#12「あるシマ」
「ねぇ、かあたん」
「かあさん、でしょ」
彼女は笑った。
もう本当はちゃんと言えるのに、訂正してもらいたくてワザと間違えて言う様子がとても可愛かった。
「かあたん」
「もうー」
彼女はふくれて見せながら抱き締めると、彼女の三歳位と思われる息子も弾ける様な笑顔を見せた。
そこは、二人だけの小さなシマだった。
一面海で囲まれた小さなホシに、とあるシマがあった。
他に陸地は見当たらない。
彼女は気がつくとそこに赤ん坊といた。
何故か彼が自分が産んだのだということだけは分かっていた。
それ以外のことは記憶があやふやでよく分からない。
腰には古いリボルバーと骨のナイフがあった。
以来、このシマで魚を獲ったり山で木の実やキノコを集めたりしながら暮らしてきた。
今彼女たちがいるのは砂浜の奥に自分で建てた小さな小屋の前だ。
時にシマの環境は変わる。
普段は亜熱帯の南国風だが、朝起きると海が凍りついていたり、シマにある山が火山に変化していたり、突然台風が来たかと思うと次の瞬間にはベタ凪だったり。
それでも彼女とその息子は何とか生きてきた。
何故自分がここにいるのか、そしてここは何処なのか。
何も分からない。
そして、シマには時々モノが現れる。
見たこともない食料だったり、図鑑や映像ディスクだったり。
それらによって、彼女は外に世界が存在していることを知った。
そもそも、言葉や文字や、魚の取り方や天候の見方など必要なことは最初から知っていたのだ。
自分は何処かでちゃんとした生活を送ったことがあって、その後にどういう訳か知らないがここに来た。
それを忘れているだけなのだ。
いつか、それを思い出せたなら。
彼女はそう思っていた。
✳︎ ✳︎ ✳︎
「かあたん」
「だから、か・あ・さ・ん」
「えへへ」
息子は嬉しくて仕方ないという顔をした。
彼女は、そんな息子をギュッと抱きしめながら思った。
子供がどうやって出来るのか位は知っている。
彼の父親は、一体誰なのだろう。
息子は父親という存在をまだ知らない。
もう少し経ったら、教えなくてはならないと思う。
だが、何と言おう?
そして父親が誰なのか、判明することはあるだろうか?
自身の両親のことも、彼女は覚えていなかった。
だがそのあたたかなイメージは、ずっと彼女の中にあった。
その日、彼女は久しぶりに漁に出た。
漁と言ってもシマを取り巻くサンゴ礁の内側の浅瀬で手製のモリで魚を突く程度のものだ。
小さな頃から、彼女は息子から目を離すことは無かった。
こうして浅瀬で魚を取る時も、十秒以上は水に入らずにすぐに彼を確認していた。
彼が何処かに行ったりしないか、危険な目にあったりしないか。
彼女はそれだけを気にしていた。
その日もそうしていた筈、だった。
だがその日、彼女が水に入って素早く魚を銛で突いた時、妙な感覚がした。
ビュワッと何かの空間の波の様なものが自分を通り過ぎて行った感覚。
ーーー何だ?
胸騒ぎがした。
急いで水面から顔を上げると、側の砂浜でカニを眺めていた筈の息子がいなくなっていた。
「!!」
銛を放り出して彼女は砂浜へと走り寄った。
まさか海に??
だが透明度が高く遠くまで見渡せる辺りの水中に、その姿は無かった。
何処かへ行った様な足跡も無い。
そもそも、そんな時間など無かった筈ーーー
「……!」
彼女は焦る頭で考えた。
さっきのあの奇妙な感覚かーーー?
もしかしてあの時、時間が飛んだ?
既にかなり時間が経っているというのか?
彼女は素早く太陽を見上げた。
時間はほぼ経っていない。
ーーーまさか数日経っているなどということはーーーー
いや、時間だけならいいが、もし別次元などに飛んでいたら?
