22
清潔なベッドに腰掛けたセレバーナは、力無く溜息を吐いた。
「もしも指輪が自壊したら、私はどこに行けば良いのかな……」
その呟きに応える様にドアがノックされた。
タイミングの良さに驚いて顔を上げるセレバーナ。
「!?……ど、どうぞ」
入って来たのは、金の紋章付きの白いローブを着た中年の女性だった。
「おお、ユキ先生」
無表情のまま客の訪問を喜んだセレバーナは、立ち上がって迎える。
「調子はどうですか?セレバーナさん。はい、お見舞いです」
ユキ先生は紙で組まれた白い箱を応接セットのテーブルに置いた。
「検査と薬の毎日にうんざりしていますよ。付き添いが帰ってしまったので本を買いに出る事も出来ませんしね」
客にソファーを勧めたセレバーナは、お茶を淹れると断ってから隣室に有るキッチンに行った。
「お構い無く。――ヘンソンさんはお帰りになられたのですか?」
「彼女には彼女の修行が有りますから。修行の場での生活の為に野菜を育てていますので、その世話も有りますし」
セレバーナは、まだ熱いヤカンに水を足してガスの火を点ける。
「そうですか。では、これはちょっと多かったですかね」
白い箱を開けるユキ先生。
中身は五個のエクレア。
足が速いお菓子なので今日中に平らげなければならない。
「大丈夫です。私が食べます。味もそっけもない病人食にうんざりしていますから、余裕で全部食べられます」
「あらあら。小食だった貴女がそんな事を言うなんて」
柔らかく笑ったユキ先生は、セレバーナが居るキッチンに移動した。
そして棚から小皿を二枚取り出す。
「今日私が来たのは、手術の同意書にサインする為です」
背の低いセレバーナが金色の瞳でユキ先生を見上げる。
「同意書、ですか?」
「はい。手術をするには必要な物なのです。本来なら家族や親族が書く物なのですが、神学校で後見人をしていた私でも良いとの事なので」
「ん……?もしかすると、入院する時に書いたあの書類に血縁無しと書いたせいで、先生の方に話が行ってしまったのですか?」
「そうなりますね。最果ての村の方の先生には、私が断った場合に手紙を送る予定だったそうです。最果てが遠過ぎるので仕方の無い判断ですね」
「申し訳有りません、ユキ先生。お手数を掛けてしまって」
姿勢を正したセレバーナは、深々と頭を下げる。
「良いんですよ。ですが、やはりお父様には連絡していないんですね」
セレバーナはヤカンの口に視線を移す。
湯気が立っているが、お茶に適した温度になるにはもう少し待たなければならない。
「……はい」
「まだ許せませんか」
「許すも許さないも、私は彼の居場所を知りません。興信所に頼めばすぐに見付かるでしょうが、私がお金を使って探すのは違う気がします」
金の瞳で湯気を見詰めるセレバーナ。
失礼だと承知しているが、先生の顔を見れない。
「神学校時代に彼が私を迎えに来たのなら、実家に帰ったかも知れません。神学校を辞めなかったかも知れません。……ですが、彼はとうとう来なかった」
ユキ先生は喋り続ける元生徒のつむじを見る。
ツインテールの分け目は相変わらずキッチリしている。
「私が天才と呼ばれる様になった時、私はもう彼とは会えない事を覚悟しました。彼のコンプレックスは本物の天才である祖父の影でしたからね」
ヤカンの口から登る白い湯気の勢いが増して行く。
「天才になりたくてなれなかった彼は、噂で私の立ち位置を知り、私を嫌悪しているでしょう。迎えに来ないのは、きっとそう言う事でしょう」
ユキ先生は、ローブの下に忍ばせている教師の証が彫り込まれている十字星のペンダントをそっと指で押さえ、心の中で女神に救いを求めた。
そうしてから口を開く。
「セレバーナさんは、天才と称される事が嫌でしたか?」
訊かれたセレバーナはガスの火を止めた。
お湯が沸く音が無くなり、キッチンが静かになる。
「いいえ。私は自分の努力を卑下しません。祖父も、自分のやりたい事の為に努力した結果、自然と名前が売れただけだと思いますし」
ユキ先生に微笑みを向けるセレバーナ。
「それに、そのお陰でこんな良い部屋に泊れるんですし」
ポットにお茶を淹れたセレバーナは、ユキ先生と共に応接セットに戻る。
「この様に良くして貰った恩返しは、父親にではなく、神学校でもなく、社会に向けてする様になってしまったんです。それが『期待に応える』と言う事です」
背が低いセレバーナは、立った状態でふたつのカップにお茶を注ぐ。
座った姿勢では対面のカップに手が届かない。
「もっとも、彼がちゃんとした父親でしたら、そもそもユキ先生に後見人をお願いせずに済んだのですが」
「良いのですよ。生徒のお世話をするのが教師の役割であり、そして私の喜びですから」
ソファーに座ったユキ先生は、女神の様な笑みで言う。
