28
シャーフーチが瞬間移動した先は、薄暗い路地裏だった。
しかも土砂降りの雨。
朝食の時間なのに暗いのは、厚い雨雲のせいだ。
「おっと、王都は雨ですか。封印の丘は快晴だったんですが」
指を鳴らしたシャーフーチは、目に見えない魔法の傘を作り出した。
頭の上で雨粒が弾かれる。
「で。御守りの紙片が捨てられたのでここに来てみたのですが――貴女はこんな所で何をしているんですか?」
シャーフーチの足元で小さな女の子が膝を抱えてしゃがんでいた。
妙に量の多い黒髪が雨を吸い、びしょ濡れのパジャマにくっ付いている。
「……貴方こそ、遺跡から出られないんじゃなかったんですか?」
掠れた声で言うセレバーナの上にも透明な傘が作られた。
路地裏の一角だけ雨が避けて降る。
「質問をしているのは私です。まるで捨てられた子猫じゃないですか。どんな理由が有って病院じゃない場所に居るんですか?」
セレバーナは腐った魚の様な目で地面に出来た水溜りを見詰めている。
返事が無いので、シャーフーチは大袈裟に溜息を吐いた。
吐息の音を聞かせ、私は呆れているんだぞとアピールする為に。
「私がここに来た以上、貴女が応えてくれるまで帰れないんです。早く応えてください。何が有ったんですか?酔っ払って潰れている訳ではないんでしょう?」
冷えて紫色になった小さな唇が動く。
しかし声が小さくて雨音に掻き消された。
「はい?聞こえません。もう一度お願いします」
「怖いんです」
「怖い?――手術が、ですか?」
「一人の夜が、怖いんです。指輪が壊れそうなのが、怖いんです。帰る所が無くなるのが、怖いんです。死ぬのが、怖いんです」
セレバーナの身体小刻みに震え出す。
雨に濡れて寒いから、ではない。
心の内を言葉にした事で現実を再確認し、恐怖に震えているのだ。
「どうしてこんなにも怖いのかさえ、サッパリ分からないんです!分からないのが怖いんです!」
無表情の仮面が壊れ、感情のまま声を荒げるセレバーナ。
震える両手で顔を覆う。
「自分がこんなに弱いなんて知らなかった。自分の弱さを自覚しているのに、どうにか解決したいのに、立ち向かおうとする勇気が欠片も湧かないんです!」
「だから病院から逃げた、と。今日が手術の日だから」
弱々しく頷くセレバーナ。
「そうです。……逃げても何も変わらないのに、運命は変わらないのに、私は逃げてしまった」
「運命は変わらない、か。確かにそうですね。――貴女を苦しめているのは真実を見通す目なんですね」
セレバーナの前で膝を突くシャーフーチ。
灰色のローブが水溜りの雨水を吸い、深い色に変わって行く。
「これをどうぞ。イヤナが作った野菜スープです。みんなで育てた野菜だからセレバーナにも食べさせてくれと言われ、持たされましたよ。さ、食べてください」
湯気立つスープに力の無い視線を向けるセレバーナ。
「手術前で……食事制限……されているんですが」
「手術から逃げ出した貴女が気にする事ですか?」
シャーフーチの言葉に唇の端を上げるセレバーナ。
「ふふ……。魔王は仰る事がいちいち手厳しい。ですが、その通りです」
皿を受け取ったセレバーナは、震えが止まらない手でスープを食べる。
冷えた身体に温かいスープが染み込み、恐怖と寒さで固まっていた筋肉から緊張が抜けて行く。
全身が緩んだせいか、涙が溢れて来た。
自分の落涙に驚いたセレバーナだったが、自分が正常な状態ではない自覚は最初から有るので、すぐに無表情になって二口目を食べた。
「美味しいでしょう?」
「はい。やはりイヤナの料理は最高です。病院食はまずいので、尚更」
温まったお陰で声の調子は戻ったが、涙が止まらないセレバーナ。
シャーフーチは、雨に体温が奪われているせいで血色が悪い左手に嵌っているふたつの指輪を見る。
微かなヒビが入っている。
遺跡側の指輪には変化が無かったので、向こうに伝わらない程度の崩壊なんだろう。
まだまだ余裕が有るが、セレバーナはそれを知らない。
「セレバーナ。貴女が見ている物は全て真実なんでしょう。その恐怖の元も、全て真実でしょう」
ゆっくりと春キャベツを噛んでいるセレバーナに言い聞かせるシャーフーチ。
「ですが、遺跡で貴女の帰りを待つ仲間が居る事も真実です。そのスープがその証です」
「……?」
「それは陰膳と言って、遠く離れた人の安全を祈りながら用意する食事です。今日は手術の日でしたから、特別に貴女の席にも朝食を並べたんですよ」
「陰膳……何かで読んだ事が有ります。これを、私の為に……」
セレバーナは金色の瞳でスープを見詰める。
その視線に生気が戻って来ている。
「では本題に戻りましょう。紙片の契約に従い、貴女が恐れている危機を取り除きます」
