#2「ある老婆」
「ばあさん、これは何だ?」
長身の男が、わたしの手を掴んだ。
「チッ」
思わず舌打ちが出た。
今わたしのカバンの中には、最近マチに出回っている新型ドラッグの包みが入っておる。勿
論違法なモノじゃ。
「………」
わたしはじっとそいつを見据えた。
男はマチの用心棒兼探偵といった立場におる男じゃった。その目には各種のセンサーが入っ
ており、人のカバンの中を盗み見ることなど造作もない。シラを切り通すのは無理じゃろう。
「ほら、観念しな」
そいつはわたしの手を取り、右手甲にある生体端末「ファントム」同士を近づけた。そこに
は個人情報などが入っており、スキャンされると隠し事などはもう出来ん。
終わると男はドラッグの包みを全て取り出して言った。
「これは没収だ。いずれ処分が来るだろうよ」
「何だよ、偉そうに…」
悪態をついたわたしに、男は顔を近づけた。
「偉くなくてもいい。ばあさん、これ何処で手に入れた」
その後わたしはマチの上層部に連れて行かれ、散々絞られた末に解放された。これでしばら
くは奉仕活動に出ねばならん。やれやれじゃ。
わたしは別にヤクの売人じゃあない。右から左へと何らかの荷物を運んでおるだけじゃ。た
またま今日それがドラッグじゃっただけで、他に大した情報も持ってはおらん。確かに、それ
で生活を崩壊させるヒトもおるのかもしれん。じゃがそれを、その一時だけでも快感を求めね
ばやっていけない連中もマチにはおる。それに対してわたしは何らかの感情を抱くことはもう
無い。
誰も彼も、そしてわたしも。ただ生きる為に何かを行っているに過ぎんのじゃ。
わたしは、気がついたら既に初老じゃった。
不思議なこのマチのせいで、わたしに青春時代の記憶などありゃあせん。もっとも、それは
わたしだけじゃあない。マチに暮らすものは皆、大なり小なりの喪失を経験しておる。
このマチは、どこかの世界の巨大な宇宙輸送船がこのホシのこの場所に次元転移してきて、
地面と同化して出来た。皆気付いたらここにおって、それ以前の記憶があるものは誰もおらん
かった。
あれから既に百年が経つ。不思議なことに、このマチではある程度の時間が経つとヒトは成
長が止まり、それ以降はそのまま寿命が来ることもなく生き続ける。もう死にたいと思っても、
事故や病気やあるいは自分でケリをつけでもしないと終わりは来ん。わたしはその次元転移の
現象ーーマチの皆はトランスと呼んでおるーーの後、程なくして成長は止まった。じゃからわ
たしは自分の外観はこれしか知らん。
もう一つ、このマチには周りをグルリと取り囲んだ見えない境界があって、それに触れた者
は立ちどころに消えてしまう。だから空も地中も含め、船体からある程度以上離れることは事
実上出来ん。わたしらはこの空間に囚われた囚人も同然なのじゃ。
当初は自分らの運命を呪ったもんじゃが、皆徐々に慣れてはきておる。何より、歳を重ねて
もなお情熱やパッションを保つことは多くのヒトには難しい。皆淡々と、良く言えば落ち着い
ておるが悪く言えば面白みの無い日々を生きる様になってしまっておる。
わたしは当初から外見は60代じゃが、まだまだ精神は若いつもりじゃ。それでも……時に
考えることはある。これから先、何をして生きるべきか。勿論、配給がある以上衣食住は何と
かなる。わたしが言いたいのは、ただ無為に生きるべきじゃあないということじゃ。…かとい
って、わたしに人生を賭けるべき何かがあるのか、と言われれば何も無い。それは痛いほど分
かっておる。何しろ考え続けてもう百年になるのじゃから。
結局、わたしは結婚せんかった。出来んかった、と言った方が正しいのかもしれん。それに
しておったとしてもまず、子供は望めんかったろう…いや、もしわたしが若かったとしても、
そもそもマチの形成から五十年近く経つまで、不思議なことにマチに新しく子供は生まれんか
った。それからようやく新世代が生まれる様になったが、既に老婆のまま数十年を過ごしたわ
たしには、その他の物事と同じく特に関係の無い出来事に過ぎんかった。
