#26「ある病人」
ある病人がいた。
元はマチで保護されたジャンキーだった。
オーバードーズで瀕死の彼は、混濁する意識の中で夢を見ていた。
それは、自分の魂が自分から抜け出て、時空を旅する物語。
以後彼は、眠りに落ちるとその夢を見る。
それは彼にとっては只の夢ではなく、皮膚感覚を伴った実体験の様に感じられていた。
彼はそれを恐れた。
まるで自分が自分ではなくなっていく感覚が、徐々に自分を支配していく気がしていたからだ。
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彼を検査したホスピタルのドクターたちは、皆不可解な顔を浮かべた。
明らかに彼の症状は薬物を摂取したもののそれだったが、彼の体からはドクターたちの知る薬物は検出されなかったからだ。
彼は瀕死の状態からは回復したものの、依然精神は不安定なままだった。
眠りに落ちると違う世界へと飛ぶ、と彼は恐れていた。
レム睡眠状態の彼を検査してみたが、極度の興奮状態にあることしか分からなかった。
精神に異常を来したのでなければ、何故彼はこんな状態に陥っているのか?
ドクターたちはそれを解明することが出来なかった。
脳に何らかの異常が起こっているのだ。
そう判断せざるを得なかった。
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病人はいつもの様に眠りに落ち、自身が分裂して別世界で女性や子供になっている感覚を味わっていた。
分裂は激しい痛みを伴い、それぞれの体への変態も気持ちの良いものでもない。
そしてそれぞれの体になった視界や皮膚感覚や音声が全て重複して彼を襲った。
「ああああああ!」
極度の混乱の渦の中で、彼は絶叫した。
側に誰かがいた様だ。
それは、どの世界でのことだ?
誰かを突き飛ばして自分も倒れ込んだ。
肘か膝をしたたかに打ち付け、悲鳴を上げた。
誰かが触ってきている。
その誰かも、怪我をしている様な気がする。
そのヒトも、必死に助けを求めているのだろうか?
ーーーだが。
今は恐れの方が上回っていた。
助けてくれ!
何とかそれを振り解いたような気がする。
それでも誰かにまとわりつかれているような悪寒は消えない。
激しい頭痛や吐き気も襲ってきた。
ああ!
誰か!
この苦しみを、消してくれ!
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次の瞬間、彼はーーー彼の分身の一人の、とある女性型の病人だったのだがーーー彼はとある洞窟で、不思議な青年に出会っていた。青年は筋肉質だが優しい顔立ちをしていて、ネコを連れていた。彼は、青年に介抱されていた様だった。
自分が女性の体をしているからだろうか。病人は自分がその青年に惹かれていることを感じていた。
だがそれよりも気がついて驚いたことはーーー今はこの女性の姿の感覚だけ、他の分身した別の姿の自分の感覚は感じられないということだった。
それは本当に久しぶりの感覚で、病人はようやく体の力を抜くことが出来た。
女性型であるということを覗けば、久しぶりに自身だけの感覚に浸れたのだった。
病人はふと思った。
分身した彼らも、それぞれそう思っているのだろうか。だとしたら、自分は本当にそれぞれの体に分かれて、この後はそれぞれの世界を生きていくのかもしれない。
それはそれで良いことのように思えた。
病人は、目の前の青年を見つめた。
彼の瞳の中には、チラチラとした緑色の光が瞬いている様に見えた。
病人は悟った。
彼は、先程から自分を助けようとしてくれていたヒトだ。
そしてーーー彼は特別な存在なのだ。
その何がしかの力で、自分を救ってくれた。
この混乱した世界を解いて、自分を自分にしてくれたのだ。
病人はーーーいや、彼女は、そっと目を閉じた。
それから彼女がどうしたのかは、誰も知らない。
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数十年後。
とあるマチの総合病院の若い研究者が、データ不備によって保存されていたある不審な死を遂げた献体の中から偶然未知の粒子を発見した。
それはニュートリノの様にあらゆる物質を通り抜け、一瞬それらに影響を与える。
取分け、生命を終えようとしているモノに微弱な反応を与える。
偶然側にいた患者が示した反応から、ごく僅かな人には、禁止薬物を摂取したと同じ様な効果が現れることも分かった。
そして研究を進めるうちに、その研究者はある仮説を導き出した。
その粒子は生命に危険が及んだ生物を通り抜ける際にその生命体の記憶や経験などをサルベージでもするかの様にコピーしていくのではないか?ごくまれに、その時の不具合で精神に異常を来すヒトがいるのではないか?ーーー突拍子もない話だが、研究者はそれが正解に思えてならなかった。
この粒子は何処から来たのか?
誰かが創り出したものなのか?
それは分からなかった。
だがこの粒子はソラの何処にでも存在していた。
それは実は大発見だったのだが、学会では特に相手にされず病院内でも立場を失い、その若き研究者はやがて姿を消した。
その粒子は、時に緑色の光を放ってヒト達の前に現れる。
ヒト達の記憶や経験や感情や生きた証を、ただ集める為に。
その光は、ある時は『ヒュー』とヒトに呼ばれることもある。
それは何も考えはしない。
与えもしない。
ただ、そこに存在している。
( 終 わ り )