セレバーナの左手に右手を乗せるシャーフーチ。
「指輪に私の魔力を注入し、遺跡を出発した時の状態に戻しました。これで帰る場所が今すぐ無くなる事は無い」
少女の小さな手に重なっていた大人の手が離れて行く。
すると、左手の中指に嵌っているふたつの指輪が金色に輝いた。
「……指輪のヒビが、消えた……」
「それ以外の恐怖。例えば貴女の死。それを取り除く事は出来ません。貴女が乗り越えなければならない事ですから」
「……はい。申し訳、ありませんでした。シャーフーチ。私は、またあそこに帰れるでしょうか。遺跡に、帰れるでしょうか」
「あの三人はそれを願っていますよ。私は、どちらでもありません。中立です」
「私抜きで、魔法の修行をしたり、していませんか?」
「していません。貴女、意外と疑り深いですね。いくら魔王相手とは言え、それくらいは信用して貰いたい物です。悲しいじゃないですか」
「悲しい……?」
「当たり前ですよ。こっちは貴女の帰りを信じて約束を守っているのに、肝心の貴女が私達を信じていないんですから。言い方は悪いですが――」
考え、言葉を選ぶシャーフーチ。
「裏切られるのが怖いから、自分が先に裏切ってやろう。そんな事をしている人を見たら、誰だって悲しいと感じます。若く純粋なあの三人なら、特に」
「ぐ……」
セレバーナは反論出来ない。
神学校で友達が一人しか居なかった原因はそれだった。
信頼した相手に裏切られるのが嫌だったから、自分から誰かに歩み寄る事をしなかったのだ。
相手から歩み寄られても、いつか裏切られるのではないかと思うと深い仲になれなかった。
だから、丁度良い距離で付き合い続けられた唯一の友人でさえも、本当は信頼していなかった。
実の父親に裏切られ、殺され掛けた心の傷がそうさせていた自覚は有る。
治そうと思った事も有ったが、切っ掛けが無かったから特に何もしなかった。
天才と称されてからは神学校主席の権力を利用してやろうと言う相手の下心が透けて見える様になったので、余計に他人を信用しなくなったせいも有る。
遺跡で魔法の修行を始めてからは生きるのに必死で忘れていた感情だったが、衣食住に不自由の無い入院生活で穏やかに本を読んでいたから悪い病気が蘇っていた様だ。
悪い、病気……?
もしや、そっちが本当の……?
「――そうだ。あの三人をここに呼びましょうか?本人達に直接聞けば、それは間違い無く真実でしょうから」
思い付いたシャーフーチは、膝の水を払いながら立ち上がった。
そして、指を鳴らそうとする形で右手を差し出す。
「や、止めてください!それだけは許してください!」
顔を上げ、懇願するセレバーナ。
基本的に無表情な少女が初めて見せる必死な形相にシャーフーチは面食らう。
「おや、なぜですか。貴女が慌てるなんて珍しい」
視線を逸らしたセレバーナは、冷えて真っ白だった頬を染める。
「彼女達は強い、からです」
サコは身体を張って親子の運命に立ち向かった。
イヤナは空腹でも笑顔を絶やさず、貧しい日々に絶望したりしない。
ペルルドールは真実を求めると言う信念の為にひとつの街を救った。
「それに引き換え、私はこの体たらくです」
死に怯え、仲間を信じられず、手術を怖がり、我を忘れて逃げている。
ここまで追い詰められなければ、治すべき病気の事も気付けなかった。
ものぐさな師にも、無意識ながらも王都までご足労願ってしまった。
「こんな姿を彼女達に見られたら、恥ずかしくて死んでしまう。死ななくても、合せる顔が無くなってしまう。遺跡に帰れなくなってしまう」
「分かりましたよ。呼びません」
「ありがとうございます」
頭を下げて礼を言うセレバーナのつむじを見るシャーフーチ。
ツインテールになっておらず、黒髪が雨を吸って頭皮にくっ付いているので、その頭は本当に小さい。
こんなに小さい子だったのか。
小さな子だと言う事は知っていたのだが、普段の自信満々な態度が身体を大きく見せていたのかも知れない。
「また逃げる様な事が有るのなら、次は指輪を外してから逃げなさい。今の貴女なら外す事が出来るでしょう」
指輪を外す。
それはシャーフーチの弟子を辞めると言う事。
つまり、次は助けてくれないと暗に言っているのだ。
それも当然だ。
仲間の修行を止めてまで入院させてくれたのに、肝心の手術から逃げる者を救う師は居ない。
こうして様子を見に来てくれているだけでも、最大限に甘々な恩情だろう。
魔王のクセに、ユキ先生並みに情が深い。
「いえ。逃げるのは止めにします。彼女達が私を信じてくれているのに私が裏切ったら、それこそ……」
私を殺そうとした父と同じレベルの、最低クラスの人間になってしまう。