私はその日、奉仕活動で外に出て掃除をしながら船体中央にある亀裂ごしに外を見上げてお
った。
環境も時によく変わるこのマチでは、つかの間の晴間でも愛おしいものじゃった。
「………」
私の視線の先には、よく晴れた空に突き刺さった様な一本の塔がそびえておった。
このマチの巨大な船体の上には高い塔が建っており、そこでは時々モノが現れる。いや、塔
だけじゃあない。マチのあちこちで、それは突然現れる。そして現れた物も、時々ふいに消え
る。それらはわたしらに与えられたギフトの様なものじゃが…その中に、恐らくはあの新型ド
ラッグもあったんじゃろう。
誰かが、それを手に入れて流しておる。元々娯楽の少ないマチじゃ。無限に長い寿命もある。
使いたくなるヒトの気持ちも分からないではない。
わたし?わたしはそんなものを使ってまで快感を得ようとは思わん。
ただ自分に出来る何かを、まだ何処かで求めておるということじゃろうか。その何かは、ま
だ見つかっておらん。もう一生見つからんのかもしれん。最近は、もうそれでも良いかとも思
う様になった。流石に自分で人生を終えようとは思わんが、もしそんなチャンスがあるのなら、
わたしは逝くのかもしれん。
あれから、運び屋の仕事が回ってくることはなかった。例の長身の男が組織を一網打尽にし
たのかもしれんが……所詮わたしなど末端の運び屋に過ぎん。いずれまたマチにそれは現れ、
誰かがそれを流すんじゃろう。
ヒトの世とはそうしたものじゃ。
あれから、マチは色々あった。
マチが形成される初期の混乱を除けば百年ほぼ平坦だった風景が百年を迎えた途端、ガラリ
と様相が変わった。まるで今まで目に見えないベールで隠れていた何かが蠢き始めた様じゃっ
た。
その最たるモノがあの光る少年、『ヒュー』じゃ。わたしは見たことがないが、それを見た
というヒトがマチに次々に現れた。そいつは初めて境界の外からヒトを連れてきて、そしてま
た連れ去ったのじゃという。もしそれが本当なら、出ることも入ってくることも出来ない筈の
マチの境界を、あいつはいとも簡単に突破したことになる。
その後マチは水不足になり、暴動が起きたりもした。色々と無茶をしたあの目にセンサーを
仕込んだ長身の男は、例の無限の塔で強制労働になったこともあったらしい。出てきたあいつ
が叩いた地面から水が噴き出て、その時の水不足は解消されたのじゃった。
やがてマチの周りが海へと変化した時にはーーそういう変化はマチでは普通に起こるがーー
そこからやってきた動く金網がマチを襲い、かなりの数のヒトが死んだ。マチの終わりだ、と
いう者もかなりおった。
わたしは、来るべきものが来た、と思った。
そしてもし、そういうチャンスがあるのなら。
それでも、マチは静かにここにあり続けておった。
その日わたしはようやく奉仕活動も終わり、マチの船体上に出ておった。
「………」
そこはマチを一望出来る、密かなお気に入りの場所じゃった。優しい風がわたしの皺だらけ
の顔を撫でる。わたしは座って一息ついた。
「………」
じゃが今目の前に広がっておるのは、例の金網群が取り付いて風化した遺跡の様になってし
もうた船体の姿じゃった。
マチはこれから、どうなるのじゃろう。
ため息を吐きながらわたしが塔を見上げた時じゃった。
「……?」
わたしは何かに気づいた。
何かが、空から落ちてくる。
細長い棒の様なものが数本。
多分そこそこ大きなものじゃ。
「何じゃ……?」
それは結構速い速度で落ちてきた。
「う…?」
わたしは頭を抱えて身を守った。
その巨大な棒はわたしの頭上を越えて、マチの境界辺りに突き刺さった。
マチに小さな振動が響く。改めて見ると、かなりの大きさじゃった。数十メートルはあるじ
ゃろうか。宇宙船の骨組みにでも使う様な巨大な鉄骨じゃった。マチを直撃せずに済んで良か
ったが…あれは一体何なんじゃ?
「………」
わたしが真っ先に思ったのは、あの光る少年『ヒュー』のことじゃった。今まで、マチの外
からこうしたものが境界を超えてきたことは無い。それはまるで『ヒュー』が連れてきたあの
ヒトか、あの動く金網の様じゃった。ならばーーー?