何故自分がそんな考えに捉われるのか、彼女は分からなかった。
突拍子も無いことだ、と頭では分かっていたがどうしようもなかった。
とにかく、彼女はシマ中を探し回った。
✳︎ ✳︎ ✳︎
その数日、シマはいつもの南国の様相だった。
だが、息子の姿だけがどこにもない。
彼女は必死で探し続けた。
彼の名を叫ぼうとして初めて、自分にも息子にも名前が無いことに彼女は気がついた。
呼ばねばならないシチュエイションが今まで無かったのだ。
今までそんなことにすら、気づけなかったのだ。
彼女は絶望した。
自分はこんな隔絶されたシマではあるが、それでもきちんと母親をやっていると思っていた。
だが、違った。
息子の名さえ呼べない。
彼を探し出すことも出来ない。
自分には、何も、出来ない。
何も、無い。
「!!!!!!!」
彼女は獣の様な声をあげた。
✳︎ ✳︎ ✳︎
息子を探し疲れて、やがて彼女は気絶する様に眠りに落ちた。
だが、そこでも彼女は悪夢に襲われた。
深く暗い海の底で、シャチの群れに襲われる夢だ。
自分の体を、無数のシャチが食いちぎっている。
無限の絶望感の中で、彼女は同時に奇妙なことに気がついていた。
ーーー自分の体って、こんなに大きかったか?
これではまるでーーーー
痛みはある。
無数の痛みだ。
だがーーー自分はこれ以上の痛みを知っている。
”痛いーーーけど、子供を産んだ時程じゃ無い”
それは、誰の言葉だったか?
「!!」
汗をびっしょりとかいて、彼女は跳ね起きた。
ハッとして自分の褐色の肌を触ってみたが、特に傷などは見当たらない。
「………」
ーーーー何だったのだろう。
彼女は、砂浜にいた。
突然嵐が来た様で少し風が強く、夜の海は波が高かった。
どんどん汗が引いていくのが感じられた。
「…………」
彼女はふらりと立ち上がって、ゆっくりと波打ち際に入っていった。
もう、探していないのは外海だけーーー
先程の夢の感覚もあった。
あの時の自分と同じ様に、彼も無限の闇に食べられてしまったのだろうか。
ならば、自分も一緒にーーー
シマを取り巻くサンゴ礁の傍まで来た。
この先は海底が急速に落ち込んで深くなる、シマの外海だ。
黒々とした海面の下には、何が潜んでいるのだろうか。
彼女は気が付いた時から腰にある古いリボルバーと骨のナイフに手を触れた。
「…………」
自分は、以前確かにこの海の底に行ったことがある。
それだけは微かに覚えている。
そこは厳しいが、生命の源の様な場所であった筈。
それに触れた時の幸福感は、自分の体の中にあった筈だ。
だが、今はどうだろうか。
今の海は、得体の知れない闇が蠢いている様にしか見えなかった。
でも、ーーーーー行かなきゃ。
彼女は深く息を吸って、水中へと潜った。
体はひどく疲れてはいたが、それでも。
彼女は、深く深く、潜って行った。
✳︎ ✳︎ ✳︎
自分の肺が潰れていくのが分かった。
かつては自由に大海を泳いでいた筈。
だが、長い間離れたそこは、いつの間にか自分の知らない場所になっていた。
でも、それでもーーー。
息子に会えるのなら。
せめてその痕跡だけでも。
彼女の脳裏には、それ以外無かった。
視界に映るのは漆黒の闇だけ。
やがて、彼女は意識を失っていった。
キィーーーーン!
その時、緑色の光が迸った。
それは、彼女の首の後ろ、ウナジの辺りからだった。
「!!」
彼女は意識を取り戻した。
そして自らが触れているザラザラとした硬いものの感触に驚いた。
彼女は動く海底の上にいた。
いやーーそれは、巨大なクジラの背だった。
「ーーーーー!」
クジラはゆっくりと上昇を始めた。
彼女は急いでその背ビレに掴まった。
クジラは彼女を軽々と水面へと運び、そのまま宙へと身を躍らせた。
いつの間にか夜は明け、嵐もどこかへ消えていた。
眩しい朝焼けの下で、彼女の褐色の肢体は無重力の中で踊った。
✳︎ ✳︎ ✳︎
「かあたん」
「!!」
息子の声に、彼女は飛び起きた。
一体何が起きた?
