#9「ある夢」
私たちのマチには、とあるネット上の掲示板がある。
私たちが生まれたーーーいや、意識が始まる一瞬に見た、微かな夢を書き込む掲示板。
そこで、私と彼は出会った。
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私たちのマチは、とある宇宙輸送船がこの場所に次元転移して来て出来た。
私たちの記憶はその時から始まっている。
このマチで気が付いた時、私は既に少女だった。
それ以前の記憶は無い。
それから時を経て、正確な年齢は分からないが今私は50代だ。
だが私の容姿は20代のまま。
このマチではある程度成長するとそれ以降は年を取らず、そのままの姿で生きる様になる。
それが起きるタイミングはヒトそれぞれで、私はたまたま20代でそれが起きた。
何故そうなったのか?
どうしてそんな現象が起きているのか?
それは誰も知らない。
マチの起源も、状況の理由も、全ては謎の中だ。
それを解く鍵の一つは、宇宙船ごと次元転移した時に私たちが一瞬見た、恐らくは転移前の記憶だと思われるビジョンなのかもしれない。
だからマチのネット環境には、ヒトたちがそれを書き込む掲示板がある。
ちなみに私の夢はこうだ。
『深い海の底で、ゆったりとクジラと一緒に泳いでいる。』
あまりに突拍子も無いので、誰にも話したことはない。
話したところで一体何になるだろう?
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だけど、その掲示板は良く見る。
ヒトのそれを眺めているのは、楽しい。
前世なのかただの願望なのかは分からないが、狭いマチ以外の場所を感じられるのはいい。
このマチの周りは不思議な空間が取り囲んでいて、私たちはマチの周りからそれ以上外に出ることは出来ないのだ。
マチの上層部の方ではこれによってもし次元転移以前の情報が得られれば…などと思っているという噂だが、正直私にはどうでも良かった。
「……!?」
だがその日、私は雑多な情報の中で、一つの夢の記述を見つけた。
『深海で、溺れている少女を助けた』
ただ溺れているのを助けるなら分かるが、深海?
それって、私の夢と何か繋がりがあるのだろうか?
もしかして私が見たクジラが、そのヒト?
私は急いでそのログを確認した。
マチには数千人の人口しかいない。
探すのはそう難しくはなかった。
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マチの外殻をなす元宇宙船の船体の外で開かれていたマルシェの中にあるカフェで、私たちは待ち合わせた。
そのヒトは私よりも少し上、30代前半で成長が止まっていた。
狭いマチなのに、全く見覚えのないヒトだった。
早速掲示板の書き込みのことを聞いてみた。
あまりよく覚えてはいないが、暗い深海の底で自分は少女を助けている夢だったという。
私は恐る恐る聞いてみた。
「その時あなたは……、クジラじゃなかった?」
「……?」
そのヒトは目を丸くした。
頭がおかしい、と思われただろうか。
「……つまりそれが、あなたの夢?」
察しのいいヒトだった。
「………」
私は頷いた。
結局、真実は分からない様だった。
でも私はこのヒトに好感を持った。
その日のうちに、私は彼と関係を持った。
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展開の早さに、自分でもびっくりした。
私はかつて結婚もした。
残念なことに子供は出来なかった。
伴侶とは数十年過ごして、とある事故で死別した。
このマチでは、そういうことはよくある。
普通の世界ならば半世紀も生きていればもっと落ち着いているはずだろうに。
ベッドの上で、久しぶりに私の肉体は20代らしい反応を見せた。
だが彼が入ってきた瞬間、とても奇妙な感じがした。
おそらく彼も気づいたことだろう。
まるで親兄弟とコトに及んだような、不思議な気恥ずかしさ。背徳感。
誰も見ていないのに、それがばれるのが憚られるような奇妙な感覚。
それでも、私は激しく女の声を上げた。
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お互いそのことには触れずに、私たちは別れた。
多分、もう会うことはないだろう。
そんな感じがした。
彼もおそらく、同じ気持ちだったと思う。
私はまた一人になった。
掲示板は今でも時々眺めている。
そこには、色んな人たちの過去や現在がある。
たとえそれが夢であったとしても。
そうそう、私はずっと黙っていた自分の夢を、ようやく書き込んだ。
『深い海の底で、ゆったりとクジラと一緒に泳いでいる。』
いつか似た様な夢の記憶を持つ誰かの目に留まることもあるのだろうか。
あれから少し考えた。
あの彼と繋がった時の奇妙な感覚。
彼はやはりクジラではなかったのかもしれない。
ならば、彼は何だったのか。
ある時、ふと思いついた。
ひょっとして、どこかの世界で彼は私の息子とか父親だったのではないだろうか。
あまりに突拍子もなくて、自分でも笑ってしまった。
でも、私にはそれが正解の様な気がした。
そしてもう一つ。
最近、体に変化が起こった。
穏やかで、満たされた様な感覚。
今まで知らなかった体の奥底から滲み出くる様な、自分が自分では無いような感触。
多分、私は妊娠しているのだと思う。
そうしたらーーー、生まれてくるのは彼なのだろうか。
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マチでは、次元転移からずっと子供が生まれることはなかった。
このまま元からいるヒトがいなくなれば、マチは滅ぶのだと皆思っていた。
だが、最近妊娠したというヒトの話を時々聞く様になった。
このマチに、何が起きているのだろう。
彼は、何か特別なヒトだったのだろうか。
皆、彼の様な誰かに、出会ったのだろうか。
時折、マチの人混みの中に彼の姿を見た様な気がして振り返ったりする。
大抵それは他人の空似だ。
またいつか、会うことはあるだろうか。
そんな時、私は大きくなったお腹に手をやる。
最近は時々中で蹴る様になった。
おそらく男の子だろう。
早く会えるといいね。
そっとお腹を撫でて語りかけながら、私はまた歩き出す。
( 終わり )