わたしは次に何か落ちてくる前に早々にマチの中へと入った。普段なら警報なり状況報告な
りはわしらの右手甲にある「ファントム」と呼ばれる生体端末でマチの上層部から送られてく
るのじゃが、あの金網騒動以来何故か停止しておった。
マチの中は、不安に駆られたヒトたちでごった返しておった。
わたしはその騒めきに押しつぶされそうになって自室に籠もった。
「………」
簡素なベッドに横になって、わたしは目を閉じた。
こういう時、わたしには一緒に時を過ごす様な友人はおらん。
『婆さん、あんたの記憶の欠片は?』
ふと、あのセリフが何故か脳裏に浮かんだ。
……実は、あの目にセンサーの入った青年と会うのはこないだが初めてじゃあない。
向こうは覚えていないのかもしれないがーー前に会ったのは、街の外の露天街でマルシェが
開かれていた時のことじゃ。その時はドラッグなど運んではおらず、わたしは珍しくプラント
で採れた果物などを手に入れてホクホクの気分じゃった。その時、声をかけられたのじゃ。
記憶の欠片ーーそんなものがあるのを、わたしはその時初めて知った。それは、マチのヒト
の多くにある、トランス以前の微かな記憶。わたしにもそれはあった。
それはーーーまだ若い頃、おそらくは愛したヒトであろう男に抱かれているという微かな感
触。何故かは分からないが、それはたった一度だけのことであったのは分かっていた。
「………」
それを思い出す時だけは、とうに生理も上がったこの老体の奥に瑞々しい何かが滴る。
あれは、一体誰なんじゃろう。
そしてそれは、何処の世界でのことじゃったのか。
この百年、ことあるごとに思い出す。
そしてその答えは、死ぬまで解けんのかもしれん。
この先死ぬことがあればーーーじゃが。
一晩過ごしたが、状況は特に変わりは無い様じゃった。
わたしはそっと外に出た。
ヒトたちは不安な中、非常時への備えを始めておった。わたしはもうその辺りはどうでもよ
くなっておって、このマチのほぼ唯一のバー、「ベルリン」で一杯飲もうかと歩いておった。
その途中で、わたしはマチから外が眺められる場所を通りかかった。マチのヒトたちは境界
近くに突き刺さった鉄骨群を見ては眉をしかめておった。
「……!」
その中に見覚えのある背中の広く開いたドレスを見つけて、わたしも思わず眉をしかめた。
そいつの名は、キャスリンと言ったか。このマチのほぼ唯一の娼館の女主人だ。外見は30
代前半のまま、わたしから見ても艶っぽい肢体で百年近くを生きておる。トランス直後は何か
と苦労しとった様じゃが、いつの頃からか娼館を経営して暮らしておる。勿論自身も体を売っ
て。何を好き好んで、とも思うが、あの肢体ならばわたしもそうしておったのだろうか、など
と考えさせられたりもするのが妙に癪にさわる女じゃった。
キャスリンは色香を振りまきながら歩いて行き、立っていた軍服の屈強そうな老人に声をか
けて少し話をしてからまた歩いて行った。
「………」
チクリ、と胸が痛んだ。
彼女とわたしの差は、何光年もある。
じゃが、それがどうした?わたしはこれでやってきたし、やっていくしか無いのじゃ。
「ベルリン」で一杯…いや数杯やったが、全く酔えんかった。
今日は何もかもダメらしい。
と、その時マチに微かな振動がした。「ベルリン」の立ち並んだビンが揺れ、マスターの黒
人青年キャメロンが慌ててそれらを押さえた。
「何じゃ?!」
「まさかまた」
「あの鉄骨か!?」
常連の爺さんたちが騒ぐ中、わたしはゆっくりと「ベルリン」を出た。もし死ぬならば、独
りが良い。そんな気分じゃった。
マチはどよめきが支配しておった。百年生きたヒトの方が多い世界じゃ。流石にパニックだ
らけということは無い。微かにザワザワとはしておるが全体としては妙な静けさの中、わたし
は歩き続けた。
途中で見かけたが、今度落ちてきた鉄骨群は境界の内部、露店街のある辺りを直撃しておっ
た。最初の落下よりも明らかに近づいてきておる。この分だと次はーー。
わたしは歩いた。ゆっくりと、マチ中を。どこにそんな力が残っておったのじゃろう。
足腰はまだちゃんとしておるが、流石に息は上がっておる。それでも、わたしは歩き続けた。
いつの間にか、夜になっておった。
わたしの足は、気づけば例の船体上のマチを見下ろす場所へと向かっておった。
「……!」
先客が居るのにわたしは気づいた。
「……?」
だいぶ離れておったが、目を凝らして見てそれが二人の男であることにようやく気づいた。
一人は例の目にセンサーが入った長身の男、もう一人は見覚えがある様なーーとしばらく考
えて、昨日キャスリンが話しておった屈強な老軍人だと思い出した。二人の男は、知り合いだ
ったんじゃろうか。
見ているうちにふと、彼らは二人ともあのキャスリンと繋がりがあるのではないか、という
思いがよぎった。それも単に「カサブランカ」の客としてだけではなく。確かに、昨日見たキ
ャスリンとあの軍人の会話は下世話なそれとは思えんかった。
魅力的な身体を持ち、身体だけではない繋がりを多く持つ女。
チクリ、とまた胸の何処かが痛んだ。
「………」
わたしはフッと自重気味な息を吐いた。
一体何を考えているんじゃろう。
マチが終わろうとしておるその時に。
「…?」
視線の向こうで、センサー男が立ち上がった。
空を見上げておる。
釣られてわたしも空を見上げた。
まさか、またーー?
