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イヤナは自室のベッドに座って赤いノートを開いていた。
やっと涙が止まったから。
そのページには、自分の下手な文字でこう書かれていた。
『がんばってしゅぎょうをして、みどりのてのせんざいのうりょくをつかって』
それで書くのを止めていた。
続きは照れ臭くて書けなかったのだ。
自分の事だから、どう書こうとしていたかを知っている。
ウェンダの家に嫁に入って、あの広い畑を切り盛りする、と書こうとしていたのだ。
今から考えると、何を舞い上がっていたんだろうか。
何を勘違いしてたんだろうか。
身分も名字も無い最下層の娘が豪農の家に入れる訳は無いのに。
ぽたり、とノートに涙が落ちた。
思い返すと、ウェンダは特別イヤナの気を引こうとしていた訳じゃない。
自分の家の畑を手伝ってくれているバイトの子をねぎらい、優しくしてくれていただけだ。
それなのに勘違いしていた自分が全部悪い。
「私、バカだから……」
涙の滴でふやけたページを切り取り、細かく千切って窓から捨てた。
無数の紙片が千尋の谷に落ちて行く。
風が吹き、不規則に飛ばされながら。
その様子を眺めていたらドアがノックされた。
不意な物音に驚くイヤナ。
「イヤナ。落ち着いたらリビングに来なさい」
ドアの向こうで男の人が厳しく言った。
「お師匠様……」
「良いですか?必ずですよ」
「……はい」
ドアの前に居た気配が足音と共に去って行く。
それで気持ちが紛れたせいか、ふと空腹を感じた。
「あ、いけない!晩御飯の準備を忘れてた!」
一旦地下に行って井戸水で顔を洗ったイヤナは、小走りでリビングに入る。
円卓の上座にシャーフーチが座っていて、キッチンが何やら騒がしい。
仲間達が料理をしている様だが、慣れていないのでひとつひとつの手順を相談しながらやっている。
「夕食は彼女達に任せましょう。イヤナ。座ってください」
「はい……」
イヤナは自分の定位置に座る。
「一般人に向けてテレパシーを使ったそうですね。話を聞く限りでは無意識の内の読心術の様ですが。まぁ、同じ物です」
「はい……私、調子に乗っちゃって……申し訳、ありません……」
頭を下げるイヤナ。
充血した目が円卓の木目をなぞる。
「それは仕方がなグエッ」
キッチンから金髪美少女が出て来ようとしたが、小さな手がワンピースの首根っこを捕まえて奥へと引き摺って行った。
その奥の方から小声の言い合いが聞こえて来るが無視をする。
「他人の心を覗く事がどんなに危険か。身に染みて理解出来たでしょう」
「はい」
「今回はこの程度で済みましたが、下手をすれば貴女の心は壊れていた。涙が止まらないのはその影響です」
「え……?」
頬を触ると涙で濡れていた。
止まったと思っていたのに。
「ショックを受ける事で、自分と他人の心と意識と記憶を区別しているんです。それで良いんです」
「良く、分かりません、けど」
イヤナは土臭くてボロいドレスの袖で顔を拭う。
「分かっていたらこんな事故は起きません。とにかく、イヤナは絶対にしてはいけない事をした。それを自覚し、同じ過ちを繰り返さない様に気をつけなさい」
「はい……」
「では、禁を破ったイヤナに罰を与えましょう。師である私と視線を合わせ、沙汰を受け入れなさい」
イヤナは涙に濡れた顔を上げた。
灰色のローブを着ているシャーフーチの顔は涙のせいで歪んで見えたが、しっかりと視線を合わせた。
「明日からも、今まで通り、下の村へ手伝いに行きなさい。そして、何も知らない振りをしなさい」
「え……?」
「貴女が心を読んだ男性三人は、その事実を知らないからです。貴女が知らない振りをすれば、その事実は無かった事になります」
「そう、なんですか?」
頷くシャーフーチ。
「それはとても辛い事だとは思いますが、だからこそ罰になります。そして、それはイヤナの心を正常に保つ効果も有ります」
「私の、心……」
「そうです。目の前に問題の人物が居れば、問答無用で彼等と自分は別人なんだと認識出来るでしょう?」
「はい……」
「そうする事によって、今回の間違いで負った心の傷が癒えるのです。良いですね?」
「はい。明日もバイトに行きます」
頷くと、やっと涙が止まった。
さすがお師匠様だ。
「では、夕飯にしましょうか。みなさん、もう入って来ても良いですよ」
最初にペルルドールがリビングに入って来て、レースのハンカチをイヤナに渡した。
「これを使ってください」
「ありがとう」
次に大皿に盛ったガーリックラスクを持ったセレバーナと、干し肉の塩スープの鍋を持ったサコがリビングに入って来た。
「コラ、ペルルドール。皿を出さないか」
セレバーナに叱られたペルルドールが「いけない」と言いながらキッチンに戻る。
「料理は調理実習でやっただけだからな。味に自信は無い」
大皿をテーブルに置いたセレバーナは、無表情で腕を組む。
「私もこんなのしか作れなくて。サバイバル料理みたいで恥ずかしい」
イヤナが鍋敷きを円卓に置き、その上に鍋を下すサコ。
食器を持って来たペルルドールが皿を並べ、いつもより遅めの夕食が始まる。
「この恵みを女神に感謝します」
セレバーナとペルルドールは、習慣である食前の祈りをする。
それが済んでから、五人はラスクを齧る。
「どうだろう……?」
セレバーナは、珍しく不安そうに全員の顔色を伺っている。
「美味しいよ。ガーリックの香りが凄く生きてる」
イヤナが微笑んで言う。
しかし、物を食べた事が引き金になって再び涙が流れ出す。
「ホントだ、美味しい。私のスープはどうかな?」
サコは、ハンカチで顔を覆っているイヤナを気にしない様にしてスープを食べる。
「ちょっと、しょっぱい?でも美味しいですわ」
ペルルドールもイヤナを気にしないで食べる。
そうして、どうにも居心地の悪い夕食が進んで行った。