そこは、シマの山の中腹へと向かう少しなだらかな丘陵地帯だった。
何度も息子を探して通過した場所だ。
だが今、そこは無数の花で埋め尽くされていた。
その中に、息子はいた。
「かあたん」
「!!」
彼女は駆け寄って、しっかりと息子を抱きしめた。
「かあたん、いたい」
「良かった……何処に行ってたのよ」
「ずっといたよ……ほら、これ」
「?」
息子は花で作ったリングを差し出した。
「これ…私に?」
「うん!」
息子は花のリングを彼女の頭に乗せると抱きついてきた。
「ありがとう、かあさん」
「だから違うって…あれ?」
彼女はハッとした。
「違わないよー」
息子はしてやったりの顔をしている。
「………」
やがて彼女は吹き出した。
「あははは」
「あはははは」
そうして二人は二度と離れまいと抱き合った。
✳︎ ✳︎ ✳︎
「……あれ?」
花畑で息子と遊んでいる中、彼女は息子の左手の甲にアザのようなものがあるのに気がついた。
今までは無かったものだ。
何処かで怪我でもしたのだろうか?
「……?」
彼女はそっとそれを触ってみた。
傷ではない。
少しザラッとしたその感触は、何処かで触れたことのあるものだった。
「これ……」
彼女は自分のウナジに手をやった。
自分のここにも、同じ様なアザの様な紋章の様なそれがある。
シマで気がついた時からずっとあったものだ。
「かあさん」
「あ、もう」
彼女の手の中で息子が動いた。
その時、彼女のウナジの紋章と息子の左手甲のそれが、一瞬触れた。
「!!!」
その瞬間、触れた場所から緑色の光がほとばしった。
彼らはその眩しさに目を閉じた。
無数のイメージが彼女を通り抜けていった。
とある水のホシの、不思議なクジラと少女。
骨のナイフと共に森を飛び回る青年。
孤独のホシで、子供を探し続ける女性。
彼女の手にあるのは、古いリボルバーーー?
全てが、繋がっている。
このシマも、その中の一つ。
自分は、そのどれでもあるのだ。
あぁーーーーーーー!
「…………?」
恐る恐る、彼女は目を開いた。
腕の中で息子は目をシバシバさせている。
「かあさん……何が起きたの」
「うん、何だろう……」
だが彼女は、その光をとても懐かしいと感じていた。
そしてーーー彼女の中に、それまで忘れていた何かが確実に存在していることも気がついていた。
「ねえ」
「何?」
彼女は息子の肩に手を置いて言った。
「初めて言うけど、母さんの名前は、シィって言うんだよ」
息子は不思議そうな顔をした。
「シィ……名前?」
「そう。本当は誰にもあるものなの。それでお互い呼び合うんだよ」
「へぇ……」
彼女は息子の頭に手を乗せた。
「で、あなたの名前は……」
「……名前は?」
息子は期待感に目を見開いた。
「プランジ」
「プランジ……」
「そう。昔お世話になった人の名前を貰ったんだよ」
それが、彼女のーーーシィの中に現れた記憶。
先程の緑色の光がもたらしたもの。
そしておそらく、彼が父親の様な存在でもあるのだろう。
そしてあのリボルバーを持った女性はーーー。
シィは微笑んだ。
ーーーなあんだ。
自分は、ずっと両親の形見と過ごしていたんじゃないか。
見守られていたんじゃないか。
繋がっていたんじゃないか。
自分たちは、決して独りじゃない。
「えっと…」
まだ幼いプランジは、少し考えている様だ。
「じゃあこれからは……かあさん、じゃなくてシィって呼ぶの?」
「うーん?……まぁ、かあさん、でいいよ」
「……うん!」
プランジはニパッと笑顔を見せた。
「…………」
シィは思った。
またこれから、二人で生きて行こう。
新しい何かはこれからも、こうしてこのシマに現れてくることだろう。
環境も変わるだろう。
でも、二人なら。
やっていけるだろう。
彼女はプランジが作ってくれた花のリングを落とさない様に立ち上がって、彼に手を差し出した。
「さ、ウチに帰ろう、プランジ」
( 終わり )




