#30「ある少女」
「 」
母親に呼ばれて、遊んでいた少女は振り向いた。
「早く来なさいよ」
少女は振り向いて、声は出さずにコクリと頷いた。
手にしていた正二十面体の形をしたオモチャを置いて立ち上がり、彼女は母親の方へと向かった。
少女は口が聞けなかった。
それは生まれつきのもので、彼女は仕方ないことだと思っていた。
幸い少女の家は裕福で、彼女の意思を伝える空間キーボードやモニターなどが常に用意され、普段の生活に大した支障は無かった。ただ、少女の両親はか弱い少女が過酷な社会で生きていくことを心配して、あまりイエの外には出さなかった。学業は家庭教師を付け、広い敷地内で飛んだり跳ねたりは出来たが、それ以外の場所へ連れていくことは稀だった。
少女は時折父親の車に乗ってマチへ出かける。
海を見に行ったり、ショッピングモールを回ったりはする。
それはそれで外の空気は吸えるのだが、彼女は何処か本当の体験ではない様な気がしていた。
言葉以外にも、自分には足りないものがある。
それが、彼女の人生にずっと引っかかっていた。
✳︎ ✳︎ ✳︎
思春期になった少女は、親の反対を押し切って近くの学校へと通うようになった。
数人友達も出来たが、やはり健常者とは少し距離があった。
普段のコミュニケーションの中で、デバイスを介すほんの半歩の遅れがやがて大きな隔たりになっていく。
それでも彼女には、ちゃんとした外の世界だった。
多少の孤独など、閉鎖されたイエでのそれに比べれば大したことはない。
そう思っていた。
やがて少女は恋をした。
少し悲しそうな緑色の目をした、やせた少年だった。
だが彼は少女に言った。
「恵まれてる君には、俺は合わない」
……恵まれている??
少女にはよく理解出来なかった。
そういえば友達たちも、そういう類のことを言っていたっけ。
親が裕福だということ。
それが自分のパーソナリティに何か関係するのだろうか?
分かるようで分からない、もどかしい何か。
むしろ、自分には足りないことだらけだというのに。
✳︎ ✳︎ ✳︎
少女は、それでもイエの外に出た。
深くつき合うヒトがいないだけで、普段の生活は問題ない。
そのうちそういう関係になるヒトも現れるだろう。
ただ、自分の中の足りない何かは、どうしようもなかった。
そんな時、少女は夢を見る。
目を閉じていても、閉じていなくても。
心の中で、違う世界で生きる自分を想像する。
その場所での彼女は、数々の苦難に立ち向かいながらも強くて軽やかで凛としていた。
いつか自分も、この世界でそうなれたらいいと思っていた。
✳︎ ✳︎ ✳︎
その日、少女は一人で初めての公園を歩いていた。
海沿いで風が心地良く、彼女は黒髪をなびかせながら初めての道を楽しんでいた。
何かの予感があった。
ドキドキする様な、ワクワクする様な、彼女を導く何か。
今日、自分はそれに出会うのだ。
やがて少女は、小さな丘の上にあるモニュメントの前に立った。
それは、ゴツゴツとした傾いた円柱の形をしていた。
名も無きアーティストが作ったという数メートルの高さのそれは、少女に何か語りかけてくるかの様に、その場所に佇んでいた。
「………」
少女はゆっくりと近づいていった。
そしてそのゴツゴツとした円柱の側面に触れた。
「!!」
その瞬間、一陣の風が少女の中を吹き抜けていった。
彼女は見た。
流れゆく無数のビジョンを。
小さなホシで駆ける自分。
側には、筋肉質の緑色の目をした青年がいた。
全面が海のホシの小さなシマで、絵を描いている自分。
側には、同じ様に凛とした少女がいた。
閉鎖されたマチで、マチの存続をかけて戦う自分。
側には、全身を擬態化した男がいた。
空中に浮いたトシで、何かを探している自分。
側には、正二十面体のロボットがいた。
『ああ……!』
自分は既に、それに出会っている!
その他無数の世界で、少女は何かと戦っていた。
時にそれは敗れることもあった。
自暴自棄になることもあった。
それでも彼女はその度に立ち上がっていた。
『………』
それが何なのか、少女にはよく分からなかった。
記憶?妄想?天啓?何処かからのメッセージ??
でも、彼女にはどうでもよかった。
その全てが肌感覚を伴った、細胞の全てが打ち震える様な衝撃だったからだ。
そしてそれは、彼女が足りないと思っていた何かだったから。
✳︎ ✳︎ ✳︎
やがてマチでは、『ファントム』と呼ばれる生体端末が普及し始めた。
それは手の甲に貼り付ける形の薄い膜状のデバイスで、脳と直接繋がって通信やデータのやり取りが出来るものだった。端末を持ち歩く必要が無くなるだけではなく、少女の様なヒトには普通のヒトと話す時の僅かなタイムラグをゼロに出来る画期的なものだった。そのうち『ファントム』は全てのヒトが持つ様になり、やがては遺伝子操作で生まれながらに持つことになるだろう、という話だった。
少女はそれを手にした時、何かを感じた。
あのモニュメントに触れた時に見えたビジョンの中で、周りのヒトたちはそれを手にしていた気がしたからだ。
そしてビジョンの中の自分は…それを持っていたりいなかったり。
それ故の哀しさやすれ違いもあった。
「………」
少女はしばらく、『ファントム』の装着の是非を考えることにした。
その方がいいと思えたからだ。
✳︎ ✳︎ ✳︎
「ファイ、早く来なさいよ」
母親に呼ばれて、大人になりかけの少女は振り返った。
”うん!”
少女は『ファントム』で答えた。
黒髪に緑色の目をした少女は、手にしていた正二十面体のおもちゃをしばし眺めてから、立ち上がった。
その表情は凛としていて、どんな苦難にも立ち向かう意思に溢れていた。
足りないものは、全てこれから手に入れる。
自分はそれをもう知っているのだ。
『ファントム』は、必ずそれの手助けになるはずだ。
少女は左手の甲にある膜にチラリと目をやってから、明るい場所へと歩き出した。
( 終 わ り )