軍人も立ち上がった。二人でせわしない会話をした後、軍人が胸元に手をやった。
その時、マチ全体に音声放送が流れた。前に光る少年『ヒュー』が女を連れてマチを出よう
とした時に流れたのと同じやつじゃった。
”マチの全員に告ぐ!”
声も同じ、初老の野太いが知性を感じさせるものじゃった。
”今現在、また鉄骨群がマチに落下しつつある!”
そうか、あの老軍人はーーー上層部の一人じゃったのか。
”全員、直ちにマチの最下層部へと避難!各所の隔壁を開けるので、その中へ退避してくれ!
皆、冷静な対処を望む!”
それだけ言うと軍人は走り出した。
センサー男はまだ上空を見据えたままじゃ。
「………」
わたしはその場を動かんかった。
もういい、とわたしは思っておった。
物事はなるようにしかならん。
ここでマチが終わるなら、わたしも一緒に終わろう。
そう思っておった。
わたしはゆっくりと空を見上げた。
やがて、鉄骨群が落ちてきた。その数は無数で、次々にマチの周りに着弾してきた。そして
それらは、徐々に船体へと近づいてきておった。
「おぉ……」
わたしは恐怖に震えたが、それでも助かりたいとは思わんかった。
どうせヒトはいつかは死ぬんじゃ。そんなことも通用せんかった、このマチの方がおかしか
ったのじゃから。
あの男は立ち尽くしたまま、おそらくは次々に落ちてくる鉄骨の位置と方向を先程の軍人へ
と伝えておるのじゃろう。次々に降ってくる鉄骨の中、あいつは微動だにせず虚空を見つめて
おった。
その後ろから、女が一人、駆け寄ってきた。あれはーー確か、あの男の相棒じゃったか。見
たところまだ若い新世代。察するにあの男に恋心でも抱いておるのじゃろう。
そんな二人を見ながら死ぬのも良いーーそうわたしが思った時じゃった。
「!!」
二人の上空から、一際大きな鉄骨が降ってきた。
それは赤熱化した焼火箸の様じゃった。
あぁ、女の方を直撃するーーーと思った時、男は跳んだ。
「ーーーー!」
わたしはそのしなやかで力強い動きを、美しいと思った。
男は女を抱きかかえて更に跳び、振り向きざまにその左手を伸ばした。
キュイーーーーン!
その掌から膨大な光の柱が伸びた。
「あ……!」
あいつの手はそんな武器も仕込まれておったのか。
その光は迫り来る巨大な鉄骨を斜めに切断し、二つに分かれたそれは二人の側へと突き立っ
た。
「………?」
わたしは目を凝らした。
二人は、助かったのか?