しかし、ここで逃げても彼女達は私を許してくれるだろう。
私が父を許す気でいる様に。
何だかんだと言っても彼女達は気の置けない仲間だし、父は唯一生きている肉親なのだから。
だが、それに甘えてはだめだ。
私は強くならなけれならない。
そう思ったら、可笑しくて笑みが零れてしまった。
父が私を迎えに来ない真意がやっと分かったから、笑ってしまった。
ブルーライトの名は有名なので、犯罪を犯したらニュースになる。
良い事をしても噂が広がるだろう。
しかしそんな話は聞かない。
つまり、彼はきっとどこかで発明か研究をしている。
私の親なら、祖父の子なら、きっとそうするはず。
もしもそうならその行動は所属するチームの機密情報になるので、彼の居場所が分からないのも当然だろう。
どうせその気は無いくせに、越えられない自覚が有るくせに、祖父を越えようとするプライドを捨て切れていないのだ。
そんなつまらないプライドを生きる希望にしているに違いない。
酷い親だ。
しかし、私も父を捜す気が無いのだからお互い様か。
私にも自分の実力のみで祖父を越えたいと願うプライドが有るし。
似た者親子、だ。
「何が可笑しいんです?」
シャーフーチの質問を無視するかの様にスープを啜るセレバーナ。
質素なのに、本当に美味しい。
「いえ。こんなに美味しい料理が食べられなくなるのは残念だと思ったら、つい。帰れなくなるのは勿体無いです」
「……そうですね」
弟子の笑顔を見たシャーフーチは、声の調子を和らげて訊く。
この子はもう大丈夫だ。
「ところで、セレバーナ。貴女、お守りの紙片をどうしましたか?あれが捨てられたと判断したので私はここに来た訳ですが」
「あれは破かないとダメなのでは?」
「正式な使い方はそうです。ですが、破く事が出来ない場合、願いを込めて捨てるだけでも良いんです。でも貴女は何も願ってませんよね?」
スプーンを置き、考えるセレバーナ。
「ふむ……紙片は病室に置いたままです。恐らく、全てを捨てる覚悟で逃げ出した為、捨てられたと判断されたんでしょう」
「ああ、なるほど。そう言う捨てられ方も有るんですね。道理で分からない訳だ」
シャーフーチは空を仰ぐ。
数日は止みそうもない雨雲。
「では病院に戻り、紙片を処分してください。経過はどうあれ、貴女はアレを使った訳ですから」
「はい。ただ捨てるだけで良いんですか?破った方が良いんですか?」
「どちらでも。それで、ですね」
「……?」
言い淀むシャーフーチを不思議そうに見上げるセレバーナ。
金色の瞳にも光が戻っている。
「貴女を助けたので、私は報酬を貰わないといけないのですが」
「助けて貰ったとは思えませんが。いや、指輪の修復をして頂いたので、助けられてはいるのか」
セレバーナは、ピンクでウサギ模様のパジャマのポケットを探る。
しかし濡れているせいで手が入れられず、仕方なく上から叩く様に中身を確かめる。
「しまった。無一文だ。うーむ、私とした事が余程動転していたと思える。あの本まで捨てるつもりだったとは」
「あの本とは?」
「遺跡に行った時に唯一持っていた本です。王都に向かって出発する時も持っていました。覚えていませんか?」
「ああ、確かに大きな本を一冊持っていましたね。大切な物なんですか?」
「あれは祖父の発明日記です。機械が進歩した今となっては古くて役に立ちませんが、私にとっては大切な物なんです。祖父の自筆が遺っているので」
「しかし、やはり何も持っていませんか。困りましたね」
シャーフーチの情けない顔を見たセレバーナが立ち上がった。
酷く濡れたパジャマから雨水が滴り落ちる。
「仕方ありません。報酬はこのスープでいかがでしょう。食べ掛けで申し訳ありませんが」
「えー……。そんな物貰ってどうしろと言うんですか」
本気で嫌がるシャーフーチ。
「何を仰います。このスープは仲間達の想いが籠っている、私の宝物です。お金以上の価値が有りますよ」
「物は言い様ですね。まぁ良いでしょう。他に手段が無い様ですので、受け取ります」
スープ皿を受け取ったシャーフーチは諦めた様に溜息を吐く。
「では、私は病院に戻ります。きっと怒られるので気は重いですか」
少女らしい笑顔をしたセレバーナは、妙に量の多い黒髪を絞った。
滝の様に水が落ちる。
「怒られる様な事をしたので、甘んじてお受けなさい。これはサービスです」
シャーフーチが指を鳴らすと、セレバーナの髪とパジャマが一瞬で渇いた。
「おお。身体が軽くなった」
「貴女の頭上に有る魔法の傘は、後十分くらいしか持ちません。急いで戻りなさい」
「はい。ご迷惑をお掛けしました」
深々と頭を下げるセレバーナに頷いて見せたシャーフーチは、指を鳴らして姿を消した。