「ありがとうございます。魔法の方の師匠に聞かせてやりたい。彼は引き篭もりなので、余程の事が無いと呼び付ける事が出来ないので」
「貴女の話によると、魔王、なのですよね。貴女の師匠は。どんなお方なのですか?」
ユキ先生はエクレアを小皿に乗せ、セレバーナの前に置く。
ツインテールの頭を下げながら対面に座るセレバーナ。
「マンガ好きの怠け者です。薄い本も大量に買い込んでいるので、ペルルドールに気持ち悪がられています」
「薄い本とは何ですか?」
セレバーナは言葉に詰まり、顎を引く。
神学校の真面目な教師であるユキ先生に何と説明したら良い物か。
考えながら口を開く。
「私も真ん中辺りの一ページだけを軽く見ただけですから正確ではないかも知れませんが」
再び考え、噛み砕く様に言う。
「本屋で売っているマンガのキャラクターに性的ないたずらをしたりするマンガを第三者が同人形式で描いた、下品極まりない物です」
「ああ、なるほど……。存在は知っています。作者ではない者が勝手に著作を利用しているのが問題になっていると新聞に書いてありましたから」
ユキ先生は良い歳こいて頬を染める。
まぁ、聖職者には刺激の強い話だからしょうがないか。
「ご存知でしたか。――まぁ、彼は本物の魔王の様ですから、弟子達全員が彼を信用していません。なので大丈夫です。今のところは」
イヤナだけはかなり信用している感じに見えるが、心配は無いだろう。
彼女の存在は遺跡の生活に必要不可欠である事をシャーフーチも理解しているだろうから、イヤナを傷付けたりはしない筈だ。
薄い本的な意味で手を出されたりするのが一番の不安だが、呼ばれなければ一階に降りて来ないし、全員の部屋の鍵を強化しているので、多分大丈夫だろう。
「なら良いのですが……」
「一応、魔法も使える様になりました。キーサンソン先生がこの部屋で治癒魔法を使っていたので、きっと私にも使えるでしょう」
半目になったセレバーナは、自分の分のエクレアが透明になったイメージを思い描く。
すると美味しそうなエクレアが小皿の上から消えた。
「出来ました」
これなら小まめに魔法を使えば指輪の崩壊を先延ばしに出来るかも知れない。
気付くのがちょっと遅かったが、心臓の負担になる恐れも有るし、結果的にはこれで良かったと思う。
検査の邪魔になるかも知れないので、魔法の修行は程々にしておこう。
「素晴らしいです、セレバーナさん。貴女には魔法の才能も有るんですね」
小さく拍手するユキ先生。
「ありがとうございます。見えなくなっているだけで、実際に消えた訳ではありません。では、頂きます」
セレバーナはパントマイムの様にエクレアを食べる。
一見ふざけている様に見えるが、小さな唇にチョコと生クリームが付いているので、本当に食べている事が分かる。
「セレバーナさんは、魔法を習って何を成したいのですか?魔法使いになりたい訳ではないでしょう?」
ユキ先生は普通に見えている自分の分のエクレアを食べる。
「自分の枠を広げる為に、目標が無くなってしまった神学校を出たのですが」
お茶を啜るセレバーナ。
うん、会心の味。
「今は成したい事を見付けられなくても良いと思っています。手術の結果次第では、間も無くこの世とのお別れになる訳ですし」
「大丈夫ですよ、セレバーナさん。最高の病院と最高のお医者様が貴女の味方なのですから。貴女は助かります」
「味方……?私の……?」
セレバーナは、思いもよらない概念に面食らった。
誰かに利用されまいと常に気を張っていた自分に、唯一の友達さえも信用せずに深い付き合いをしなかった自分に、命を救ってくれる味方が居るのか。
「勿論、私達神学校も貴女の味方です。魔法の修行を共にしているお仲間達もそうでしょう?」
「そう、ですね」
病気の事を隠していた神学校が味方かどうかは分からないが、ユキ先生は信頼出来る。
それに、イヤナ、サコ、ペルルドール。
彼女達は損得無しに付き合える掛け替えの無い仲間だ。
シャーフーチは、どうなんだろうな。
ここで無条件で信用出来ないとは、つくづくどうしようもない師匠だ。
「確認です。セレバーナさんのお父様の代わりに、私が手術の同意書にサインしても宜しいですか?」
「はい。お願いします」
「分かりました。これからサインして来ますね。――ですが、意地になってお父様を避けているのなら、それはとても不幸な事ですよ?」
ユキ先生が立ち上がりながら言う。
「それは父に言ってください。私は被害者です。でも、父が謝るのなら私は蟠り無く許しますので、無関心でもありませんし、意地にもなっていません」
「そうですか……。では、この辺で。また来ますよ」
「入院生活はとても退屈なので、来て頂けると凄く嬉しいです。おみやげ、とても美味しかったです。ありがとうございました」
少し悲しそうな表情になったセレバーナも立ち上がり、部屋を後にするユキ先生に深く頭を下げた。