鉄骨の陰でよく見えないがーーー。
『ヒュー』
「!?」
その時、耳元で誰かの声がして驚いてわたしは振り返った。
そこにはーーー初めて見る、あの緑色に光る少年がいた。
わたしは、声を出せんかった。
少年はまっすぐにわたしを見ておった。
その深い瞳の奥は、何の表情も見て取れんかった。
「……!」
光る少年はフッと上を見上げた。
何故かその視線の先にあるのは、わたしに直撃しようとする鉄骨じゃというのが分かった。
そうか、ここが最期かーーー
わたしはもう見上げんかった。
次の瞬間、凄まじい衝撃と共にわたしの意識は途切れた。
どれくらい、時が経ったことじゃろう。
わたしは、恐る恐る目を開けた。
いや、目というのは正しくはなかった。
そこはモヤモヤとした空間で、わたしの体は既に無かった。
「 」
声を出そうとしても、出んかった。
口も喉ももはや無い。
わたしは意識だけの存在としてそこにおった。
『………何じゃ?』
心の中で呼びかけてみた。
勿論、誰も答えはせん。
わたしは、死んだんじゃろうか。
ならばーーー。
マチで生きておる時、わたしは死とは何なのかをずっと考えておった。
詰まるところ、それは「思考が無くなること」ではないのか、と思ったことがある。
もしそうならば、今のわたしは死んではおらん。こうして考えることが出来ておるのじゃか
ら。
これは、わたしが望んだ死じゃあない。
『………!』
そのうちわたしは、モヤモヤとした暗闇の向こうに微かな光を見つけた。
『………』
わたしの意識はそちらに向かった。
というよりもわたしの方がそこへと吸い寄せられて行く様じゃった。
『…………!』
やがて側に来たその小さな緑色の光の中を、わたしは覗き込んだ。
『あぁ………!』
そこに見えたのはーーー箱庭の様に小さなフネの姿じゃった。
半分地面に埋まった壊れかけの宇宙船。
今それには無数の棒が突き刺さって、ハリネズミの様な姿を見せておる。
それはーーーおそらくマチの姿じゃ。
『…………』
わたしはそこを、懐かしい気分で眺めた。
やはり死んでいるからじゃろうか、ポウッと温かい気分はあるが、妙に冷めた部分も同時に
感じられておる。
マチは、何故か水没しておった。境界の中が全て、水で満たされておる。じゃが不思議なこ
とに、その小さな世界の中でヒトたちは呼吸をして生きておる様じゃった。
『………?』
そのあまりの変化に、わたしは言葉を失った。
今までマチの環境は色々と変化してきたが、これ程のものは無かった。
もしわたしがあの場におったら、どうしておったじゃろう。
泳げはせんので、多分苦労しておったじゃろうな。
いやそもそも、この小ささはどうじゃ。
わたしはーー一体どういう世界に来てしもうたのか。☆
『………』
わたしはフッと息を吐いた。
わたしは、何処か物事を達観しておる自分に気づいておった。マチでもある程度そうじゃっ
たとは思うが、わたしはどうやらそれよりも遥かな地点におる。
わたしはゆっくりと考えてみた。
ここが何なのか、どうしてわたしはマチを外から眺めておるのか。
今見ておるのは、本当にマチなのか?
ひょっとして、今までマチで死んだヒトたちは、こうして外からマチを見ておったりするん
じゃろうか。
わたしは、辺りに意識をやった。
じゃがわたし以外、そこに何も感じることは出来んかった。
そしてわたしは思い出した。
そういえばーーーわたしが最後にマチで意識があった時、あの光る少年『ヒュー』がいなか
ったか?
前に境界を超えて女を連れて行った様に、わたしもココへ連れてこられた、ということはな
いじゃろうか。
……いやいや、わたしはそんな特別な女などでは………
そこまで考えて、わたしは震えた。
『………!』
思い出したのじゃ。
わたしの中にあった記憶の欠片ーーー若いわたしが、抱かれている男の中にはーーーーーー
あの『ヒュー』の面影が無かったか??
そしてーーーわたしはどこかの世界で確かに、誰かを生んだのではないか?
もし、そうならーーーわたしは?
『ーーーーーーー』
何も分からん。
わたしには。
だが、何となく感じるものはあった。
わたしが特別なんじゃあなくて。
もしかしたらヒトそれぞれに、あの『ヒュー』は関わっておるのかもしれん。
何を意図しておるのかは分からんがーーー
それもいい。
そう一人考えてから、わたしは心の中で深く深く息を吐いた。
やがてわたしは思考をしばし閉じた。
わたしなどに出来ることは、それ以外もう無いのじゃから。
そしてそれはもう、哀しいことではなくなっておった。
知らないだけで、わたしはおそらく、ちゃんとやるべきことをやっておった。
それで、十分じゃろう?
( 終 )