。また同じように彫れる自信はないのです」

「分かった。意思は固そうだが一度京に戻りなさい。それからまた良く考えて決めてからでも遅くはあるまい」

「本当に申し訳ありません一度京に帰ったら恐らくここには戻ってこられないと思います」不空は溜め息をつきながらしばらく俯いていたがふと顔を上げて弥勒を見た。

「どうしてもここに残りたいと言うのだな」

「はい,ここで龍穴社と本地仏を守って暮らしたいと思います」

「そこまで言うのなら致し方ない。ここに残ることは許そう。但し条件がある」

「え、本当によろしいのですか」

「条件は仏師を続けることだ。ここでも出来る仕事を廻すから仏師を続けなさい。これからはもっと仕事が増えてきて人手が足りなくなるのもそうだが、やはり今回の薬師如来像を見たからにはこのまま仏師を辞めさせる訳には行かないのだ」

弥勒は黙って不空の話を聞いていたが大きく息を吸って口を開いた。

「もったいない話でお礼の言いようもありません。自信はありませんが師匠の仰せの通りにいたします。いくらかでもお役に立つよう仕事をさせてもらいます」

「では不動殿に話をしなさい。まだお願いしていないのだろう。私からもお願いするから」

弥勒は全身から力が抜けていくのを感じた。

話を聞いた不動は驚いた。

「わしとしては願ってもない話じゃが弥勒殿は本当にそれで良いのか。このような山里で

は存分に腕を揮うことは出来ないのではないか」

「それは私がなんとかしますのでどうか弥勒を置いてやってもらえませんか」

「わしとしては嬉しいことはあっても困ることは何もない。こちらからおねがいしたいぐらいじゃよ」

不空はひとりで山を下って行った。師匠の背中は心なしか小さく見えた。弥勒は師匠の後ろ姿が谷間に消え見えなくなるまで見送った。

弥勒は文殊にもこの地に残り龍穴社で働きながら仏と普賢の供養を続けていくことを話した。文殊は驚いたようであったがすぐに安堵の表情を見せた。

「わしも不動殿が許してくれればここに戻ろうかとも考えていたのだが、お前がそう言ってくれるのなら何も言うことは無い」

「驚くことばかりなので気が付かなかった。普賢の命日と薬師如来像の開眼供養は同じ日だったよ。ここまで重なるともう驚かなくなったがね」

「この日には毎年来ることにするからお前も達者で暮らしてくれ」

「兄上も道中くれぐれも気を付けてお帰り下さい」

文殊もまたひとりで山を下って行った。


山では紅葉が始まり秋も一段と深まってきた。見上げれば高い秋空にいわし雲の群れが流れて行く。弥勒が室生の里にきて一年近くが経とうとしていた。

弥勒には薬師如来像を護り普賢の供養を続けたいと言う気持ちもさることながら、この室生の里が何か生まれ故郷のように思えてきていた。

室生の里での生活に比べれば京での暮らしは何と憂鬱だったことか。

ここに来てはじめて自分自身で考え決めると言う当たり前の事が出来るようになったと感じていた。


この後、弥勒は不動のもとで神官の修養を積みながら、京の不空からの依頼にも応えて仏像を彫り続けた。

やがて不動も他界し宮司となった弥勒であったが変わることなく仏を護り、普賢の菩提を弔い、もくもくと仏像を彫り続け長い時が過ぎて行った。

ついぞ弥勒の手でこの薬師如来像に匹敵するような仏像が彫られることは無かった。

それは弥勒にとっては分かりきった事だったのかもしれない。


弥勒の彫った薬師如来坐像はいつの頃か龍穴社を出て、今は室生寺の弥勒堂に釈迦如来坐像と名を変え奉られている。

苦心した彩色は剥げ落ち螺髪も失われたが、その見事な造形は失われることなく弥勒の文字通り一世一代の腕の冴えを今に伝えている。


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